概要
ラヴクラフトと文通のあった同時代作家ヘンリー・カットナーによる一篇。かつて処刑された魔女アビー・プリンの旧宅を舞台に、劇中の『ネクロノミコン』引用によって存在が裏付けられる旧支配者ニョグタの召喚と撃退を描く。1937年5月号の『Weird Tales』に発表された作品で、米国での著作権更新記録が確認できないため、Project Gutenbergでパブリックドメインとして公開されている[1]。
作品情報
- 執筆・発表年: 1937年5月発表(「ウィアード・テイルズ」誌)
- 主題タグ: 死した魔女の意志、劇中偽典による裏付け、召喚と撃退
登場神格・用語
あらすじ
作家志望の青年カーソンは、家賃の安さに惹かれてセイラムの古い屋敷を借りるが、そこはかつて処刑された魔女アビゲイル・プリンの旧宅だった。地下室でネズミを追ううち、カーソンは壁の奥に隠された円形の地下室――床一面に青紫を基調とした奇怪な幾何学模様のモザイクを敷き詰めた「魔女の間」を発見する。噂を聞きつけたオカルティストのリーが訪ねてきて、モザイクの中心にある黒石の円盤が「思考の焦点」として働く危険な装置であり、カーソンの精神が集中できるという感覚こそがアビー・プリンの罠である――と警告するが、執筆が捗ることに満足しているカーソンはこれを取り合わない。
その夜、カーソンは夢を見るが内容を思い出せない。翌朝、街で出くわした死体――恐怖のあまり息絶えたポーランド人労働者――に動揺していると、リーはアビー・プリンの墓が何者かに暴かれ、杭が引き抜かれていたことを告げる。リーは劇中作『ネクロノミコン』の一節を示し、「暗黒に巣くう者」ニョグタと、それを撃退する「輪の付いた十字架」「ヴァチ=ヴィラジの呪文」「ティッコウンの霊薬」について説明する[2]。カーソンは半信半疑のまま「魔女の間」で眠り込み、目覚めると、壁の奥からミイラのように干からびた老女の亡骸が這い出し、床の鉄の円盤を呪文で持ち上げようとしているのを目撃する。円盤の下からは黒く不定形なアメーバ状の実体がにじみ出し始める。
そこへ駆けつけたリーが十字架を掲げ、「ヤ・ナ・カディシュトゥ・ニルグリ……」という呪文を唱えると、黒い実体は薬品を浴びせられたように腐食して縮み、干からびた亡骸を巻き込みながら円盤の下へと引き戻っていく。円盤が轟音とともに閉じ、カーソンは意識を失う。物語の結末で、カーソンは完成間近だった小説を焼き捨て、二度と「魔女の間」の出来事を語らないと誓うが、最後に目にした光景――円盤の縁から突き出た、干からびた鉤爪のような手――だけは、誰にも打ち明けられないまま胸に刻み込む。
読みどころと注目テーマ
死者の意志による精神支配、劇中偽典によるモンスターの裏付けという型、召喚・撃退のクライマックス――特に、幾何学模様のモザイクが「思考の焦点」として機能するという着想は、超常現象を疑似科学的な音響理論(ウィスパリング・ギャラリー)になぞらえて説明する場面に表れており、カットナーらしい理屈っぽい語り口が恐怖を補強している。物語の後日談として、カーソンは事件後も筆を折らず、『黒き狂気の神』と題する新作を書き上げるが、編集者からは「見事だが陰惨すぎて誰も読まないだろう」と評され、真相を打ち明けても夢の話として片付けられてしまう。この「体験した恐怖を誰にも信じてもらえない」という孤立感の描写は、報告者としての語り手が真実を語りながらも読者以外には理解者を持たないラヴクラフト作品群の常套と重なる一方、最後の一文で明かされる「鉄の円盤の縁から突き出た、干からびた鉤爪のような手」の目撃だけは、語り手自身にも封印されたまま終わる余韻の残し方が、本作の恐怖を締めくくる仕掛けになっている[3]。
執筆背景と影響
ラヴクラフト・サークルの様式(架空の魔道書からの引用でモンスターの由来を語る手法)を踏襲した一篇で、ニョグタはその後の後続作家によっても言及される旧支配者の一柱となった。カットナーが独自に作り出したこの神格は、単発の悪役に留まらず、後年のクトゥルフ神話体系に組み込まれる「地底の暗黒神」の系譜を代表する存在として扱われている。舞台がセイラムの魔女裁判という実在の歴史的事件と地続きに設定されている点も特徴で、1692年の魔女狩りで処刑されたはずのアビー・プリンが「杭を打たれても燃えなかった」という伝承を持つ点は、超自然的な存在が史実の隙間に潜んでいるというラヴクラフト・サークル特有の偽史的手法を踏襲している。カットナーは同時期にラヴクラフトと文通し、その添削・助言を受けながら作風を磨いた作家の一人であり、本作もそうした交流の中で書かれたウィアード・テイルズ系の一篇である。
出典
- [1] 書誌情報: Henry Kuttner, “The Salem Horror”, Weird Tales(1937年5月号、Popular Fiction Publishing Company刊)。Project Gutenberg版の編集注記は「この作品の米国著作権が更新された証拠は、綿密な調査によっても発見されなかった」と明記しており、パブリックドメインとして電子化されている。 — Project Gutenberg #76108 ↩
- [2] “Men know him as the Dweller in Darkness, that brother of the Old Ones called Nyogtha, the Thing that should not be…Only by the looped cross, by the Vach-Viraj incantation and by the Tikkoun elixir may he be driven back to the nighted caverns of hidden foulness where he dwelleth.”(訳: 「人はそれを〈暗闇に棲まうもの〉と呼ぶ――旧きものたちの同胞にしてニョグタと呼ばれる、あってはならぬものである……ただ輪の付いた十字架と、ヴァチ=ヴィラジの呪文と、ティッコウンの霊薬によってのみ、彼を、その棲み処である隠された穢れの夜の洞窟へと押し戻すことができる」) — 劇中作『ネクロノミコン』からの引用として作中に登場する一節。Henry Kuttner, “The Salem Horror”, Project Gutenberg #76108(全文) ↩
- [3] “…a hideous thing which Carson, in that last backward glance, had seen protruding from the edge of the iron disk, as though raised in ironic salute—a withered, claw-like hand!”(訳: 「……カーソンが最後に振り返った際に見た、鉄の円盤の縁から突き出た忌まわしいもの――それはまるで皮肉な敬礼のように掲げられた、干からびた鉤爪のような手であった」) — 同上、末尾, Project Gutenberg #76108(全文) ↩





