概要
「ヒュドラ(Hydra)」という名は、クトゥルフ神話において互いに無関係な二つの存在を指して用いられている。
ひとつは、H・P・ラヴクラフト「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表)で確立された、父なるダゴンの配偶にあたる「母なるヒュドラ」。もうひとつは、ヘンリー・カットナーが1939年の短編「ヒュドラ」で独自に創造した、まったく別系統の怪物である。両者は名前を共有するのみで、設定上のつながりはない。本記事では主に前者(母なるヒュドラ)を中心に扱い、後者はカットナー版として区別して整理する。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 分類 | 母なるヒュドラ=下級旧支配者(後世の体系化による位置づけ)。カットナー版ヒュドラ=資料によって外なる神/旧支配者/分類不明と一貫しない |
| 欧文表記 | Mother Hydra(母なるヒュドラ)/ Hydra(カットナー版) |
| 初出 | 母なるヒュドラ=「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表)。カットナー版=「ヒュドラ」(《ウィアード・テイルズ》1939年4月号) |
| 配偶神とされる存在 | 父なるダゴン(母なるヒュドラのみ) |
| 別名・表記ゆれ | カットナー版は「千の顔を持つ月」の異名で呼ばれることがある(『マレウス・モンストロルム』日本語版等)。日本語訳では「ヒュドラ」のほか「ハイドラ」の表記も用いられる |
初出作品
母なるヒュドラの名は、H・P・ラヴクラフト「インスマスの影」(1931年執筆/1936年発表)で確立された。父なるダゴンの配偶として、深きものどもに崇拝される存在という位置づけである。
カットナー版ヒュドラは、これとはまったく別の経緯で生まれた。ヘンリー・カットナーは、ラヴクラフトの母なるヒュドラの存在を知った上で、あえて同名の別存在を1939年の短編「ヒュドラ」で創造したとされるが、なぜ同名を選んだのかという具体的な意図は判然としない。カットナーにはこの他に、自身の「アトランティスのエラーク」シリーズに位置づけられる短編「ダゴンの末裔」もある。またこの「ヒュドラ」の創作年代は、ラヴクラフト「未知なるカダスを夢に求めて」の発表や、後続作家によるアザトースの「邪神の首領」としての明確化よりも早く、アザトース解説で頻出する「万物はアザトースの思考によって創られた」という定型句は、この作品に由来すると考えられている。
原典での描写
母なるヒュドラは、ラヴクラフト自身の作品に直接描写されることがない。唯一の言及は、「インスマスの影」で老ザドク・アレンが語る、次の一節にある。
“All in the band of the faithful—Order o’ Dagon—an’ the children shud never die, but go back to the Mother Hydra an’ Father Dagon what we all come from onct— Iä! Iä! Cthulhu fhtagn!”(訳: 「みな信徒の一団に加わる——ダゴン教団だ——そして子らは決して死ぬことなく、我らが皆かつてそこから来た母なるヒュドラと父なるダゴンのもとへ還っていく——イアッ!イアッ!クトゥルフ、フサグン!」)[1]
ここでも姿・権能・封印場所などの直接描写は無く、父なるダゴンとともに崇拝される対の神という位置づけが示されるのみである。強い感情の昂りを見せる場面で、ザドク・アレンがむしろクトゥルフの名を口にしている点も、あわせて留意しておきたい。
カットナー版ヒュドラの姿・生態については、初出の《ウィアード・テイルズ》1939年4月号の本文を当サイトでは確認できておらず、一次資料に基づく描写としては記載しない(経緯は参考文献の付記を参照)。
ダーレス以降の変化
母なるヒュドラは、リン・カーターの「ゾス神話大系(Xothic Legend Cycle)」において、父なるダゴンとともにクトゥルフに仕える「下級旧支配者(Lesser Old Ones)」として位置づけられた。これは原典ではなく、後世の体系化である。
