概要
「エリュクスの壁のなかで」は、H・P・ラヴクラフトがケネス・スターリングとの合作で書いた短編です[1]。舞台は地球からの入植が進む金星で、語り手はこれから作成する報告のための記録だと日誌を書き起こします。
Before I try to rest I will set down these notes in preparation for the report I must make. What I have found is so singular, and so contrary to all past experience and expectations, that it deserves a very careful description.(訳: 休む前に、私はこれから作成しなければならない報告のための覚え書きを記しておく。私が見つけたものはあまりに異様で、過去のあらゆる経験や予想にことごとく反しており、細心の記述に値する)[1]
金星産の発光クリスタルを追って密林の奥のエリュクス高原に踏み込んだ語り手は、無屈折・無反射の完全に透明な建造物に迷い込み、先に同じ道をたどった同僚の死体を見つけます。日誌は途切れて終わり、巻末に添えられたミラー隊長の捜索報告によって、書き手の正体と結末が明かされます[1]。邦題「エリュクスの壁のなかで」は、東京創元社「ラヴクラフト全集 別巻〈下〉」の目次表記による[4]。
作品情報
- 執筆: 1936年1月、ケネス・スターリングとの合作[2]
- 発表: 1939年10月、『ウィアード・テイルズ』誌 vol.34 no.4[3]
- 邦題: 「エリュクスの壁のなかで」(東京創元社刊『ラヴクラフト全集 別巻〈下〉』大瀧啓裕訳、目次表記による)[4]
- 分量: 本文約11,763語(2026年9月5日、公式アーカイブの公開テキストを実測)[1]
- 舞台: 金星、クリスタル会社の入植拠点テラ・ノヴァ、内陸のエリュクス高原(エリュキニアン高地)[1]
- 形式: 語り手(工作員A-49)の日誌と、巻末のミラー隊長による捜索報告の二部構成[1]
- 主題タグ: 帝国主義批判、人間中心主義とその揺らぎ、見えないものの恐怖、皮肉な結末
登場神格・用語
原典本文を通読しても、クトゥルフ神話の神格の名は一つも登場しません[1]。舞台と道具立てはあくまで金星への入植を描くSFの枠組みで、以下はいずれも本作固有の固有名詞です。
- 金星(Venus) — 作中の舞台。地球からの入植が進んでおり、人類側の拠点はクリスタル会社の入植地テラ・ノヴァです[1]
- エリュクス/エリュキニアン高地(Eryx / Erycinian Highland) — 語り手が踏み込む内陸の高原の名。50年前にマツガワが空から測量した地図でこう呼ばれています[1]
This, without question, was the plateau mapped by Matsugawa from the air fifty years ago, and called on our maps “Eryx” or the “Erycinian Highland.”(訳: これは疑いなく、50年前にマツガワが空から測量し、我々の地図で「エリュクス」あるいは「エリュキニアン高地」と呼ばれている高原だった)[1]
- クリスタル — 金星産の発光物質。鶏卵ほどの大きさながら都市を1年温めるほどの力を秘めているとされ、地球側はこれを資源として狙います。トカゲ人間は神殿の台座に祀って祈るだけで、技術には用いません[1]
- クリスタル会社(Crystal Company)/テラ・ノヴァ(Terra Nova) — 地球側の採掘組織と、その金星入植拠点の名です[1]
- トカゲ人間(man-lizards) — 金星の先住種族。直立し、胸に触手を持ち、都市や神殿、そして本作の核心である見えない建造物までも築く力を持ちますが、語り手は当初これを「人間とは呼べない」と見下します[1]
- 見えない建造物(透明な迷宮) — 平原中央のクリスタルを囲む、硬く冷たいがガラスのように無屈折・無反射で完全に透明な物質でできた構造物。語り手は人類にもトカゲ人間にも建造不可能だと考え、金星をかつて支配していた忘れられた種族の遺構ではないかと推測します[1]
あらすじ
着任から高原へ。 語り手は地球時間3月18日、金星暦VI,9に金星の主着陸地に到着し、ミラー隊の下でマスク訓練を受け、2日後に任務可能と判定されます[1]。VI,12の夜明け、クリスタル会社の基地テラ・ノヴァを発ち、アンダーソンが空から測量した南寄りのルートをたどりますが、密林のぬかるみと重いオキシジェンマスクに苦しめられます[1]。道中では金星特有の「蜃気楼植物」が放つガスによる幻覚にも遭遇し、脈動する光と時間感覚の乱れを経験します[1]。トカゲ人間について語り手は当初、都市を築く技能を認めながらも次のように切り捨てています。
