概要
H.P.ラヴクラフト協会(H. P. Lovecraft Historical Society、略称HPLHS)は、H.P.ラヴクラフトの作品世界を題材にした映画・音声ドラマ・出版物・小道具(プロップ)レプリカなどを制作する、アメリカ・カリフォルニア州グレンデールの団体である。公式サイトの自己紹介は「1920年代ゴシックホラー作家H.P.ラヴクラフトが思い描いた世界の中で楽しむために設立された組織」であり、現在は「営利企業」として、映画・音声ドラマ・書籍・ゲーム・音楽の各プロジェクトを、原典への敬意と時代考証、そしてユーモアの感覚を併せ持つスタイルで手がけていると説明する[1]。モットーは”Ludo Fore Putavimus”(訳: 私たちはこれが楽しいことになると思った)[1][6]。
本稿は、この団体の成り立ちから、サイレント映画『The Call of Cthulhu』(2005年)とトーキー長編『The Whisperer in Darkness』(2011年)という2本の劇場作品、音声ドラマシリーズ「Dark Adventure Radio Theatre」(DART)、そして2026年現在の活動までを、HPLHS公式サイトで確認できた範囲に限って時系列にまとめたものである。日本語の団体名表記について、編集体制のある日本語メディアでの定訳を当サイトは確認できておらず、本稿の「H.P.ラヴクラフト協会」という表記は当サイトによる読みである。
前史——コロラドの高校演劇仲間とTRPGセッション(1980年代初頭)
公式サイトの沿革ページ「HPLHS History」によれば、HPLHSの起源は1980年代初頭、コロラド州で高校演劇部を通じて知り合った友人グループにさかのぼる。ショーン・ブランニー(Sean Branney)がケイオシアムのロールプレイングゲーム『クトゥルフの呼び声』を持っており、アンドリュー・レマン(Andrew Leman)、ダレル・タッチトン(Darrell Tutchton)らを自宅に招いてプレイしたのが始まりだという[1]。スタッフ紹介ページによれば、タッチトンは「1980年代初頭の設立以前からHPLHSの一員」であり、1983年にコロラド州イングルウッドでブランニーとともに最初の「Cthulhu Lives!」ゲームを行ったと記されている[1]。
やがて仲間内は、卓を囲むだけでなく仮装して現実の街なかで手がかりを探す遊び方を始め、当時まだ「LARP(ライブアクション・ロールプレイング)」という言葉を知らなかった彼らは、これを独自ルールの”Cthulhu Lives!™”と名付けた[1]。ある夜、ブランニーがコロラド大学ボルダー校のキャンパスで、黒装束の「忍者」が捜査官を襲うという設定のゲームを行った際、状況を理解できない通行人が警備員を呼び、説明を求められたブランニーがとっさに「H.P.ラヴクラフト協会です」と答えたところ、その場は収まり、この名前がそのまま定着したという逸話が公式サイトに記されている[1]。
結成の公式日をめぐる、公式サイト内の表記のゆれ
公式サイトの記述には、結成年についていくつかの異なる年号が並んでいる。「HPLHS in a Nutshell」の項は「1986年に設立された組織」と述べる一方、同じページの「Origins of the Society」の項は「HPLHSは1987年2月、コロラド州ボルダーにおいて正式に発足した」とし、「1987年、ボルダーのピザ屋でショーン・ブランニー、フィル・ベル(Phil Bell)、アンドリュー・レマンが、このグループを正式な団体にすることを決め、HPLHSが誕生した」と続ける[1]。他方、サイト全ページ共通のフッターの著作権表記は「1984–2026 © HPLHS」となっている[1]。当サイトが参照した公式資料の範囲では、1983年(最初のCthulhu Livesゲーム)・1984年(著作権表記の起点)・1986年(「設立」の年として言及)・1987年(「正式発足」の年として言及)という4つの年が、いずれも公式サイト内に同時に存在しており、どれが団体の「創立年」として確定した年なのか、当サイトは判断できなかった。
1987年のピザ屋での一件を経て、1988年には大学のプロジェクトとして、ラヴクラフトの短編「ランドルフ・カーターの陳述」(“The Statement of Randolph Carter”)を翻案した最初の自主製作映画をVHSテープで撮影・編集している[1]。同じ1988年、ブランニーはカリフォルニアの大学院へ、レマンはイリノイの大学院へ進学し、それぞれの土地で新たな仲間を集めて”Cthulhu Lives!™”を続けた。公式サイトによれば、この時期のゲームは数週間がかりの大がかりなものへと発展し、デス・ヴァレー国立公園や大英博物館のような場所を舞台にすることもあったという。1990年代のインターネット普及により、60本を超える”Cthulhu Lives!™”の記録が最初期のHPLHS公式サイトの土台になった[1]。
映画製作への転身——モキュメンタリーから2本の長編へ
1990年代末、レマンがシカゴからロサンゼルスへ拠点を移したのを機に、HPLHSは新作映画の製作に着手した。まず手がけたのは、1970年代に実在したとされる架空の舞台作品——ラヴクラフト作品とブロードウェイ・ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』(Fiddler on the Roof)を融合させたという体の——を検証するモキュメンタリー『A Shoggoth on the Roof』(20分)であり、これはポートランドのH.P.ラヴクラフト映画祭に出品された[1]。この経験から派生した楽曲集がクリスマスキャロル集『A Very Scary Solstice』のCD・歌集になるなど、コメディ寄りの企画が続いた後、HPLHSは初めて本格的な劇映画の製作に踏み出す[1]。
