概要
ロンドンのグレイズ・インに、教会の鐘が鳴るたびに悲鳴を上げる老人が住んでいます。縞猫と二人きりで暮らし、周囲からは「害のない狂人」と呼ばれるこの男は、痩せて灰色に染み、皺だらけの姿をしていますが、見た目ほど歳を重ねてはいないと囁く者もいます。かつて学者・審美家として知られていた彼は、友人たちと縁を切り、10年前からこの部屋に身を隠していました。それまでどこにいたのかを、彼は誰にも語ろうとしません。
隣室に越してきた23歳の夢想家ウィリアムズだけが、この老人に強引に近づきます。老人が何かにおびえながら常に「見て、聞いて」いることに気づいたウィリアムズでしたが、深い話は決して引き出せませんでした。転機は、ウィリアムズが古書店で狂えるアラビア人アブドゥル・アルハザードの禁書『ネクロノミコン』を手に入れた夜に訪れます。老人はその書名を耳にした途端に気を失い、正気を取り戻すと、震える声で自らの秘密を語りはじめました。
老人の正体は第19代ノーサム男爵でした。彼の家系は、ローマ支配下のブリテンで異神の儀式に加わって軍団を追われた一人の軍団士官にまで遡ると伝えられています。幼い頃から城の古い一角で見た奇妙な夢、そして生きた経験にはない太古の記憶に取り憑かれてきたという彼の告白は、なおも続くはずのところで、原稿そのものが途切れたまま残されています。
作品情報
- 原題: The Descendant
- 執筆: 1926年?(年譜の表記のまま)[2]
- 初出: 『Leaves』第2号、1938年、107–110ページ[3]
- 分量: 約1,500語(公式アーカイブ本文を機械集計)。未完
- 語り: 三人称。若きウィリアムズの視点で始まる外枠の中に、ロード・ノーサム自身が「囁いて」語る回想が組み込まれる二重構造。原稿はノーサムの語りの途中で途切れる
- 舞台: ロンドン、グレイズ・イン。ノーサムの回想ではヨークシャー海岸のノーサム城、ローマ支配下のブリテンのリンドゥム、そしてアラビアの砂漠
- 主題: 血筋に刻まれた太古の記憶、禁書によって暴かれる秘密、逃れようとしても逃れられない過去
登場神格・用語
- ロード・ノーサム — 第19代準男爵。グレイズ・インで縞猫と暮らし、教会の鐘が鳴るたびに悲鳴を上げる、痩せて灰色に染んだ老人です。かつては学者・審美家として知られていましたが友人たちと縁を切り、10年前からこの部屋に身を隠していました。ハロウ校とオックスフォードで学んだことがうかがえる深い学識の持ち主で、ヨークシャー海岸の古い居城の第19代当主でもあります。
- ウィリアムズ — グレイズ・インに越してきた23歳の夢想家です。隣室のノーサムに宇宙的な「奇妙さ」を感じ取り、他の誰も踏み込まなかった友情を強引に築きます。16歳の頃からクトゥルー神話最大の禁書の噂を知っており、クレア・マーケットのユダヤ人の店でその一冊を安く手に入れました。
- ネクロノミコン — 「狂えるアラビア人アブドゥル・アルハザード」の禁断の書。生き残った写本はわずか5冊とされ、黒字体の書物を読みはじめることさえ恐れた管理者たちの手で厳重に保管されてきたと、ウィリアムズが少年時代に通った古書店主は語っていました。
- アブドゥル・アルハザード — 本文で「狂えるアラビア人」と呼ばれる『ネクロノミコン』の著者です。
- グナエウス・ガビニウス・カピト — 家系の言い伝えによれば、ローマ支配下のブリテンでリンドゥムに駐屯した第三アウグスタ軍団の軍団士官です。いかなる既知の宗教とも結びつかない儀式に加わったとして、指揮官の任を追われたと語られています。彼こそ、ノーサム家の血筋が遡るとされる祖先です。
- エルダー・サイン — ガビニウスが崖の洞窟で目にしたと伝えられる、異形の者たちが闇の中で作っていたしるしです。彼らは西方に沈んだ大地から生き残った最後の者たちだったと言い伝えられています。
