なぜ「原典では〜」「TRPG設定では〜」と書き分けるのか
このサイトの神格記事を読んでいると、同じ一柱の神格について「原典では〜」「後世の設定では〜」「TRPG設定では〜」という書き分けが繰り返し現れることに気づくはずです。たとえばダゴンの記事では、「原典に明確な分類の記述はない」としたうえで、「後世の設定(TRPG『クトゥルフの呼び声』の資料集『マレウス・モンストロルム』を踏まえた解説など)では全長約30メートルの巨躯を持つ」という一文が続きます。クティラの記事に至っては、原典自体がブライアン・ラムレイという後継作家の作品であり、さらにその外見は原典にすら描かれておらず、1997年の別の作家の短編で初めて定着した、という三重の由来が明かされます。
これは表記の癖ではありません。クトゥルフ神話というジャンルは、実際に性質のまったく異なる3つの層が積み重なってできているからです。この記事では、その3層——(1)原典、(2)ダーレス系拡張、(3)TRPG設定——を整理し、なぜこの区別が「原典とTRPGはもはや別ジャンルとして語ってよい」と言えるほど大きいのかを説明します。
第1層: 原典——ラヴクラフト自身の記述
H・P・ラヴクラフトの小説そのものには、実は体系だった神格分類も、力の数値も、系譜図も存在しません。「クトゥルフの呼び声」(1926年執筆/1928年発表)でクトゥルフについて語られるのは、南太平洋の海底都市ルルイエに幽閉され、星辰が正しき位置に至る日を待ちながら眠り続けているという断片的な描写と、感受性の強い人間へ夢を通じて影響を及ぼすという性質だけです[1]。「タコと竜と人間の戯画を同時に見たような姿」という有名な形容も、語り手ひとりの主観的な比喻に過ぎません[2]。
同様に、イグは「蛇の祖神」として一つの短編に単独で登場するのみで、他の神格との関係づけは原典に一切ありません[3]。ラヴクラフトが読者に与えたのは、宇宙的な存在の断片的な目撃談であり、「事典」ではなく「暗示」でした。この曖昧さ・不完全さこそが、原典の恐怖——理解し尽くせないものへの畏怖——の核心です。
第2層: ダーレス系拡張——後続作家による体系化
ラヴクラフトの死後(1937年)、友人作家オーガスト・ダーレスが、散らばった神格たちを整理しようと試みました。ダーレスは短編「ハスターの帰還」などで、各神格を火・水・地・風の四大元素に結びつける「四大元素説」を導入し、この理論に基づいてクトゥルフを水の精、ハスターを風の精とし、両者を対立関係に位置づけました[4]。さらにダーレスは、善なる「旧神(Elder Gods)」が悪しき「旧支配者(Great Old Ones)」を打ち倒し封印したという、キリスト教的な善悪二元論の構図を持ち込みました[5]。
この体系化は、ラヴクラフト自身の作品には一度も明記されたことがありません。実際、この理論には「クトゥルフは水底に封じられているのに、水の元素を支配しているとするのは矛盾する」という批判が、後年のファンや研究者から寄せられています。
この層にはダーレス以外の作家も加わりました。リン・カーターは、クトゥルフをヨグ=ソトースの息子としハスター・ツァトゥグァ・ヴルトゥームの異母兄弟とする系譜図を構築し、クティラのような新しい神格も生み出しています。ブライアン・ラムレイもクトゥルフ眷属邪神群(CCD)という独自の派閥を作品世界に加えました。これらはすべて「原典」ではなく、後続作家による自由な追加創作です。このサイトでは、この層をcircle_derivative(原作者以外の後続作家による追加・改変設定)として分類しています。
第3層: TRPG設定——ゲームとして体系化されたクトゥルフ神話
1981年、アメリカのケイオシアム(Chaosium)社がサンディ・ピーターセンの設計で『クトゥルフの呼び声(Call of Cthulhu)』というテーブルトークRPGを発売しました[6]。TRPGは「遊べるゲーム」でなければならないため、原典にもダーレス系拡張にも存在しなかった数値化・体系化が必要になりました。
- 神格ごとの体力・攻撃力といったゲーム上のステータス
- 神格を目撃した際にどれだけ正気度(SAN値)を失うかというSAN値減少表
- 「旧支配者」「外なる神」「旧神」という分類を、プレイヤーが理解しやすいようゲームルールとして整理し直したもの
- 『マレウス・モンストロルム』のような、神格の姿・能力・信仰圏を網羅的にカタログ化した設定資料集
これらはゲームを成立させるためにTRPGというメディアが独自に必要とした体系であり、原典にもダーレス系拡張にも由来しません。このサイトではlicensed_trpg(公式ライセンスのTRPG・ゲーム作品による設定)という独立した層として扱っています。[ダゴン]記事の「後世の設定(TRPG『クトゥルフの呼び声』の資料集『マレウス・モンストロルム』を踏まえた解説など)では全長約30メートルの巨躯を持ち」という一文は、まさにこの第3層です。
3層の具体例比較
| 神格/概念 | 第1層: 原典 | 第2層: ダーレス系拡張 | 第3層: TRPG設定 |
|---|---|---|---|
| クトゥルフとハスターの関係 | 直接の対立描写はない | ダーレスが四大元素説で「水vs風」の対立に位置づけた | TRPG資料集がこの対立設定をゲーム上の陣営対立として継承 |