研究者ロバート・M・プライスは、「ダゴン」「ヒュドラ」という名称自体が、深きものどもが真に崇拝する対象に対する聖書・ギリシア神話由来の便宜的な類比にすぎない可能性を指摘しており、深きものどもの真の崇拝対象が字義通りにこれらの神話上の存在とは限らないという見方を示している。
TRPGでの扱い
日本語圏のTRPG関連資料では、父なるダゴンが鱗と水かき、魚類的な顔を持つ6メートル超の人型とされるのに対し、母なるヒュドラはその妻として説明されることが多い。ただしこれは原典の描写ではなく、後世の一般化である。
カットナー版ヒュドラの分類は、資料によって一貫していない。山本弘『クトゥルフ・ハンドブック』(1988年)は外なる神に分類し、東雅夫『クトゥルー神話事典』第4版(2013年)は分類不明の怪物として「母なるヒュドラとは別種の存在と思われる」と注記し、ダニエル・ハームズ『エンサイクロペディア・クトゥルフィアーナ』日本語版第2版(2007年)は分類を明確にせず、公式TRPG副読本『マレウス・モンストロルム』日本語版(2008年)は旧支配者として分類している。単一の確定した分類は無く、資料間の揺れとして扱うべきものである。
登場作品一覧
| 作品 | 年 | 作者 | この作品が足したもの |
|---|---|---|---|
| インスマスの影 | 1931年執筆/1936年発表 | H・P・ラヴクラフト | 母なるヒュドラと父なるダゴンの確立[1] |
| ヒュドラ | 1939年(《ウィアード・テイルズ》4月号) | ヘンリー・カットナー | 同名だが無関係な、精神を喰らう怪物 |
| ゾス神話大系(Xothic Legend Cycle) | — | リン・カーター | 母なるヒュドラを下級旧支配者と体系化 |
カットナー「ヒュドラ」の日本語訳は、青心社文庫クト9巻(三宅初江訳「ヒュドラ」)、国書刊行会『真ク・リトル・リトル神話大系』第1巻・『新編 真ク・リトル・リトル神話大系』第3巻(加藤遍里訳「ハイドラ」)で読める。
関連神格・地域・書物
神格・種族
- 父なるダゴン — 母なるヒュドラの配偶とされる存在
- 深きものども — 母なるヒュドラと父なるダゴンを崇拝する種族
- クトゥルフ — 深きものどもの崇拝において、母なるヒュドラ・父なるダゴンと合わせて三柱の崇拝対象を構成する
- アザトース — カットナー版ヒュドラの棲む外宇宙が隣接するとされる存在
関連する人物
- ヘンリー・カットナー — 同名で無関係な別系統のヒュドラを創造した作家
- リン・カーター — 母なるヒュドラを下級旧支配者と体系化
分類の考え方
参考文献
- [1] “All in the band of the faithful—Order o’ Dagon—an’ the children shud never die, but go back to the Mother Hydra an’ Father Dagon what we all come from onct— Iä! Iä! Cthulhu fhtagn!”(訳: 「みな信徒の一団に加わる——ダゴン教団だ——そして子らは決して死ぬことなく、我らが皆かつてそこから来た母なるヒュドラと父なるダゴンのもとへ還っていく——イアッ!イアッ!クトゥルフ、フサグン!」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(老ザドク・アレンの語り), 公式アーカイブ
(付記: カットナー版「ヒュドラ」(Weird Tales, 1939年4月号)は著作権存続中とみられ、正規の全文入手経路が確認できなかったため、原文引用は見送った。「原典での描写」節のカットナー版に関する記述は、当サイトで原文との照合ができていないため記載していない。)
FAQ
Q. 「母なるヒュドラ」と、カットナーの小説に出てくる「ヒュドラ」は同じ神格ですか。A. いいえ。名前を共有するだけの、設定上まったく無関係な二つの存在です。母なるヒュドラは父なるダゴンの配偶として深きものどもに崇拝される存在であるのに対し、カットナー版ヒュドラはアザトースの領域に近い外宇宙に棲む、精神を喰らう別種の怪物です。日本語圏の複数の事典類も両者を別種の存在として扱っています。
Q. 母なるヒュドラはラヴクラフト作品でどんな姿として描かれていますか。A. ラヴクラフト自身の原典に、直接的な姿の描写はありません。「鱗と水かきを持つ巨大な人型」といった一般的なイメージは、後世のTRPG資料等で一般化されたものです。