One can’t call the damned things men for all their “cities” and towers. They haven’t any skill except building—and using swords and poison darts—and I don’t believe their so-called “cities” mean much more than ant-hills or beaver-dams. I doubt if they even have a real language—all the talk about psychological communication through those tentacles down their chests strikes me as bunk. What misleads people is their upright posture; just an accidental physical resemblance to terrestrial man.(訳: 奴らの「都市」や塔がどうであれ、あんな忌々しい連中を人間と呼ぶことはできない。奴らには建築の技能――それに剣と毒矢の扱い――以外に何もなく、いわゆる「都市」も蟻塚やビーバーの巣以上の意味はないと思う。本当の言語を持っているかすら疑わしい――胸の触手を通じた心理的な意思疎通うんぬんの話は、すべて出まかせだと私は思っている。人々を惑わせているのは奴らの直立姿勢だ――地球人への、単なる偶然の外見的一致にすぎない)[1]
たどり着いた高原は、50年前にマツガワが測量した地図で「エリュクス」あるいは「エリュキニアン高地」と呼ばれる場所でした[1]。
壁との衝突。 平原の中央近くにひときわ輝くクリスタルを視認した語り手は、それに近づこうとして突然、目に見えない力に胸と拳を打たれ、泥の中に転倒します[1]。手で触れた面は硬く冷たいものの、屈折も反射も一切示しません。
It was indeed hard and glassy, and of a curious coldness as contrasted with the air around. I strained my eyesight to the utmost in an effort to glimpse some trace of the obstructing substance, but could discern nothing whatsoever. There was not even any evidence of refractive power as judged by the aspect of the landscape ahead. Absence of reflective power was proved by the lack of a glowing image of the sun at any point.(訳: それは確かに硬くガラスのようで、周囲の空気と対照的な奇妙な冷たさを持っていた。私はその障害物の痕跡を少しでも見ようと目を凝らしたが、何一つ見て取れなかった。前方の景色の様子から判断する限り、屈折の証拠すらまったく無かった。太陽の輝く像がどの地点にも映り込まないことから、反射する力も無いことが証明された)[1]
ドワイトの死体。 泥の上の塚の正体は、クリスタル会社の革スーツを着た男の死体でした。右手には、語り手を誘き寄せた巨大なクリスタルが握られています[1]。語り手はそれを、前年に基地で見かけたベテラン隊員ドワイトだと認識します[1]。金星の大気は酸素マスクなしでは30秒と持たず、ドワイトのマスクのベルトが緩んで外れたのだろうと語り手は推測し、震えながらもクリスタルを自分のスーツのポーチにしまい込みます[1]。
忘れられた種族。 この透明な建造物が人類にもトカゲ人間にも作れないと考えた語り手は、金星をかつて支配していた「忘れられた種族」の遺構ではないかと推測します。
Did a forgotten race of highly evolved beings precede the man-lizards as masters of Venus? Despite their elaborately built cities, it seemed hard to credit the pseudo-reptiles with anything of this kind. There must have been another race aeons ago, of which this is perhaps the last relique.(訳: トカゲ人間より前に、高度に進化した忘れられた種族が金星の支配者だったのではないか。あの入念に築かれた都市があるとはいえ、この疑似爬虫類にこれほどのものを成し遂げられるとは信じがたかった。太古の昔、別の種族がいたに違いない――これはおそらくその最後の遺物だ)[1]
見えない通路は中心に向かって螺旋状に狭まっており、語り手は姿の無い構造物の中を手探りで進む体験の異様さを日誌に書き留めます[1]。
円陣。 森から現れたトカゲ人間は4、5体から始まり、やがて十数体に増えていきます[1]。だが彼らは語り手を襲わず、見えない壁の外側に円陣を組んで無言のまま見つめ、触手を振ったり頭を頷かせたりするだけでした[1]。
罠だったという気づき。 ここで語り手は、この建物が偶然の産物ではなかったことを悟ります。