ブランニーとレマンが選んだ題材は、ラヴクラフトの代表作「クトゥルフの呼び声」であった。「ラヴクラフトの生前に撮られていたら、こう撮られていたはずだ」という発想のもと、1920年代のサイレント映画のスタイルで製作することが決められ、撮影監督・編集のデヴィッド・ロバートソン(David Robertson)の助力を得て18か月の製作期間を経て2005年に公開されたのが、モノクロ・サイレントの『The Call of Cthulhu』である[1][2]。公式サイトは、この作品を「ラヴクラフト作品史上もっとも原典に忠実な映画化としてしばしば評される」と紹介し、モダンとヴィンテージの技法を組み合わせた自称の製作手法を「Mythoscope™」と呼んでいる[1][2]。世界各地の映画祭を巡回した後、DVD化に際しては24言語の字幕(インタータイトル)が収録された[2]。
『The Call of Cthulhu』の成功を受け、HPLHSは次作としてラヴクラフトの「闇に囁くもの」を、今度はトーキーの長編として企画した[1][3]。1930年代ハリウッドの怪奇映画——『Dracula』『Frankenstein』『King Kong』——のスタイルを範とし、ニューイングランド現地でのロケを含む撮影を経て製作された『The Whisperer in Darkness』は、2011年3月にギリシャ・アテネのSFF-Rated Film Festivalで初上映され、同年7月1日にシアトル国際映画祭でアメリカ初上映を迎えた[3]。製作の過程では資金が不足する局面があり、ケイオシアム版『クトゥルフの呼び声』TRPGの原作者である「サンディ・ピーターセン」が製作費の一部を提供したことが、当時の製作ブログに記されている[3]。
“Sandy Petersen decided to put up some capital to help us finish the picture. We were thrilled to get an investment of funds, but we were especially thrilled that they should come from a person of key import in the modern day Cthulhu Mythos and someone whose work proved to be a big inspiration to the HPLHS.”(訳: サンディ・ピーターセンが、私たちが映画を完成させる助けになる資金を出すと決めてくれた。資金援助を受けられたこと自体もうれしかったが、それが現代のクトゥルフ神話において重要な人物であり、HPLHSにとって大きなインスピレーションの源であった人物からのものだったことが、とりわけうれしかった。)[3]
両作とも、ラヴクラフトが実際に作品を発表していた時代の映画文法(サイレント映画、あるいは1930年代トーキー怪奇映画)をあえて選ぶという製作方針が共通しており、この2作以降、HPLHSとして新たな長編映画は公式サイト上では発表されていない。
Dark Adventure Radio Theatre——音声ドラマとプロップ(小道具)の看板シリーズ
『The Whisperer in Darkness』のポストプロダクションが難航していた合間に、HPLHSはラヴクラフトの中編「未知なるカダスを夢に求めて」ならぬ「狂気の山脈にて」(At the Mountains of Madness)を、オリジナルスコアと効果音、多数の声優を配した1930年代風ラジオドラマとして製作する実験を行った[1]。この試みが好評を博し、以後のシリーズ「Dark Adventure Radio Theatre」(DART)につながったと公式サイトは説明している[1]。
公式のDARTページによれば、同シリーズはラヴクラフトの怪奇短編とオリジナル作品を、ラヴクラフト存命当時のラジオ番組(架空の「スポンサー」やホストの語りつき)を模して再現するという趣向で、2026年9月時点で第1話「At the Mountains of Madness」から第32話「The Blood Red Sphinx」まで、特別編「Music of Dark Adventure」やボーナスエピソード「The Facts in the Case of M. Valdemar」を含むラインナップが確認できる[4]。第5話が「The Call of Cthulhu」、第23話が「The Whisperer in Darkness」で、いずれも同名の自社映画と重なる題材を、別形式で再度取り上げていることになる[4]。
DARTの各エピソードはCD版に、物語世界の中の「実在する」新聞記事や書簡、写真などを模したプロップ(小道具)が同梱される点が特徴である。公式サイトの映画ページに掲載された解説記事は、第3話「The Shadow Out of Time」に付属するプロップとして、架空の地方紙アーカム・アドバタイザーの記事、主人公ピーズリーの夢を扱った医学論文、当時のオーストラリアの船舶電報を模したマルコーニグラム、そして怪奇文書『Von Unaussprechlichen Kulten』の一ページ(ドイツに住む協力者ピーター・ラングによるドイツ語訳・活字監修つき)を挙げ、プロップは「物理的な遺物として、想像上の体験を少なくとも二つの次元で同時に存在させる魔法のようなアイテムだ」と述べている[2]。
