概要
緊迫したホテルからの脱出劇と、自己の血統の反転を描く、ラヴクラフト中期から後期のサスペンスホラーの傑作。旅行者が閉ざされた港町に足を踏み入れ、住民の異様な風貌や街の腐臭に不安を募らせていく前半の空気作りから、深夜の追跡劇、そして最後に明かされる主人公自身の出自の真実まで、一貫した緊張感で読者を引っ張る構成を持つ。住民たちに共通する「魚のように狭い頭、平たい鼻、瞬きをしない飛び出た目」という容貌[1]は「インスマス面」と呼ばれ、単なる醜さの描写を越えて、血統そのものが恐怖の対象となるという本作独自のテーマを体現している。
作品情報
- 執筆・発表年: 1931年執筆/1936年単行本として限定出版
- 主題タグ: 閉鎖的共同体、追跡と逃走、血統と変容
登場神格・用語
あらすじ
旅行中の青年である語り手は、廃墟同然の古港インスマスに興味を持ち立ち寄る。不気味な魚のような顔立ち(インスマス面)をした住民たちや、悪臭漂う街並みに強い嫌悪感を抱きながらも、地元の食料品店の青年から「デビル・リーフ」と呼ばれる沖合の岩礁や、街を牛耳るマーシュ家の異様な羽振りの良さについて噂話を聞かされる。さらに彼は、街に一人だけ残る九十六歳の老アルコール中毒者ゼドック・アレンをつかまえ、酒をおごる代わりに街の秘史を語らせることに成功する。ゼドックによれば、かつて南太平洋の島で交易を行っていたオーベッド・マース船長は、現地の首長ワラケアから、海に住む知的種族深きものどもが黄金の装身具と引き換えに人身御供を求める契約の存在を聞き出したという[2]。マースはこの契約をインスマスに持ち帰り、街の住人たちを深きものどもと交わらせることで、彼らの力を借りた繁栄と引き換えに、街全体を異形の血に染めていった。
夜、宿泊先のギルマン・ハウスに拘束され、正体不明の集団に襲撃された主人公は、屋根伝いに逃げ、崩れかけた工場の廃墟を抜けて命からがら街を脱出する。逃走の途中、彼は月明かりの下、デビル・リーフから続々と上陸してくる無数の深きものどもの大群を目撃してしまう。彼らの体は灰緑色でぬめり、魚のような頭部には瞬きをしない大きな目と、喉の両脇には脈打つ鰓があった[3]。無事に街を脱出した彼であったが、数年後、彼は自分の顔が鏡の中で少しずつ「インスマス面」へと変化していることに気づき始める[4]。家系を調べた末、自分が母方を通じてマース船長の血を引く末裔であることを悟った彼は、当初こそ絶望するが、やがて恐怖を捨て、同族が待つ海底都市イハ=ンスレイへ自ら帰還する決意を固める。
読みどころと注目テーマ
前半は、寂れた港町を一人で歩く語り手の視点を通じて、住民の異様さと街全体の不穏さをじわじわと積み上げていく、優れた雰囲気小説として読める。中盤のゼドック老人による長広舌は、方言混じりの語り口も相まって、聞き手が眉唾と信じたい話が実は真実であったという逆転の仕掛けを担う。後半の夜間逃走シーンは、ラヴクラフトの全作品中でも屈指のサスペンス・アクションとして知られ、追う者の正体が最後まで明かされないまま緊張が持続する。そして最大の読みどころは、恐怖の対象であったはずの「異形の血」が、実は自分自身の内にも流れていたという結末の反転にある。他者への恐怖から始まった物語が、自己の起源の受容(あるいは屈服)で幕を閉じるという構造は、単純な怪物退治譚とは一線を画す。
執筆背景と影響
ラヴクラフトの母親の家系に対する病的な遺伝的不安や、彼自身が抱えていた都会での疎外感が色濃く反映された作品とされる。執筆は1931年、マサチューセッツ州の実在の港町を訪れた旅行の記憶がもとになったとされ、閉鎖的な地方都市そのものが持つ不気味さを描く手法は後続作家にも継承された。生前唯一の単行本として1936年に限定400部で自費出版に近い形で刊行されたが、実際に製本・配布されたのは200部程度にとどまり、当時はほとんど注目されなかった。緊迫した夜の逃走劇の描写は、彼の全作品の中でも最もエンターテインメント性が高いとされ、「深きものども」「イハ=ンスレイ」といった設定は、後年のクトゥルフ神話作品やゲームで繰り返し題材とされている。
出典
- [1] “…those staring, unwinking eyes which one never saw shut”(訳: 「決して閉じることのない、瞬きをしない、じっと見つめる目」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(1931年執筆/1936年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “It took Obed to git the truth aout o’ them heathen. I dun’t know haow he done it, but he begun by tradin’ fer the gold-like things they wore.”(訳: 「あの異教徒どもから真実を聞き出せたのはオーベッドだけだった。どうやったのかは知らんが、まずは奴らが身につけとった金めいた品と交換で取引を始めたんじゃ」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [3] “Their forms vaguely suggested the anthropoid, while their heads were the heads of fish, with prodigious bulging eyes that never closed. At the sides of their necks were palpitating gills, and their long paws were webbed.”(訳: 「その姿はどこか人間に似た輪郭を持ちながら、頭部は魚のそれであり、決して閉じることのない途方もなく大きな目がついていた。首の両脇には脈打つ鰓があり、長い前肢には水かきがあった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [4] “It was then that I began to study the mirror with mounting alarm.”(訳: 「その頃から、私は募る不安とともに鏡を見つめるようになった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩



