概要
人間の生活圏に最も深く侵食してくる旧支配者層の一柱。原典「ダゴン」(1917年執筆/1919年発表)は、太平洋上での漂流中に巨大な魚人的存在と遭遇した記憶に苛まれる語り手の独白として書かれ[1][2]、後の「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表)でインスマスを統べる秘密教団「ダゴン秘密教団」の主神として発展した。「父なるダゴン」がクトゥルフ本人の異名なのか、その配下にある別存在なのかは、ラヴクラフト自身が生涯明言しなかった未解決の曖昧さとして残っている。
基本プロフィール
- 分類: 旧支配者(後世の体系化による位置づけ。原典に明確な分類の記述はない)
- 欧文表記: DAGON / Father Dagon
- 初出: 「ダゴン」(1917年執筆/1919年『ザ・ヴァグラント』誌発表)
- 関連作: 「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表)
- 配偶神とされる存在: 母なるヒュドラ(Mother Hydra)
- 信仰圏: インスマス(架空の港町)のダゴン秘密教団[3]、および世界各地の港町に及ぶとされる後世の設定
別名/呼称
父なるダゴン(Father Dagon)。旧約聖書に登場する古代シリア・ペリシテの神ダゴン/ダガンと同名だが、これはラヴクラフトが実在の神名を借用した結果であり、原典内で両者の関係が明言されているわけではない。原典「ダゴン」自体、語り手が民族学者にペリシテの魚神ダゴンの伝承について尋ねる場面で、この名称に自覚的に言及している[4]。
区分
ラヴクラフト自身は「ダゴン」を明確な神格分類の中に位置づけていない。リン・カーターの著作において、ダゴンとヒュドラは「下級の旧支配者(Lesser Old Ones)」としてクトゥルフに仕え、深きものどもを統べる立場に位置づけられた。この体系化は原典ではなく後世の設定である。研究者ロバート・M・プライスは、「ダゴン」という馴染み深い(聖書由来の)名称が、異星的な響きを持つ他の旧支配者名と一線を画す点を指摘し、深きものどもが信仰する対象の実体は本来クトゥルフそのものだった可能性を論じている。
象徴・モチーフ
深海、太古の海洋文明、人類との異種交配[5]、信仰と引き換えの繁栄[3]、そして血統の堕落[5]。
性質・権能
- 後世の設定(TRPG『クトゥルフの呼び声』の資料集『マレウス・モンストロルム』を踏まえた解説など)では全長約30メートルの巨躯を持ち、深きものどもの長・大祭司格として、深きものどもやクトゥルフの落し子(スター・スポーン)を召喚する力を持つとされる
- 「インスマスの影」以降に一般化した造形では、6メートルを超える両生類的な巨体、突出した淀んだ目、分厚く垂れた唇、水かきのある四肢を持つ、巨大化した深きものどもというべき姿で描かれる(これも後世の一般化であり、原典「ダゴン」自体の描写はより曖昧である)
- 深きものどもとの交配を通じて人類に異種の血を混入させ[5]、世代を経て子孫を海へ回帰させるという設定は[6]、「インスマスの影」で中心的に描かれる
関係図
配偶神とされる母なるヒュドラは、ラヴクラフト自身の作品には一度も直接描写されず、その造形は完全に後世の作家に委ねられた。多くの場合ダゴンと同種の女性形とされるが、ヘンリー・カットナーが描いた斬首する怪物としてのヒュドラや、田中文雄によるメドゥーサ状のヒュドラなど、標準的な「母なるヒュドラ」とは別系統として整理される造形も存在する。ダゴンとクトゥルフの関係は原典で確定しておらず、クトゥルフの従者(下級の旧支配者)とする解釈と、クトゥルフ自身の別名にすぎないとする解釈が並立している。クラーク・アシュトン・スミスを論じた批評では、ダゴンはクトゥルフ・ヨグ=ソトース・ハスター・ニャルラトホテプ・シュブ=ニグラスとともに、スミス以前からあった「原初の神々」の一柱として位置づけられている。
主要登場作と読みどころ
- 「ダゴン」(1917年執筆/1919年発表): ラヴクラフトが成人後に書いた最初期の短編のひとつ。モルヒネ中毒の語り手による独白形式で[7]、第一次大戦下の漂流中に古代の石柱と巨大な魚人的存在に遭遇した記憶を語り、その記憶に苛まれて自殺を計画するに至る過程が描かれる[8]。
- 「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表): ダゴン秘密教団[3]と深きものどもとの交配が本格的に描かれ[5]、「父なるダゴン」「母なるヒュドラ」への信仰が作中で明確化された作品[9]。
- 映像化としては、スチュアート・ゴードン監督の映画『ダゴン』(2001年、「インスマスの影」を緩やかに翻案)、1992年の日本製作テレビ映画『インスマスの影』、2007年の映画『Cthulhu』などがある。
- フレッド・チャペルの小説『Dagon』は、クトゥルフ神話を心理的リアリズムの強い「サザン・ゴシック」風の物語として語り直した作品で、1972年にフランス学士院の外国小説賞を受賞している。
- ブライアン・ラムレイ「ダゴンの鐘」(Shadows over Innsmouth所収、1994年)は、イングランドの深きものどものコロニーを舞台にした後続作家による作品。
よくある誤解
A. いいえ。ラヴクラフト自身は「ダゴン」の怪物と「インスマスの影」のダゴン教団との関係、および「父なるダゴン」の正体を生涯明言しませんでした。後世の多くの作家がダゴンをクトゥルフの従者・下級の旧支配者として一般化しましたが、これは体系化された後付けの設定です。ダゴンをクトゥルフ自身の別名とする解釈も研究者(ロバート・M・プライス)によって提示されています。
