概要
ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(H.P. Lovecraft, 1890-1937)は、20世紀ホラー文学を根本から変えたアメリカの作家です。しかし生前は無名に近く、安定した出版社を持たず、パルプ雑誌への掲載と他者の作品改稿で生計を立てながら創作を続けました。彼の死後、特に1960年代以降、その影響力は急速に認識されるようになりました。
人生と創作の年表
1890年8月20日:誕生
- 午前9時、ロードアイランド州プロビデンスのエンジェル通り454番地(当時の番地は194番)の生家で生まれる[1]
- 母はサラ・スーザン・フィリップス・ラヴクラフト。1630年にマサチューセッツへ渡ったジョージ・フィリップスまで家系をさかのぼれたという[1]
- 父はウィンフィールド・スコット・ラヴクラフト。プロビデンスの銀器商ゴーラム社の巡回販売員だった[1]
1893年:父の発病
- ラヴクラフト3歳のとき、父がシカゴのホテルで倒れ、プロビデンスのバトラー病院へ移される。以後5年間そこにとどまり、1898年7月19日に死去した[1]
- ラヴクラフトは父が麻痺し昏睡状態にあると聞かされていたようだが、残された資料はそうでなかったことを示しており、死因は神経梅毒による麻痺性痴呆とみてほぼ間違いないとされる[1]
- 以後の養育は、母と二人の叔母、そしてとりわけ祖父ホイップル・ヴァン・ビューレン・フィリップス(著名な実業家)が担った[1]
幼少期:早熟
- 2歳で詩を暗唱し、3歳で読み書きを覚え、6、7歳で文章を書き始めた[1]
- 最初の熱中は『アラビアン・ナイト』で、5歳までに読了。このとき「アブドゥル・アルハザード」という筆名を自ら名乗っている——のちに『ネクロノミコン』の著者となる名である[1]
- 翌年にはギリシア神話へ関心が移る。現存する最初の文学作品は「The Poem of Ulysses」(1897年)で、『オデュッセイア』を88行の韻文に翻案したものである[1]
- 最初の物語とされる「The Noble Eavesdropper」(現存せず)は1896年までさかのぼる可能性がある[1]
- 怪奇への興味は祖父が育てた。ゴシック様式の怪談を即興で語って聞かせたという[1]
1908年:高校中退
- 卒業を目前にして神経衰弱に陥り、卒業資格を得ないまま学校を去る[1]
- このことと、結果としてブラウン大学へ進めなかったことは、後年まで彼にとって深い恥辱であり続けた。当代屈指の独学者であったにもかかわらず、である[1]
1908年-1913年:隠棲
- ほぼ隠者として過ごし、天文学への関心と詩作のほかはほとんど何もしなかった[1]
1912-1913年
- パルプ雑誌に批判的な手紙を送ったことがきっかけで、アマチュア出版活動に参加
- 詩や評論を執筆開始
1916年
- 最初の短編「錬金術師」をアマチュア出版物に発表
1917-1920年代
- Weird Tales誌が1923年に創刊され、ラヴクラフトの5つの短編が一度に買い取られる
- Weird Tales編集者に気に入られ、以降この雑誌が主要な発表の場となる
- この時期、クラーク・アシュトン・スミス、ロバート・E・ハワード、ロバート・ブロックなど、後に「ラヴクラフト・サークル」と呼ばれる作家たちと手紙による交流を深める
1919年-1921年:母の入院と死
- 母は心身の状態が悪化し、1919年に神経衰弱を起こしてバトラー病院へ入院。夫と同じく、二度とそこを出ることはなかった[1]
- ただし死因は病ではない。1921年5月24日、胆嚢手術の失敗による死去である[1]
1921年7月4日:ソニアとの出会い
1924年3月3日:結婚とニューヨーク
- ソニア・ハフト・グリーンと結婚。式のあと手紙で知らされた友人たちにとっては、驚きだったとされる[1]
- ブルックリンのソニアの部屋へ移る。当初の見通しは悪くなかった。ラヴクラフトは1923年創刊の『ウィアード・テイルズ』誌に初期短編が複数採用され、プロ作家としての足掛かりを得ていた。ソニアは五番街で帽子店を営んでいた[1]