- ノーサム城 — ヨークシャー海岸に建つノーサム家の居城です。石組みがハドリアヌスの壁の石工を思わせると本文は記しており、崖を穿った地下納骨所があるとの噂も語られます。
あらすじ
グレイズ・インの隣人
本文は「ロンドンには、教会の鐘が鳴ると悲鳴を上げる男がいる」と語り起こします。「彼は縞猫と二人きりで暮らし」、人々は彼を「害のない狂人」と呼んでいました。部屋には「もっとも月並みで幼稚な種類の本」が並び、彼は何時間もその頁に逃げ込もうとします。人生に求めるのはただ「考えないこと」であり、想像力を刺激するものはすべて疫病のように避けていました。痩せて灰色に染み、皺だらけのその男は、見た目よりずっと若いはずだと囁く者もいます。恐怖の「醜い爪」が彼を捉えており、物音がすれば目を見開き、額に汗を浮かべて怯えました。友人や仲間を避け、誰の問いにも答えようとしません。かつて彼を学者・審美家として知っていた人々は、今の彼を見るのは「実に痛ましい」と言い、彼が国を出たのか、どこかの物陰にひっそり沈んだだけなのか、誰にも分かりませんでした。グレイズ・インに越してきてから10年が経ちますが、それまでどこにいたのかを彼は一切語ろうとしませんでした。その沈黙が破られたのは、若きウィリアムズが『ネクロノミコン』を買ったあの夜でした。[1]
ウィリアムズは23歳の夢想家で、この古い建物に越してきたとき、隣室の灰色の老人に「奇妙さ」と「宇宙的な風」の気配を感じ取りました。他の古い友人でさえ強いなかった友情を、ウィリアムズは強引に築きます。この痩せこけた憔悴した見張り役兼聞き手の抱く怯えに、彼は驚かされました。老人が常に「見て、聞いて」いることは疑いようがなく、目と耳よりも心でそうしていたのだと本文は記します。教会の鐘が鳴ると、老人は耳をふさいで悲鳴を上げ、共に暮らす灰色の猫も、最後の一打が消えるまで声を合わせて唸りました。だがウィリアムズがどれほど試みても、老人に何か深い、隠された事柄を語らせることはできません。老人はその風貌にふさわしい態度を決して見せず、微笑と軽い口調を装って他愛のない話題を熱心にまくしたて、その声はやがて甲高く支離滅裂な裏声へと崩れていきました。ただし、その学識が深く行き届いていることは彼のごく些細な言葉の端々からも明らかで、ウィリアムズは彼がハロウ校とオックスフォードで学んだと聞いても驚きませんでした。後に判明したところでは、彼こそヨークシャー海岸に古い世襲の城を持つ、数々の奇談で知られるロード・ノーサムその人だったのです。しかしウィリアムズがその城や、ローマ起源とされる伝承について話を向けても、老人は城に何ら変わったところはないと言い張り、切り立った崖を穿ったと噂される地下納骨所の話題が出たときには、かん高く忍び笑いすら漏らしたのでした。[1]
『ネクロノミコン』の夜
事態が動いたのは、ウィリアムズが狂えるアラビア人アブドゥル・アルハザードの、忌まわしい『ネクロノミコン』を家に持ち帰った夜でした。ウィリアムズは16歳のとき、奇異なものへの憧れから、シャンドス街の老いた古書店主に問いを重ね、この恐るべき書物の存在を知りました。人々がこの書について語るとき、なぜ顔を青ざめさせるのか、彼はずっと不思議に思っていたのです。古書店主によれば、聖職者と立法者たちの怒りの布告を生き延びた写本はわずか5冊しか知られておらず、そのすべてが、黒字体を読みはじめることさえ恐れた管理者たちの手で、厳重に保管されているとのことでした。ところが今、ウィリアムズはついに入手可能な一冊を見つけ出し、しかも滑稽なほど安い値で自分のものにしていました。手に入れたのは、以前から奇妙な品をよく買っていたクレア・マーケットの見窄らしい一角にあるユダヤ人の店で、老いた店主が髭の中でにやりと笑ったようにさえ感じられたと本文は記します。革張りの分厚い表紙と真鍮の留め金は誰の目にも留まるほど目立っていたのに、値段はばかばかしいほど安いままでした。表題を一目見ただけでウィリアムズは有頂天になり、あいまいなラテン語の本文に添えられた図版のいくつかは、彼の脳裏に最も切迫した、そして不穏な記憶を呼び覚ましました。一刻も早くこの重い書物を家に持ち帰り、読み解きはじめねばならないと感じた彼は、性急なまでの慌ただしさで店を後にし、その背後で老いたユダヤ人が不気味に含み笑いを漏らしたのでした。[1]
