概要
クラーク・アシュトン・スミスによる火星幻想SF。原住民アイハイ族が「悪の神」と崇める地底の存在ヴルトゥームが、実は異星から追放された亡命者であったことが明かされる、信仰とSFの境界を扱う一篇である[1]。スミスの数少ない火星ものの一つであり、宗教的恐怖の背後に科学的・SF的な説明を与えるという着想は、同時代のパルプ雑誌の中でも異色の存在感を放っている。
作品情報
- 執筆・発表年: 1935年9月発表(「ウィアード・テイルズ」誌)
- 主題タグ: 火星幻想、千年の眠り、信仰対象の正体、異星の亡命者
登場神格・用語
- ヴルトゥーム(初出典)
あらすじ
地球人パイロットのヘインズと、取材のため火星を訪れていた作家チャンラーは、資金が尽きて火星の都市イグナル=ヴァスで無一文のまま立ち往生していた。そこへ九、十フィートはあろうかという巨躯のアイハイ族の男が現れ、二人を橋のたもとから路地の奥、そして地下深くへと案内する[2]。エレベーターのような装置で幾マイルも下降した先に広がっていたのは、赤熱する光球に照らされた巨大な地底都市ラヴォルモスだった。二人はここで、アイハイ族の伝承に語られる「千年ごとに眠りから覚める悪の神ヴルトゥーム」が実在し、この地下世界を統べていることを知らされる。
ヴルトゥームは声だけの存在として二人に語りかけ、麻薬にも似た芳香と幻惑の音楽で二人の意識を眩ませながら、自らを「神でも悪魔でもない、遠い過去に別の宇宙から追放された亡命者」だと名乗る[3]。ヴルトゥームは、地球侵略の下準備として、モルヒネやコカインをしのぐ依存性を持つ未知の薬物をアイハイ族の伝道者として地球へ広める協力を持ちかけ、見返りに莫大な富を約束する。快楽の幻影に酔いしれたチャンラーはこの誘惑に傾くが、ヘインズは冷静さを失わず抵抗を続ける。二人は地下都市を案内されながら、永劫の時を止めることなく稼働し続ける機械群や、ヴルトゥームの眷属たちが実験を続ける工房を目の当たりにする。
誘惑を拒んだヘインズは、囚われの身となったチャンラーを助けるべく引き返す途中、地底都市の眠りを司る「眠りの壺」(ボトルズ・オブ・スリープ)を発見し、これを打ち砕いてガスを解き放つ。ヴルトゥームは、みずからの科学と生命力をもってすればガスに抗い目覚め続けることもできたはずだが、「全ての説得の手管は失敗したが、大したことではない。私は眠りに身を委ねよう」と告げ、あえて千年の眠りに戻ることを選ぶ[4]。だがそれは単純な勝利では終わらない。ヴルトゥームは「お前たちの短い生にとって、それは永遠となるだろう。私が目覚める頃、お前たちは傍らに横たわるわずかな塵と化しているだろう」とも告げ、ヘインズとチャンラーもろとも、地底都市ラヴォルモス全体が音もなく眠りに沈んでいくところで物語は幕を閉じる。地球侵略の企ては千年先へ先送りされたに過ぎず、信仰の対象として崇められてきた「悪の神」の正体が、故郷を追われた一人の亡命者に過ぎなかったと判明してもなお、脅威そのものは根絶されずに眠り続けているという後味の悪さが、本作の結末を単純な勧善懲悪から遠ざけている。
読みどころと注目テーマ
信仰対象の正体が科学的に説明される構成、幻惑的な地底の庭の描写、二人の地球人の対照的な選択――特に、ヴルトゥームが二人に見せる幻覚(故郷の楽園を思わせる花々と音楽)は、麻薬による陶酔と信仰的法悦を意図的に重ね合わせて描いており、「魅了されること」自体の恐ろしさを読者に体感させる仕掛けになっている。
執筆背景と影響
スミスの数少ない火星もの。「神として崇められる存在」の内実を異星の知性体として描き切ることで、宗教的恐怖とSF的恐怖の境界を問いかける一篇として位置づけられる。1930年代のパルプ雑誌では、地球外生命体による侵略・薬物・洗脳といったモチーフがしばしば扱われたが、本作はそれらを火星の古代信仰という体裁で包み込み、最後まで「ヴルトゥームは本当に神ではないのか」という疑念をわずかに残したまま幕を引く点に独自性がある。
出典
- [1] “To a cursory observer, it might have seemed that Bob Haines and Paul Septimus Chanler had little enough in common, other than the predicament of being stranded without funds on an alien world.”(訳: 「一見しただけの観察者の目には、ボブ・ヘインズとポール・セプティマス・チャンラーには、見知らぬ惑星で無一文のまま立ち往生しているという境遇以外、ほとんど共通点がないように映ったかもしれない」) — Clark Ashton Smith, “Vulthoom”(Weird Tales、1935年9月号)冒頭部, Wikisource(原文) ↩
- [2] “…Chanler and Haines were astounded, for they had never before seen a Martian of such prodigious stature.”(訳: 「……チャンラーとヘインズは驚愕した。これほど途方もない体躯の火星人を、二人はこれまで一度も見たことがなかったからだ」) — 同上, Wikisource(原文) ↩
- [3] “I am Vulthoom, and thou art mine from the beginning of worlds, and shalt be mine until the end….”(訳: 「我こそはヴルトゥームなり。そなたは世界の始まりより我がものであり、終わりの時までも我がものであり続けるだろう……」) — ヴルトゥームが幻惑の中でチャンラーに語りかける言葉。同上, Wikisource(原文) ↩
- [4] “All my methods of persuasion have failed; but it matters little. I shall yield myself to slumber, though I could remain awake if I wished…For you, whose life-term is so brief, they will become—eternity…you, who dared to interfere, will lie beside me then as a little dust…and the dust will be swept away.”(訳: 「私の説得の手管はすべて失敗した。だが大したことではない。私は眠りに身を委ねよう、望めば目覚め続けることもできるのだが……お前たちのように寿命の短い者にとって、それは──永遠となるだろう……あえて邪魔立てしたお前たちは、その頃には私の傍らでわずかな塵と化しているだろう……そしてその塵も、いずれ払い落とされる」) — 同上、末尾, Wikisource(原文) ↩