- だが困難はすぐに訪れる。帽子店は倒産し、ラヴクラフトは『ウィアード・テイルズ』の姉妹誌を編集する話を(移住を伴うことなどから)断った[1]
1926-1928年
1930年代
- より長く複雑な作品を執筆するが、売却が困難に。生計を立てるため、他の作家の作品改稿や「幽霊執筆」で対価を得る
- この時期の主要作品(公式サイトの作品一覧が示す執筆時期):「狂気の山脈にて」(1931年2月-3月22日)、「インスマスの影」(1931年11月?-12月3日)、「闇をさまようもの」(1935年11月)[2]
- 1933年、叔母ガムウェル夫人とともにカレッジ通り66番地——ジョン・ヘイ図書館の裏手——へ移る(この家は現在プロスペクト通り65番地へ移築されている)[1]
1936年
- 親友で頻繁に文通していたロバート・E・ハワードが自殺。ラヴクラフトを精神的に深く傷つける
1937年3月10日-15日:死
- 病は腸の癌で、発見されたときには手の施しようがないほど進行していた[1]
- 1936年から37年の冬を痛みに耐えて過ごしたのち、3月10日にジェーン・ブラウン記念病院へ入院。その5日後に死去した[1]
- 3月18日、スワン・ポイント墓地のフィリップス家の墓所に埋葬される[1]
- 生前、彼にはまともな単行本が一冊もなかった(粗雑な造りの『インスマスの影』を別にすれば)。作品は膨大な数のアマチュア誌・パルプ誌に散らばったままだった[1]
1930年代:改稿仕事
- 後年の作品は長く複雑になり、売却が難しくなっていく[1]
- 生計は主に、他人の小説・詩・評論の「改稿(revision)」あるいは代作によって支えられた[1]
- 当サイトが扱う「永劫より」(ヘイゼル・ヒールド名義、1935年)も、この系列の仕事にあたる
1936年:ハワードの死
- もっとも親しい文通相手の一人だったロバート・E・ハワードが自ら命を絶つ。ラヴクラフトは困惑し、深く沈んだ[1]
- この時点で、彼自身の腸癌はすでに手遅れの段階まで進んでいた[1]
死後の再評価と影響
1939年:アーカム・ハウスの設立
- 文通で結ばれた友人たちが動いた。オーガスト・ダーレスとドナルド・ワンドレイは、ラヴクラフトの物語をハードカバーという体裁で残そうと決意し、そのために出版社アーカム・ハウスを興す[1]
- 1939年、同社は『The Outsider and Others』を刊行した[1]
- 以後も多くの巻が続き、やがてペーパーバック化と十数か国語への翻訳が進んだ[1]
1960年代-1970年代
- リン・カーターやラムジー・キャンベルなど、新世代の作家がクトゥルフ神話を継承・拡張
- アメリカの反文化運動と相まって、ラヴクラフトの「宇宙恐怖」(cosmicism)の哲学が再発見される
- 1972年、リン・カーターが『ラヴクラフト──クトゥルフ神話の背後にあるもの』を出版し、学術的な整理が進む
1980年代以降
- ゲーム、映画、漫画、アニメなど、多くの媒体でクトゥルフ神話が題材として採用される
- 日本でも『クトゥルフ神話TRPG』などを通じて急速に普及
- 現代ではラヴクラフトは20世紀ホラー文学の最重要人物として認識される
版元から見た没後の広がり
アーカム・ハウスの設立は、当サイトが扱う多くの記事と交差する。同社はラヴクラフトの作品を残すために作られたが、その後の刊行物を追うと、神話を書き継ぐ世代を世に出す場にもなっていった。
| 年 | 刊行物 | 当サイトの関連記事 |
|---|---|---|
| 1939 | The Outsider and Others | 本記事[1] |
| 1943 | Beyond the Wall of Sleep | 永劫よりを収録 |
| 1944 | Lost Worlds(C・A・スミス) | リム・シャイコース |
| 1946 | Skull-Face and Others(ハワード) | ハワードの年表 |
| 1964 | The Inhabitant of the Lake…(キャンベル) | グラーキ・ダオロス |
