概要
「書物」は、語り手が自分の記憶の混乱ぶりを語るところから始まります。過去の年月が幾重にも広がって見えるときもあれば、今この瞬間だけが灰色の無定形な無限のなかに孤立しているように感じられるときもある、と語り手は言います。自分がどうやってこの言葉を伝えているのか、語り手自身にも定かではありません。それでもはっきりしているのは、すべての発端が水辺の古い店で見つけた一冊の虫食いの本にあるということ。
その本は表題も分からず、最初のページも失われていました。それでも終わりのほうを開くと、語り手の感覚を狂わせる何かが記されていたのです。店の老人が代金を受け取ろうとせず、次元と生と物質の限界を越える「門」への鍵――禁じられた詩句と行為の一覧を、ただで語り手に譲りました。その理由に語り手が気づくのは、ずっとあとになってから。本を抱えて水辺の路地を戻る道中には、何かに追われているような恐怖がありました。
語り手はやがて屋根裏部屋に閉じこもり、蝋燭の明かりのもとで本を読み、詩句の一節を唱えます。その瞬間から世界の見え方は元に戻らなくなり、語り手は自分だけに見える影を連れて歩くようになります。さらに深い儀式を試みた夜には見知らぬ都市の幻視にまで至りますが、原稿が途切れるのはその恐怖の場面のさなか。
作品情報
- 原題: The Book
- 執筆: 1933年末?(年譜の表記のまま)[2]
- 初出: 『Leaves』第2号、1938年、110–112ページ[3]
- 分量: 約1,200語(公式アーカイブ本文を機械集計)。未完
- 語り: 一人称の「私」。記憶の混乱を自覚しながら語る
- 舞台: 黒く油じみた川のほとりにある古い店、語り手が長く探求に使ってきた屋根裏部屋、そして詩句によって開かれる異界
- 主題: 出所不明の禁書、次元を越える「門」、門を通った代償として付きまとう影
登場神格・用語
本文に神格の名は登場しません。以下は作中に現れる固有の呼び名や事物です。
- 虫食いの本(原題不明): 早期のページが失われており、語り手も表題を知らない一冊。半ば狂った修道士の手によって、ラテン語の文言がアンシャル体で手書きされています。
- タータリーからの使者: 五重の円の儀式で唱える連禱を語り手にもたらしたとされる存在です。本文では姿の描写はなく、名前としてのみ触れられます。
- 九番目の詩句: 屋根裏部屋で語り手が声に出して唱えた一節。これを唱えた直後に屋根窓へ何かが触れる音が始まります。
- 五重の同心円の炎: 語り手が床に描き、その最奥に立って連禱を唱えた図形です。
あらすじ
川べりの古書店で虫食いの本を手に入れる
舞台は、霧が絶えず渦を巻く、黒く油じみた川のほとりの薄暗い店。「その場所はひどく古く、腐りかけた書物で埋まった天井までの棚が、窓のない奥の部屋やアルコーヴを通ってどこまでも続いていた」という描写のとおり、床にも書物の山が積まれ、語り手はその山のひとつからこの本を引き当てます。表題は分からず、早いページも欠けていましたが、終わりのほうで開いた本は語り手の感覚を狂わせるものを見せました。そこにあったのは、語り手が以前から断片的に読んでいた禁忌の詩句と行為の一覧であり、次元と生の限界を越える門への鍵でした。店の老人がにやりと笑いながら結んだのは、奇妙な手の印。代金を受け取ろうとはしませんでした。本を抱えて水辺の路地を戻る道では、忍び寄る足音に追われているような恐怖に襲われ、周囲の古い家並みまでもが悪意を宿しているように感じられます。それでも語り手は本の断片しか読まないまま持ち帰りました[1]。
屋根裏部屋の夜、九番目の詩句を唱える
語り手が本を最後まで読んだのは、長らく奇怪な探求にあててきた屋根裏部屋でした。深夜、蝋燭の明かりのもとで読み進め、遠くの鐘楼から時折鐘の音が届きます。語り手はその鐘の音を妙に注意深く数えていたと振り返ります。やがて詩句の九番目を声に出して唱えたとき、屋根の窓に何かが引っかくような音を立て始めました。震えながらもその意味を悟った語り手は、「門を通り抜けた者は必ず影を得て、二度と独りにはなれないのだ」と述べます。その夜を境に、語り手の見る世界には常にいくらかの過去といくらかの未来が入り混じるようになり、見慣れていたはずのものが異様に映るようになりました。犬は語り手を恐れるようになり、常に傍らを離れない影の存在を感じ取っていたと語り手は考えています[1]。