だが部屋にたどり着いてみると、黒字体と崩れたラテン語の組み合わせは、語学者としての彼の力量には荷が重すぎました。ウィリアムズは不承不承ながら、あの奇妙な、怯えた隣人に助けを求めます。ロード・ノーサムはそのとき、縞猫に向かって他愛のない繰り言をつぶやいており、若者が部屋に入ってくると激しく身をすくめました。そして書物を目にするなり凄まじく身を震わせ、ウィリアムズがその表題を口にした瞬間、完全に気を失ってしまいました。正気を取り戻したノーサムが語りはじめたのは、自身の物語――友人に対して、あの呪われた書物を今すぐ焼き、その灰を広く撒き散らしてくれるようにと、切迫した囁き声で訴えながら語る、彼自身の「狂気の途方もない産物」でした。[1]
血に刻まれた系譜
「最初から何か間違ったところがあったに違いない」と、ロード・ノーサムは囁きます。ただし、彼が「探りすぎ」なければ、事はここまで至らなかったはずだとも語りました。彼は第19代の男爵であり、その家系の始まりは不快なほど遠く――漠然とした言い伝えを信じるなら、信じがたいほど遠く、サクソン以前の時代にまで遡ると伝えられています。家に伝わる話によれば、当時ローマ支配下のブリテンのリンドゥムに駐屯していた第三アウグスタ軍団の軍団士官、グナエウス・ガビニウス・カピトが、いかなる既知の宗教とも結びつかない儀式に加わったとして、指揮官の任を突如として追われたというのです。噂ではガビニウスは、崖沿いのある洞窟に迷い込み、そこで異形の者たちが闇の中で「エルダー・サイン」を結ぶ様を目撃したとされます。彼らはブリテン人たちが恐れる以外に知りようのない異形の者たちであり、西方に沈んだ大地からの生き残りの最後の者たちで、その大地が残したものといえば、ストーンヘンジを最大のものとする、ラースや環状列石や祠の点在する島々だけでした。ガビニウスがこの禁じられた洞窟の上に難攻不落の砦を築き、ピクト人、サクソン人、デーン人、ノルマン人のいずれもが滅ぼせなかった家系を興したという言い伝えにも、また、この家系からエドワード三世がノーサム男爵に叙した黒太子の勇猛な僚友・副官が出たという暗黙の前提にも、確かなことは何もありません。それでも、その話は幾度となく語り継がれ、実際、ノーサム城の石組みはハドリアヌスの壁の石工を思わせるほどよく似ていたのでした。[1]
子供の頃のロード・ノーサムは、城の古い一角で眠るたびに奇妙な夢を見ており、覚醒時の経験には属さない、半ば形をなさない情景や紋様や印象を、記憶の中に絶えず探し求める癖が身についていたと語ります。彼は人生を平板で満たされないものと感じる夢想家となり、かつて馴染みがあったはずなのに地上のどこにも見当たらない、奇妙な領域や結びつきを探し求める者となりました。この目に見える世界は広大で不穏な織物のほんの一原子に過ぎず、未知の領域が既知の領域のあらゆる点に迫り、浸透しているのだという感覚に満たされ、若き日から青年期にかけて、彼は正統な宗教とオカルトの神秘の両方の泉を汲み尽くしました。それでもどこにも安らぎと満足は見出せず、年を重ねるにつれて、人生の色褪せた単調さは彼をますます狂気へと駆り立てていきます。90年代には悪魔崇拝に手を染め、常に、科学の狭い視界と自然の変わらぬ退屈な法則からの逃避を約束するどんな学説や理論にも貪欲に手を伸ばしました。