Q. 「ダゴン」という名前は旧約聖書のペリシテの神と関係があるのですか?
A. 名称は共通していますが、直接の同一存在という設定ではありません。旧約聖書のダゴン(ダガン)は古代シリア・ユーフラテス川流域で信仰された実在の神で、「魚の神」とする解釈は4世紀の神学者ヒエロニムスによる語源解釈に由来する後世の俗説です。ラヴクラフトは実在の神名を自作の存在に借用したにすぎません。
Q. 日本の創作でダゴンがタコのような姿で描かれることがあるのはなぜですか?
A. 日本語の「タコ」と「ダゴン」の語呂合わせに由来するという説がありますが、これは確証の乏しいファン考察の域にとどまります。
出典
- [1] “I am writing this under an appreciable mental strain, since by tonight I shall be no more.”(訳: 「私はこれを、いくらかの精神的緊張のもとで書いている。今夜にはもうこの世にいないだろうから」) — H. P. Lovecraft, “Dagon”, Weird Tales Vol.2 No.3(1923年10月号再録。初出は1919年『ザ・ヴァグラント』誌), Wikisource ↩
- [2] “Vast, Polyphemus-like, and loathsome, it darted like a stupendous monster of nightmares to the monolith, about which it flung its gigantic scaly arms, the while it bowed its hideous head and gave vent to certain measured sounds.”(訳: 「巨大でポリュペーモスめいた、忌まわしいそれは、悪夢の巨怪のように石柱へと躍り寄り、鱗に覆われた巨大な腕を絡めながら、醜悪な頭を垂れて、抑揚のある音を立てた」) — 同上, Wikisource ↩
- [3] “It was called, she said, ‘The Esoteric Order of Dagon’, and was undoubtedly a debased, quasi-pagan thing imported from the East a century before, at a time when the Innsmouth fisheries seemed to be going barren. Its persistence among a simple people was quite natural in view of the sudden and permanent return of abundantly fine fishing, and it soon came to be the greatest influence in the town, replacing Freemasonry altogether.”(訳: 「それは『秘教ダゴン教団』と呼ばれ、インスマスの漁が振るわなくなった頃、一世紀ほど前に東方から持ち込まれた堕落した半異教的なものに違いないという。素朴な人々の間で根付いたのは、その後すぐに豊漁が突然かつ恒久的に戻ってきたことを思えば当然で、間もなくこの町で最大の影響力を持つようになり、フリーメイソンに完全に取って代わった」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(1931年執筆/1936年発表), Wikisource/full) ↩
- [4] “Once I sought out a celebrated ethnologist, and amused him with peculiar questions regarding the ancient Philistine legend of Dagon, the Fish-God; but soon perceiving that he was hopelessly conventional, I did not press my inquiries.”(訳: 「かつて私は高名な民族学者を訪ね、魚神ダゴンにまつわる古代ペリシテの伝承について奇妙な質問を投げかけて彼を面白がらせたが、彼が救いがたく紋切り型であると悟るとすぐ、それ以上尋ねるのはやめた」) — H. P. Lovecraft, “Dagon”, Wikisource ↩
- [5] “I dun’t think he aimed at fust to do no mixin’, nor raise no younguns to take to the water an’ turn into fishes with eternal life.”(訳: 「奴も最初から交配をやらかす気だったとは思わねえし、水に入って魚に変わり永遠の命を得るような子供らを育てるつもりだったとも思わねえ」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(老ザドク・アレンの語り), Wikisource/full) ↩
- [6] “I shall swim out to that brooding reef in the sea and dive down through black abysses to Cyclopean and many-columned Y’ha-nthlei, and in that lair of the Deep Ones we shall dwell amidst wonder and glory for ever.”(訳: 「私はあの海に潜む暗礁まで泳ぎ出し、漆黒の深淵を潜って、巨石と林立する円柱を持つイハンスレイまで下りていくのだ。そして深きものどもの棲むその巣で、我らは永遠に驚異と栄光のうちに住まうのだ」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(結末部)、Wikisource/full) ↩
- [7] “I tried morphine; but the drug has given only transient surcease, and has drawn me into its clutches as a hopeless slave.”(訳: 「私はモルヒネを試した。だがその薬は一時の安らぎを与えるのみで、私を絶望的な奴隷としてその手中に引きずり込んだ」) — H. P. Lovecraft, “Dagon”, Wikisource ↩
- [8] “The end is near. I hear a noise at the door, as of some immense slippery body lumbering against it. It shall not find me. God, that hand! The window! The window!”(訳: 「終わりが近い。扉の向こうに物音が聞こえる、巨大でぬめる何かがそれにのしかかるような音が。それに見つかってなるものか。ああ、あの手が!窓だ!窓だ!」) — H. P. Lovecraft, “Dagon”(結末部の一文)、Wikisource ↩
- [9] “All in the band of the faithful—Order o’ Dagon—an’ the children shud never die, but go back to the Mother Hydra an’ Father Dagon what we all come from onct . . . Iä! Iä! Cthulhu fhtagn!”(訳: 「みな信徒の一団に加わる——ダゴン教団だ——そして子らは決して死ぬことなく、我らが皆かつてそこから来た母なるヒュドラと父なるダゴンのもとへ還っていく……イアッ!イアッ!クトゥルフ、フサグン!」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(老ザドク・アレンの語り), Wikisource/full) ↩