| 1971 | Dark Things(ダーレス編) | イソグタ |
| 1975 | Nameless Places(ペイジ編) | イダ=ヤー |
| 1977 | The Horror at Oakdeene and Others(ラムレイ) | イブ=ツトル |
ラヴクラフトの死から38年後の1975年になっても、同じ版元が神話の新作を出し続けていた。一人の作家を残すために作られた会社が、ジャンルそのものの器になった。書き手の世代は替わっても、送り出す側は同じだった——この経緯はオーガスト・ダーレスとアーカム・ハウスで詳しく扱っている。
この年表で直した誤り
本記事は2026年9月15日に全面的に見直した。旧版には、公式伝記と照合して明確な誤りといえる記述が含まれていたため、ここに記録しておく。
| 旧版の記述 | 公式伝記による訂正[1] |
|---|---|
| 母「スーザン・スーザン(通称スージー)」 | サラ・スーザン・フィリップス・ラヴクラフト |
| 父の職業に言及なし | 銀器商ゴーラム社の巡回販売員 |
| 1904-1908年に「健康上の理由から中退」 | 1908年、卒業直前の神経衰弱による中退。ブラウン大学進学の断念が生涯の恥辱となった |
| 「アウトを覆う影」(1935) | 該当する作品名が存在しない。訳出の誤りとみられる |
| 「光をもたらすもの」(1931) | 同上 |
作品名の二件は、翻訳の過程で生じた不正確な表記と考えられる。確認できない題名をそのまま残さない方針で、公式サイトの作品一覧が示す実在の作品へ置き換えた[2]。
母の死因についても補足が要る。旧版は1919年の入院を書いたところで止まっていたが、公式伝記は死因が病ではなく胆嚢手術の失敗であったことを明記している[1]。父も母も同じバトラー病院に入り、二人とも生きて出ることはなかった——この符合は、ラヴクラフトの伝記でしばしば語られる点である。
出典
- [1] H. P. Lovecraft Archive(ラヴクラフト公式サイト)の伝記ページ(該当ページ)。生年月日・生誕地・両親の氏名と職業、父の発病と死因、祖父ホイップル・ヴァン・ビューレン・フィリップス、幼少期の早熟ぶりと「アブドゥル・アルハザード」の筆名、「The Poem of Ulysses」(1897年)、1908年の中退とブラウン大学進学の断念、1908年から1913年の隠棲、母の入院(1919年)と死(1921年5月24日、胆嚢手術の失敗)、1921年7月4日のボストンでの出会い、ソニア・ハフト・グリーンの人物、1924年3月3日の結婚とブルックリンでの生活、帽子店の倒産と姉妹誌編集の辞退、1933年のカレッジ通り66番地への転居、腸癌と1937年3月10日の入院・5日後の死去・3月18日の埋葬、生前に単行本を持たなかったこと、ダーレスとワンドレイによるアーカム・ハウス設立と『The Outsider and Others』(1939年)の刊行を確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [2] ラヴクラフト公式サイトの作品一覧(該当ページ)。「狂気の山脈にて」(1931年2月-3月22日)、「インスマスの影」(1931年11月?-12月3日)、「闇をさまようもの」(1935年11月)、「クトゥルフの呼び声」(1926年夏)、「錬金術師」(1908年)の各執筆時期を確認した(2026年9月15日確認)。同一覧の日付は執筆時期を示す。 ↩
影響・意義
ラヴクラフトは生前、パルプ雑誌の周辺的な作家に過ぎませんでしたが、その後の評価逆転は文学史上でも稀な例です。彼が開拓した「宇宙恐怖」──人間の無力さ、地球外知性、古い秘密が眠る地球の奥底という設定──は、現代のホラーとSFの大きな部分に影響を与えています。また、彼が(意図せずに)生み出した共有宇宙としての「クトゥルフ神話」は、複数の作家による共同創作というポストモダン的な文学形式の先駆例となり、現代のファン文化やUGC(ユーザー生成コンテンツ)の源流となってもいます。