出版・音楽・ゲーム——TRPGシナリオとオーディオブック
DART以外にも、HPLHSは複数の分野で継続的に製品を出している。公式のニュースページによれば、2026年7月にはケイオシアム版『クトゥルフの呼び声』TRPG用の書籍型シナリオ「Eternity at Sea」の出荷を開始し[6]、同月には別のTRPGシナリオ「The Spark Devil」が、GenCon併催のEnnie Awardsで「Best Long-Form Adventure」「Best Production Values」「Product of the Year」の3部門にノミネートされたと発表されている[6]。同ニュースページはまた、ケイオシアムの新刊『Call of Cthulhu Innsmouth』の刊行に合わせて自社のInnsmouth関連商品を割引販売する告知も行っており、HPLHSがケイオシアムのTRPGラインと商品面で連動していることがうかがえる[6]。
音楽面では、モキュメンタリー『A Shoggoth on the Roof』から派生したキャストアルバムや、クリスマスキャロル集『A Very Scary Solstice』のCD・歌集が作られている[1]。出版面では、ラヴクラフト作品を収めたオーディオブック「The Complete Fiction of H.P. Lovecraft」や、ポッドキャスト「Voluminous」を制作しており、公式FAQはこのポッドキャストの中で、後述するラヴクラフトの人種差別的側面についても議論していると述べている[5]。
現在の体制と規模(公式FAQ・ニュースページより)
公式FAQによれば、「専業のクトゥルフ主義者」としてのHPLHSの中核はアンドリュー・レマンとショーン・ブランニーの2名であり、これに「発送のショゴス」という肩書きのケヴィン・スティダム(Kevin Stidham)、共同創設者で公式イラストレーターのダレル・タッチトン、撮影監督デヴィッド・ロバートソンらが加わり、会員数はおよそ2,000人・29か国に及ぶと説明されている[5]。同FAQはまた、カリフォルニア州グレンデールに一般公開の実店舗を構え、平日午前9時から午後5時まで営業していると述べている[5]。この会員数・国数という数字がFAQページ内のいつの時点の記述かは、当サイトが参照した範囲では確認できなかった。
2026年8月には、ロードアイランド州プロビデンスで開催された大規模ラヴクラフト関連イベント「NecronomiCon」にHPLHSとして参加し、DARTの「The Temple」「The Blood Red Sphinx」をライブ上演したことがニュースページに写真つきで報告されている[6]。同記事は「2028年の再訪を心待ちにしている」と結んでおり、NecronomiConが隔年開催のイベントであることをうかがわせる[6]。
ラヴクラフトの人種差別的側面への向き合い方
公式FAQは「なぜあれほどの人種差別主義者だったラヴクラフトの作品を支持・推進するのか」という設問に、自ら正面から回答を用意している。
“It is true that Lovecraft wrote offensively racist things in his private correspondence and public essays, and held some very regrettably racist views which come through in a number of his stories. We do not agree with those views… The HPLHS does not subscribe to Lovecraft’s racial, political or sociological views, and does not support or promote them in any way. We believe in racial equality and social justice, and welcome everyone into our society.”(訳: ラヴクラフトが私信や公表エッセイの中で不快なほど人種差別的な文章を書き、いくつかの作品ににじみ出るほど痛切に遺憾な人種差別的見解を抱いていたことは事実である。私たちはそうした見解に同意しない……HPLHSはラヴクラフトの人種・政治・社会に関する見解を支持せず、いかなる形でもそれを後押し・推進しない。私たちは人種的平等と社会正義を信じ、あらゆる人をこの協会に迎え入れる。)[5]
同FAQによれば、HPLHSは利益の一部をNAACP法的擁護基金(NAACP Legal Defense Fund)に寄付しているとも説明している[1][5]。
関連して読むなら
- The Call of Cthulhu(2005年映画) / The Whisperer in Darkness(闇に囁くもの、2011) — HPLHSが手がけた2本の劇場長編そのものを扱った既存記事
- クトゥルフの呼び声 / 闇に囁くもの — 両作が翻案したラヴクラフトの原典
- H・P・ラヴクラフト / ラヴクラフトの生涯と創作活動 — 原作者本人を扱った既存記事
- サンディ・ピーターセン——クトゥルフ神話をゲームに翻案した男 — 『The Whisperer in Darkness』の完成に私財を投じた人物