門の彼方の都市、そして途切れる原稿
新たな視覚に導かれて未知の書物や巻物を読み進めた語り手は、さらに深い儀式に踏み出します。床に五重の同心円の炎を描き、その最奥に立って、タータリーからの使者がもたらした連禱を唱えたのです。壁は溶け去り、黒い風に運ばれた語り手は底知れぬ灰色の深淵を渡り、はるか下方に見知らぬ山々の尖峰を見ました。やがて無数の星が見慣れぬ星座を描く暗黒の空間に至り、緑色に光る平原と、これまで見たことも読んだことも夢見たこともない様式の塔が並ぶ都市を見下ろします。都市に近づき、開けた場所に建つ石造りの四角い建物を目にした瞬間、語り手は激しい恐怖に襲われて悲鳴を上げて意識を失い、気づけば屋根裏部屋の床、五つの燐光を放つ円の上に倒れていました。この夜の光景そのものは以前とさほど変わっていませんが、外部の深淵と世界にこれまでになく近づいたという実感だけが、語り手をいっそう恐れさせます。原稿は、語り手が「二度と戻れない未知の深淵で、自分の肉体と地球から切り離されてしまうことは望みません」と記し、以後の呪文により慎重になったところで途切れています[1]。
読みどころと注目テーマ
混乱する記憶という語りの形式
「私の記憶はひどく混乱している」――これが冒頭の一文。語り手は自分の記憶の輪郭をつかめずにいます。過去が幾星霜にも広がって見える瞬間と、現在だけが孤立して浮かぶ瞬間が交互に訪れる、という書き出しは、この後の出来事すべてを「崩れかけた回想」として読ませる仕掛けです。家族がいたかどうかさえ「詳細はひどく曖昧」と留保されており、語り手の時間感覚そのものが、門をくぐった経験によってすでに壊れていることがうかがえます。
門を通る代償としての影
本作の中心には、「門を通り抜けた者は必ず影を得て、二度と独りにはなれない」という一行があります。禁書がもたらすのは、視界が広がる代わりに孤立を強いられるという取引です。犬が語り手を恐れるのも、周囲の人間に正体を明かせなくなるのも、すべてこの影に由来します。得たものと引き換えに失うものを具体的に描く点が、この断章の軸になっています。
途切れる原稿が生む余韻
「書物」は結末を欠いたまま終わります。石造りの建物を前にした恐怖の場面の直後、語り手は「以後は呪文に慎重になった」という一文を残して筆を置いており、その先で何が起きたのか、語り手が最終的にどうなったのかは本文からは分かりません。約1,200語という短さのなかで、川べりの店から屋根裏部屋、そして異界の都市へと舞台が一気に転換していく展開は、断章という形式そのものが読者に空白を残す作りになっています。
執筆背景と影響
公式年譜では執筆時期が「late 1933?」、すなわち疑問符付きの1933年末?と記されています[2]。発表は執筆から5年後の1938年、雑誌『Leaves』第2号の110–112ページで、著者の没後の掲載です[3]。なぜ未完のまま残されたのか、他作品との関係、後世における評価については、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Book” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/b.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(1933年末?)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘The Book'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/b.aspx初出『Leaves』第2号(1938年)110–112ページの出典。