| ダゴン | クトゥルフとの関係は明言されない曖昧な存在[7] | リン・カーターが「下級の旧支配者」としてクトゥルフに仕える立場に整理 | 『マレウス・モンストロルム』が全長約30メートルの具体的なサイズ・能力を設定 |
| クティラ | 原典自体が存在しない(ラヴクラフト作品に未登場) | ブライアン・ラムレイが1975年に創造、外見描写なし | Call of Cthulhu TRPGのシナリオガイドが独自の封印経緯・守護教団を設定 |
| イグ | 単独の短編に登場する「蛇の祖神」、他神格との関係なし[3] | ロバート・E・ハワード創造の「蛇人間」種族とイグを結びつける相互乗り入れが後年進んだ | TRPG設定で蛇人間の創造主・ヨグ=ソトースの眷属として位置づけられることがある |
なぜこの区別が重要か
このサイトの出典脚注ルールでは、[1]のような通し番号の脚注は原典(第1層)に基づく記述にのみ付けています。「後世の設定では」「TRPG設定では」という書き出しの文には脚注を付けません——それは原典の裏付けを持たない、別の層の情報だからです。この区別を曖昧にすると、後続作家やゲームデザイナーの創作を、あたかもラヴクラフト自身が書いたことであるかのように誤認させてしまいます。
逆に言えば、TRPG(第3層)は原典(第1層)の”正確な翻訳”ではなく、それ自体が独自の創作の蓄積を持つ、別の系譜です。ゲームデザインという固有の必然性(プレイ可能にするための数値化)から生まれ、40年以上かけて独自に発展してきました。原典の文学的系譜と、TRPGのゲーム的系譜は、共通の起点(ラヴクラフトの小説群)を持ちながらも、その後は大きく枝分かれした別々の大樹だと考えるのが実態に即しています。TRPGというジャンル自体について詳しくは「TRPGとは何か」、クトゥルフ神話TRPG固有の設計については「クトゥルフ神話TRPGとは」、実際に遊んでみたい方は「クトゥルフ神話TRPGを初めて遊ぶ人へ」を参照してください。
出典
- [1] “When the stars were right, They could plunge from world to world through the sky; but when the stars were wrong, They could not live.”(訳: 「星辰が正しき位置にあるとき、彼らは天空を通って世界から世界へと飛び移ることができた。だが星辰が正しからぬとき、彼らは生きることができなかった」) — H. P. Lovecraft, “The Call of Cthulhu”(1926年執筆/1928年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “A sort of monster, or symbol representing a monster, of a form which only a diseased fancy could conceive.”(訳: 「病んだ想像力のみが思い描き得るような、一種の怪物、あるいは怪物を表す象徴」) — 同上 ↩
- [3] “Yig, the snake-god of the central plains tribes…was an odd, half-anthropomorphic devil of highly arbitrary and capricious nature.”(訳: 「中央平原部族の蛇神イグは、気まぐれで移り気な性質を持つ、奇妙な半人半獣の悪魔であった」) — H. P. Lovecraft/Zealia Bishop, “The Curse of Yig”(1928年執筆/1929年発表), hplovecraft.com ↩
- [4] ダーレスは短編「The Return of Hastur」で、各旧支配者を火・水・地・風の四大元素に結びつける説を導入し、クトゥルフを水の精、ハスターを風の精として両者を対立させた。この分類は原典になく、批評家からは「クトゥルフは水底に封じられているのに水を支配するのは矛盾する」との批判がある — Ravelled Esoterica: Derleth’s Elemental Classification ↩
- [5] ダーレス作品における「旧神(Elder Gods)」は、悪しき「旧支配者(Great Old Ones)」を打ち倒し封印した善良な種族として設定され、ダーレスはこの善悪二元論と元素分類によってラヴクラフトの宇宙を体系化しようとした — Lovecraftian Science: Taxonomy of the Old Ones (August Derleth) ↩
- [6] 『クトゥルフの呼び声』は1981年、米ケイオシアム社よりサンディ・ピーターセンの設計で刊行された — 本サイト内「クトゥルフ神話TRPGの刊行史」参照 ↩
- [7] ダゴンとクトゥルフの関係は原典で確定しておらず、クトゥルフの従者(下級の旧支配者)とする解釈と、クトゥルフ自身の別名にすぎないとする解釈が並立している — 本サイト内「ダゴン」参照 ↩

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