概要
「忘却より」(原題 Ex Oblivione、ラテン語で「忘却より」の意)は、ラヴクラフトが1920/21年に書いた散文詩風の掌編です[2]。語り手は「私」とだけ記され、名前は明かされません。現実の些事に追い詰められた「私」が眠りのなかに美を求め、繰り返し訪れるようになった一つの夢の情景――金色の谷、影の茂み、青銅の小さな門を持つ古い壁――をめぐって物語は進みます。事件らしい事件はほとんどなく、語り手の独白と、夢に見た風景の描写が本文の大部分を占めています。
物語の後半では、夢都市ザカリオンで見つけた黄ばんだパピルスと、壁の向こうへ通じる門を開くという薬が語られます。「私」はついにその薬を飲んで門をくぐりますが、そこに待っていたのは陸も海もない、人のいない果てしない空虚でした。生を「短く侘しい一時間」とみなし、忘却への回帰を安らぎとして描く結末です[1]。
作品情報
- 原題: Ex Oblivione
- 執筆: 1920/21年(年譜の表記のまま)[2]
- 初出: 『The United Amateur』第20巻第4号、1921年3月、59–60ページ[3]
- 分量: 約700語(公式アーカイブ本文を機械集計)
- 語り: 一人称(名前不明)。最後の日々を迎え、夢のなかに安らぎを求める人物
- 舞台: 現実の描写はほとんどなく、大半は眠りのなかで訪れる金色の谷、影の茂み、青銅の門のある壁、および夢都市ザカリオン
- 主題: 目覚めている生の苦しみと、眠り・夢・忘却への希求
登場神格・用語
神格は登場しません。作中に出るのは地名と事物だけです。
- ザカリオン — 夢のなかに存在する都市。「私」はここで、かつてこの街に住んでいた「夢の賢者たち」の思考を記した黄ばんだパピルスを見つけます
- 青銅の小さな門 — 蔦に覆われた高い壁に穿たれた門。開けば二度と戻れない夢の国へ通じるとされます
- 薬 — 門を開き、「私」をその先へ押し通す力を持つとされる物質。それが何であるか、本文に説明はありません
あらすじ
眠りへの逃避
最後の日々が迫り、現実の些事が拷問のように「私」を狂気へ追いやり始めたとき、語り手は眠りのなかに安らぎを見出します。夢のなかでは生では得られなかった美を見つけ、古い庭園や魔法の森をさまよいました。ある時は南から呼ぶ声を聞いて見知らぬ星々の下を果てしなく船で渡り、またある時は地下を流れる暗い川を小舟で下って、紫の黄昏と虹色の四阿(あずまや)、枯れることのない薔薇が咲く別世界にたどり着きます。さらに別の時には、金色の谷を抜けて影の茂みと廃墟へ至り、最後に古い蔓に覆われた巨大な壁と、そこに穿たれた小さな青銅の門に行き当たりました[1]。
尽きない門への渇望
「私」はその後も何度も同じ谷を訪れ、巨木が奇怪にねじれ、地面が湿って古い神殿の苔むした石をのぞかせる薄明かりのなかに、次第に長く留まるようになります。目覚めている日々が単調な灰色さで耐え難くなるにつれ、「私」は谷と茂みを永遠の住処にできないかと夢想するようになりました。青銅の門を見つめるたび、その先には一度入れば二度と戻れない夢の国が広がっていると感じ、毎晩隠された掛け金を探し続けます。そして壁の向こうの領域は長く続くばかりでなく、より美しく輝かしいはずだと自分に言い聞かせました[1]。
ザカリオンの啓示と薬
やがて夢都市ザカリオンを訪れた「私」は、かつてその街に住み、目覚めた世界に生まれるには賢すぎたという「夢の賢者たち」の思考を記した黄ばんだパピルスを見つけます。そこには金色の谷や神殿のある聖なる茂み、青銅の門を持つ高い壁についての伝承が記されていました。自分が通い続けた光景と重なると悟った「私」は、長い時間をかけてパピルスを読みふけります。賢者たちの記述は一致せず、門の向こうの驚異を華やかに書く者もいれば、恐怖と失望を語る者もいました。「私」はどちらを信じるべきか分からないまま、それでも未知の国へ渡りたいという思いを募らせます。「疑念と秘密こそが誘惑の中の誘惑であり、いかなる新しい恐怖も、ありふれた日常の拷問より恐ろしくはあり得ない」と考えたためです。そして門を開き自分を押し通す力を持つという薬について知り、次に目覚めたときにそれを飲もうと決意しました[1]。
門の向こう
昨夜、「私」はついにその薬を飲み、夢見心地のまま金色の谷と影の茂みへと漂い出ます。今回、古い壁にたどり着くと、青銅の小さな門が開きかけているのが見えました。門の向こうからは巨木のねじれた枝と埋もれた神殿の頂を不気味に照らす光が漏れ、「私」は歌うような心地で漂いながら、二度と戻れない国の栄光を待ち望みます。しかし門が大きく開き、薬と夢の魔力に押されてその先へ通り抜けたとき、あらゆる光景と栄光はそこで尽きていました。新しい領域には陸も海もなく、ただ人のいない果てしない虚空が広がっているだけだったのです。かつて望んだよりも幸福な気持ちで、「私」は「悪鬼たる生」がわずか短く侘しい一時間のために自分を呼び出す前にいた、あの本来の水晶のような忘却の無限へと再び溶け込んでいきました[1]。
読みどころと注目テーマ
苦痛の比喩から始まる小品
冒頭の「拷問者が犠牲者の体の一点に絶え間なく滴らせる水滴」という直喩は、本作全体の基調を作っています。些細なことの反復が人を追い詰めるという発想です。この一文に続く夢の描写――南へ向かう船旅、地下を流れる川、紫の黄昏の国――はいずれも穏やかで美しいものばかりで、夢想的な散文詩としての色合いを強く感じさせます[1]。
門の先に待っていた空虚
本作は、夢の国の門を開けば栄光が待っているという期待を積み重ねたうえで、その期待をくつがえす構成を取っています。ザカリオンの賢者たちの記述にも「恐怖と失望」を語る声が混じっていましたが、「私」はそれでも門を選びました。実際に門の先で待っていたのは、陸も海もない「人のいない果てしない空虚」です。それでも語り手は「かつて望んだよりも幸福」だったと述べており、忘却そのものを苦しみからの解放として受け止めていることが読み取れます[1]。
相反する伝承と語り手の選択
黄ばんだパピルスに記された夢の賢者たちの言葉は一枚岩ではありません。門の向こうの驚異を語る者もいれば、恐怖と失望を語る者もいたと本文は伝えています。「私」はどちらが正しいか判断できないまま、それでも「疑念と秘密こそが誘惑の中の誘惑」だと考えて薬を飲む決意を固めます。結果を確かめる前に選択してしまう語り手の姿は、本作の短さのなかでも印象に残る場面です[1]。
執筆背景と影響
「忘却より」は、ラヴクラフトの年譜において1920/21年執筆とされる作品です[2]。初出は1921年3月発行の『The United Amateur』第20巻第4号(59–60ページ)でした[3]。それ以上の成立事情、発表当時の反応、後の作品への影響については、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “Ex Oblivione” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/eo.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(1920/21年)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘Ex Oblivione'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/eo.aspx初出『The United Amateur』第20巻第4号(1921年3月)59–60ページの出典。