Beyond doubt, the place was a genuine maze—a labyrinth deliberately built by these hellish beings whose craft and mentality I had so badly underestimated. Might I not have suspected this before, knowing of their uncanny architectural skill? The purpose was all too plain. It was a trap—a trap set to catch human beings, and with the crystal spheroid as bait.(訳: 疑いなく、この場所は本物の迷宮だった――私がひどく見くびっていた、あの地獄のような存在たちの技巧と知性によって意図的に築かれた迷路だ。奴らの不気味なまでの建築の技を知っていたのに、なぜもっと早く疑わなかったのか。目的はあまりに明白だった。これは罠――クリスタルの球体を餌にして、人間を捕らえるために仕掛けられた罠だったのだ)[1]
トカゲ人間たちは、クリスタルを奪いに来る人間との争いにおいて、人間自身の強欲を利用する策に転じていたのです[1]。この気づきに伴い、語り手はドワイトの死因も見直します。事故でマスクが外れたのではなく、出口をわずか手前で見つけられずに絶望し、自ら外した自殺だったのだろうと[1]。
態度の軟化、そして途切れる記録。 死を前にした語り手は、それまで見下していたトカゲ人間への態度を軟化させます。
As the end approaches I feel more kindly toward the things. In the scale of cosmic entity who can say which species stands higher, or more nearly approaches a space-wide organic norm—theirs or mine?(訳: 終わりが近づくにつれ、私はあの連中に対してより好意的な気持ちを抱くようになった。宇宙的な存在の尺度で見て、どちらの種が上位にあるのか、あるいは宇宙規模の生物的基準により近いのか――奴らのものか、私のものか――誰に言えよう)[1]
そして記録の末尾で、語り手は次のように書き残します。
I hope it may teach our race to let those shining crystals stay where they are. They belong to Venus alone. Our planet does not truly need them, and I believe we have violated some obscure and mysterious law—some law buried deep in the arcana of the cosmos—in our attempts to take them. Who can tell what dark, potent, and widespread forces spur on these reptilian things who guard their treasure so strangely?(訳: この記録が、あの輝くクリスタルをあるがままにしておくべきだと我々の種族に教えることを願う。あれは金星だけに属するものだ。我々の星は本当にはそれを必要としていないのに、それを奪おうとして、宇宙の奥に埋もれた、ある不可解で神秘的な掟を犯してしまったのだと私は思う。あれほど奇妙な仕方で自分たちの宝を守るこの爬虫類の存在たちを、いったい何が――どれほど暗く強大で広範な力が――突き動かしているのか、誰に分かろう)[1]
日誌は「暗い。ひどく弱っている」という記述のあと、彼らがまだ戸口の周りで笑い、跳ね回り、あの忌まわしい発光松明を灯し始めていると書き残し、そこから場面が飛んで、トカゲ人間が去っていくように見え、空に光を見た気がするという一文で途切れます[1]。
巻末の報告。 添えられたミラー隊長の報告書で、日誌の書き手が「工作員A-49、ケントン・J・スタンフィールド」だったことが初めて明かされます。
Our Operative A-49, Kenton J. Stanfield of 5317 Marshall Street, Richmond, Va., left Terra Nova early on VI, 12, for a short-term trip indicated by detector. Due back 13th or 14th. Did not appear by evening of 15th, so Scouting Plane FR-58 with five men under my command set out at 8 p.m. to follow route with detector.(訳: 我が工作員A-49、ヴァージニア州リッチモンド、マーシャル街5317番地のケントン・J・スタンフィールドは、探知機が示す短期の任務のためVI,12の早朝にテラ・ノヴァを発った。13日か14日には戻る予定だった。15日の夕方になっても姿を現さなかったため、私の指揮下にある偵察機FR-58が5名の部下とともに午後8時、探知機で経路をたどるべく出発した)[1]
