小説 — Azathoth

アザトース

驚異を失った都市に暮らす男が、現実と夢幻の境を破り宇宙の彼方へ運ばれる未完の断章。アザトースの名の初出。

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アザトース

「世界に老いが訪れ、人々の心から驚異が失われたとき——煙る空へ聳える陰気で醜い灰色の塔が立ち並ぶ都市が生まれ、その影の下では誰も太陽や春の花咲く牧場を夢見ることができなくなったとき——学問が大地から美の衣をはぎ取り、詩人たちがもはや、曇り澱んだ内向きの目で見た歪んだ幻影しか歌わなくなったとき——これらのことが起こり、子供らしい希望が永遠に消え去ったとき、そこにひとりの男がいた。彼は人生を離れ、世界の夢が逃げ去った彼方の空間への探求へと旅立った。」

— H・P・ラヴクラフト「アザトース」(未完の断章、1922年執筆/1938年発表、「Leaves」誌、遺稿)冒頭部

概要

驚異を失った灰色の都市に暮らす男が、星々への憧れの果てに現実と夢幻の境を破り、宇宙の彼方へ運ばれていく場面で唐突に途切れる未完の断章。1922年6月に執筆され、ラヴクラフトの生前には発表されず、没後の1938年、盟友R・H・バーロウが編集した同人誌「Leaves」第2号(1938/39年冬号)に遺稿として初めて掲載された[1]。邪神アザトースの名がフィクションに初めて記された記念碑的な一編である。

作品情報

  • 原題: Azathoth
  • 執筆・発表年: 1922年6月執筆(未完)/1938年発表(同人誌「Leaves」第2号、遺稿)
  • 主題タグ: 未完の断章、驚異を失った都市という発端、邪神アザトースの名の初出

登場神格・用語

あらすじ

魔法や驚異が失われ、灰色の高層建築ばかりが立ち並ぶ味気ない都市に暮らす無名の男が主人公。学問は大地から美の衣をはぎ取り、詩人はもはや歪んだ幻影しか歌わなくなった世界で、彼だけは子供じみた希望を捨てきれずにいる[2]。彼は毎晩、部屋の窓から中庭越しに小さく見える星々を眺め続けるうち、次第に星の名を覚え、想像の中でそれを追うようになる。壁と窓しか見えないこの部屋に閉じ込められたまま夢見て読書ばかりしていれば正気を失いかねないと知りつつも、彼は夜ごと外へ身を乗り出し、覚めた世界の彼方にある秘めた景色の断片を追い求め続ける。ある夜ついに現実と夢幻の境が破れ、金の塵をまとった紫の奔流や、名状しがたい深淵の生き物たちを宿す阿片のような大洋が部屋になだれ込み、男の魂は肉体を離れて茫漠たる宇宙の彼方へと運ばれていく。数えることのできない歳月を経て、彼は緑の夜明けの岸辺――蓮の花の香りと赤いスイレンに彩られた岸辺――に、そっと横たえられる、という場面で本文は唐突に途切れる[3]。これは未完の断章であり、これ以上の結末は存在しない。

読みどころと注目テーマ

驚異を失った都市という文明批評的な発端、現実と夢幻の境が破れる幻視的な描写、そして未完のまま途切れる結末――特に、後年の宇宙的恐怖の代名詞となる「アザトース」という名が、本文中には一度も登場せず表題にのみ掲げられているという事実は、この断章を読む上で欠かせない視点である。ここで描かれるのは恐怖の対象そのものではなく、あくまで「驚異を失った男が驚異を取り戻す」までの幻視の過程であり、その先に何が待っているかは読者の想像に委ねられたまま閉じている。

執筆背景と影響

本文中に「アザトース」という固有名は一度も登場せず、表題にのみ現れる点に注意。それでも文献上は、この神格の名がフィクション作品に初めて記された記念碑的な断章とされる。ウィリアム・ベックフォードの『ヴァテック』を範とした「東方風幻想譚」として構想されていたと伝えられる。ラヴクラフトはこの断章を仕上げることなく手元に留め置いたが、生前から親交のあった若き文通相手R・H・バーロウが没後にこれを託され、1938年発表の同人誌「Leaves」第2号に遺稿として収めたことで、初めて読者の目に触れることとなった。同誌はバーロウがラヴクラフトと生前に企画を語り合っていた雑誌であり、創刊号(1937年夏)発行の翌年、ラヴクラフトを追悼する意味合いも込めて刊行された第2号への掲載である[1]

出典

  • [1] “Leaves (two issues – Summer 1937; Winter 1938/39).”(訳: 「『Leaves』誌(全2号——1937年夏号、1938/39年冬号)」)、”Azathoth”(written June 1922, published in Leaves, Vol.2, p.107, 1938)の書誌情報。R・H・バーロウはラヴクラフトと生前に本誌の企画を語り合っていた。— 出典: Wikisource「Author: Howard Phillips Lovecraft」書誌情報および「R. H. Barlow」の項, 該当ページ
  • [2] “When age fell upon the world, and wonder went out of the minds of men; when grey cities reared to smoky skies tall towers grim and ugly, in whose shadow none might dream of the sun or of spring’s flowering meads; when learning stripped earth of her mantle of beauty, and poets sang no more save of twisted phantoms seen with bleared and inward-looking eyes…”(訳: 「世界に老いが訪れ、人々の心から驚異が失われたとき。灰色の都市が煙る空へと陰惨で醜い高塔をそびえ立たせ、その影の下では誰も太陽や春の花咲く野を夢見なくなったとき。学問が大地から美の衣をはぎ取り、詩人がもはや、かすんだ内向きの目で見た歪んだ幻影しか歌わなくなったとき……」) — H. P. Lovecraft, “Azathoth”(1922年執筆/1938年発表)冒頭, 公式アーカイブ
  • [3] “…in the course of many cycles they tenderly left him sleeping on a green sunrise shore; a green shore fragrant with lotus-blossoms and starred by red camalotes.”(訳: 「……幾多の周期を経て、それらは彼をやさしく、緑の夜明けの岸辺――蓮の花の香りに満ち、赤いスイレンが星のように散らばる緑の岸辺――に、眠ったまま横たえた」) — 同上、断章の結び, 公式アーカイブ
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