- クトゥルフの呼び声TRPG — HPLHS結成のきっかけになったケイオシアムのTRPG
- Eternity at Sea / The Spark Devil — 2026年にHPLHSが手がけた最新のTRPGシナリオ2作
出典
- [1] HPLHS公式サイト「About Us」(2026年9月14日取得)。1986年設立という「HPLHS in a Nutshell」の記述、1987年2月ボルダーでの正式発足という「Origins of the Society」の記述、ショーン・ブランニーが自宅でChaosium版Call of Cthulhuをプレイしたのが始まりであること、大学キャンパスでの「忍者」ゲームの逸話で名称が定着したこと、1988年に学生映画「The Statement of Randolph Carter」をVHSで撮影したこと、1990年代に”Cthulhu Lives!™”のアーカイブが最初のウェブサイトの土台になったこと、モキュメンタリー「A Shoggoth on the Roof」の製作とその後の音楽企画、「The Call of Cthulhu」(2005年)と「The Whisperer in Darkness」(2011年)の製作経緯、At the Mountains of Madnessのラジオドラマ実験からDark Adventure Radio Theatreが生まれた経緯、NAACP Legal Defense Fundへの寄付、ダレル・タッチトンが1980年代初頭からの一員で1983年に最初のCthulhu Livesゲームをコロラド州イングルウッドで行ったという記述、フッターの著作権表記「1984–2026 © HPLHS」を確認した。https://www.hplhs.org/about.php ↩
- [2] HPLHS公式サイト「The Call of Cthulhu」映画ページ(2026年9月14日取得)。製作チーム・キャスト一覧、Mythoscope™という製作手法の呼称、24言語のインタータイトルを収録したDVD化、批評家からの引用レビュー、およびDark Adventure Radio Theatreのプロップ(小道具)についての解説記事(第3話「The Shadow Out of Time」の新聞クリッピング・医学論文・電報・怪奇文書ページの製作過程)を確認した。https://www.hplhs.org/mpcoc.php ↩
- [3] HPLHS公式サイト「The Whisperer in Darkness」映画ページ(2026年9月14日取得)。製作チーム・キャスト一覧、2011年3月のギリシャ・アテネSFF-Rated Film Festivalでの初上映、同年7月1日のシアトル国際映画祭でのアメリカ初上映、サンディ・ピーターセンが製作資金の一部を提供したという製作ブログの記述(“Sandy Petersen decided to put up some capital to help us finish the picture…”)を確認した。https://www.hplhs.org/mptwid.php ↩
- [4] HPLHS公式サイト「Dark Adventure Radio Theatre」ページ(2026年9月14日取得)。第1話「At the Mountains of Madness」から第32話「The Blood Red Sphinx」までのエピソード一覧、特別編「Music of Dark Adventure」とボーナスエピソード「The Facts in the Case of M. Valdemar」、第5話が「The Call of Cthulhu」・第23話が「The Whisperer in Darkness」であることを確認した。https://www.hplhs.org/dart.php ↩
- [5] HPLHS公式サイト「FAQ」(2026年9月14日取得)。ラヴクラフトの人種差別的側面についての公式見解(“It is true that Lovecraft wrote offensively racist things…”)、NAACP Legal Defense Fundへの寄付、グレンデールの実店舗の営業時間、組織の中核がアンドリュー・レマンとショーン・ブランニーの2名であること、会員数約2,000人・29か国という記述、Facebookグループの会員数約57,000人という記述を確認した。https://www.hplhs.org/faq.php ↩
- [6] HPLHS公式サイト「News & Events」2026年夏〜秋のページ(2026年9月14日取得)。2026年7月の「Eternity at Sea」出荷開始告知、同月の「The Spark Devil」Ennie Awards 3部門ノミネート告知(“Best Long-Form Adventure…Best Production Values…Product of the Year”)、ケイオシアム新刊「Call of Cthulhu Innsmouth」刊行に合わせた自社商品割引告知、2026年8月のNecronomiCon参加報告(DART「The Temple」「The Blood Red Sphinx」のライブ上演、”we are already looking forward to returning in 2028″の記述)、モットー”Ludo Fore Putavimus”の記載を確認した。https://www.hplhs.org/newsevents_2025summer.php ↩