先住民一掃と建造物の爆破。 両者の遺体をテラ・ノヴァへ持ち帰ったのち、報告はさらに先の方針へと進みます。スタンフィールドが日誌の前半(まだ正気だった箇所)で述べていた提案を採用し、先住民を一掃するのに十分な部隊を送り込む、そうすれば確保できるクリスタルの量にほとんど限界がなくなる、という計画です[1]。あわせて、見えない建造物についてもダイヤモンドドリルで削り、破壊班がダイナマイトによる爆破の準備を進めており、済んだときには何も残らないだろうという見通しも記されています[1]。死を前にした語り手が日誌の末尾で残した「クリスタルは金星に属するものであり、そのままにしておくべきだ」という願いは、この一段落によって直後に踏みにじられる形になっています[1]。
報告は、さらにもう一つの皮肉な結末で締めくくられます。
Stanfield could have reached the outside entrance by walking 22 or 23 feet if he had found the opening which lay directly behind him—an opening which he overlooked in his exhaustion and despair.(訳: スタンフィールドは、もし自分のすぐ背後にあった開口部を見つけていれば、わずか22ないし23フィート歩くだけで外の出口にたどり着けたはずだった――疲労と絶望のあまり、彼が見落とした開口部を)[1]
読みどころと注目テーマ
帝国主義批判という物語の芯。 末尾の「クリスタルは金星に属するものであり、人類はそれを求めて何か根源的な掟を犯した」という語り手の述懐は[1]、資源を求めて他者の土地に踏み込む側の視点そのものが裁かれる構成になっています。冒頭近くでトカゲ人間を「人間とは呼べない」と切り捨てていた同じ語り手が[1]、死を前にしてその態度を後退させ、優劣の判定を放棄するに至る過程は[1]、批判の対象が「彼ら」ではなく語り手自身の側にあったことを示しています。だが、この反省は届きません。ミラー隊長の報告は、まだ正気だった頃のスタンフィールド自身の提案を採用する形で先住民一掃の部隊派遣を決め、見えない建造物もダイナマイトで跡形なく爆破する方針を記しており[1]、語り手の最後の願いとは正反対の結末が、日誌のすぐあとに置かれる構成になっています。
知性は建築の腕前で測れるか。 語り手は当初、トカゲ人間の「都市」を蟻塚やビーバーの巣程度のものと決めつけていました[1]。だが彼を閉じ込めたのは、まさにそのトカゲ人間の手になる、人類には作れない見えない迷宮でした[1]。語り手の推測(忘れられた種族の遺構ではないか)[1]と、ミラー隊長の捜索報告が示唆する実際の仕掛け(トカゲ人間自身が築いた罠)[1]との落差が、語り手の見下しがどれほど根拠薄弱だったかを浮き彫りにします。
日誌と報告書のずれが生む皮肉。 本作は、破局に向かって書き続けられる一人称の日誌と、巻末の第三者による淡々とした捜索報告という二つの語りで構成されています[1]。日誌の書き手の正体(工作員A-49、ケントン・J・スタンフィールド)は最後まで明かされず[1]、報告書が初めてそれを明かすと同時に、出口までわずか22、23フィートだったという救いのない距離を告げて物語を閉じます[1]。感情の高まりを綴った日誌のあとに、事務的な報告文でとどめを刺す構成そのものが、この短編の読みどころです。
執筆背景と影響
「エリュクスの壁のなかで」は1936年1月、共作者ケネス・スターリングとの合作として執筆されました[2]。発表は1939年10月、『ウィアード・テイルズ』誌vol.34 no.4[3]。
合作という制作形態は、後の「彼方よりの挑戦」にも見られます[2]。異星の知性を扱った作品としては「時間からの影」や「闇に囁くもの」もありますが、本作にユゴス星やイスの偉大なる種族のような固有の神話体系は登場しません[1]。著者については「H・P・ラヴクラフト」の項を参照してください。
邦訳は東京創元社「ラヴクラフト全集 別巻〈下〉」(大瀧啓裕訳)に収録され、目次には「ケニス・スターリング『エリュクスの壁のなかで』」と表記されています[4]。当サイトの邦題もこれに基づきます。
出典
[1] H. P. Lovecraft & Kenneth Sterling, “In the Walls of Eryx” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/iwe.aspx[2] “Lovecraft’s Fiction – Chronological Order”(作品年表。1936年1月、ケネス・スターリングとの合作として本作を記録)。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/chrono.aspx[3] “In the Walls of Eryx” データページ(Publication History: “Weird Tales vol. 34, no. 4 (October 1939): 50–68”)。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/iwe.aspx[4] 「ラヴクラフト全集 別巻〈下〉」書誌ページ(目次に「ケニス・スターリング『エリュクスの壁のなかで』」と表記)。東京創元社. http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488523091