イグネイシャス・ドネリーによる奇想天外なアトランティス論を熱心に読み込み、チャールズ・フォートに先立つ幾人もの無名の先駆者たちの奇説にも心を奪われます。異常な驚異についてのかすかな村の噂話を追って幾里も旅をし、あるとき誰も目にしたことのない「名も無き都市」のかすかな伝聞を求めて、アラビアの砂漠へと分け入ったこともありました。どこかに、見つけさえすれば、彼の記憶の奥底でかすかに鳴り続ける木霊が導くあの外なる深淵へ自由に通じる、たやすい門があるはずだという、じらすような確信が彼の内に湧き上がっていました。それは目に見える世界のどこかにあるのかもしれず、あるいは彼自身の心と魂の中だけにあるのかもしれません。おそらく彼は、忘れられた次元における太古と未来の生へ自分を目覚めさせ、星々へ、そしてその彼方の無限と永遠へと自分を結びつけてくれるはずの、あの謎めいた鎖を、なかば探られぬままの自らの脳の内に抱えていたのでしょう――原稿はここで途切れており、続きは残されていません。[1]
読みどころと注目テーマ
悲鳴と沈黙の対比
冒頭で提示されるのは、教会の鐘に悲鳴で応える男が、同時に自分の過去については徹底して口を閉ざすという対比です。ウィリアムズにどれほど問われても、老人は「その風貌にふさわしい態度を決して見せず」、他愛のない話題を「熱心に、なりふり構わず」まくしたてます。その空虚な陽気さは長くは保たず、声は「甲高く支離滅裂な裏声」へと崩壊しました。何を語らずにいるかによって恐怖の輪郭が描かれる書き方に、この断片の緊張が集約されています。
血統に埋め込まれた記憶
ノーサムの告白の核にあるのは、幼少期の彼が生きた経験の中に持たなかったはずの記憶です。城の古い一角で見た「奇妙な夢」や、覚醒時の経験に属さない「半ば形をなさない情景」を、彼は物心つく頃から探し求める癖を身につけていました。それはリンドゥムの軍団士官ガビニウスにまで遡るとされる家系の伝承と重なり合い、血筋そのものに刻まれた何かを暗示します。ノーサム城の石組みがハドリアヌスの壁を思わせるという一文が、伝説と地続きの物証としてさりげなく置かれている点も見逃せません。
尽きない探求と、途切れた文
青年期のノーサムは、正統な宗教、オカルト、悪魔崇拝、ドネリーのアトランティス論、フォート的な奇説、そして誰も見た者のない「名も無き都市」を求めるアラビアの旅と、あらゆる方角へ手を伸ばし続けました。それでも安らぎは得られず、彼は「なかば探られぬままの自らの脳」の奥に、太古と未来の生へ自分を目覚めさせる鍵があるはずだという確信にたどり着きます。まさにその確信を語る一文の途中で、原稿そのものが途切れています。何がノーサムを最終的な恐怖に追い込んだのかは、本文には記されないまま残されました。
執筆背景と影響
公式年譜は執筆時期を「1926年?」と、疑問符付きで記しています[2]。発表は没後の1938年、同人誌『Leaves』第2号107–110ページで、原稿は本文の途中で終わる未完のままでした[3]。それ以外の成立の経緯や、未完となった事情、発表当時の反応については、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Descendant” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/de.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(1926年?)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘The Descendant'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/de.aspx初出『Leaves』第2号(1938年)107–110ページの出典。


