概要
ミスカトニック大学を擁し、歴史的な古めかしい家並みと陰鬱な魔術的過去を持つ、ラヴクラフト作品世界の中心的な架空都市。作中の地理設定では北にインスマス、西にダニッチ、南東にキングスポートが位置し、複数の神話的事件の調査拠点として繰り返し用いられる。地名自体は「家のなかの絵」(1920年執筆)で言及のみされるが、本格的に舞台として機能するのは「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」(1921-22年発表)が最初とされる[1]。
基本プロフィール
- 分類: 地名
- 欧文表記: ARKHAM
- 初出: 「家のなかの絵」(1920年12月12日執筆) — 地名のみの言及
- 本格的な舞台としての初出: 「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」(1921-22年『ホーム・ブルーワー・ジャーナル』連載)[1]
- 地理設定: ミスカトニック渓谷中央をミスカトニック川が南北に分け、上流にダニッチ、河口にキングスポートがあるとされる
- 主要施設: ミスカトニック大学(医学部含む)、クライストチャーチ墓地、絞首刑人の丘(Hangman’s Hill)
原典での描写
ハーバート・ウェスト―死体蘇生者(1921年9月-1922年半ば)
アーカムでの惨劇は、伝染病の峠を越えた後も終わらない。かつてミスカトニック大学医学部で学んだハーバート・ウェストと語り手の経験は、学寮長ハルジー博士の葬儀の夜にも続く。クライストチャーチ墓地で番人が惨殺される事件が起こり、語り手が疫病そのものより忌まわしいと記す「第二のアーカムの恐怖」が始まる。語り手はその夜を「その翌晩、悪魔たちがアーカムの屋根の上で踊り、尋常でない狂気が風の中で吠え猛った」と綴る[8]。
狂気の山脈にて(1931年2月-3月22日)
ミスカトニック大学南極探検隊の本船には、大学の所在地にちなんで「アーカム」の名が与えられた。J・B・ダグラス船長の指揮のもと、隊の通信はこの船を経由し、さらにキングスポート岬にある「アーカム・アドヴァタイザー」紙の中継局から外部へ送られた。町は、南極から絶えず呼びかけられる母港として物語に姿を見せる[9]。
インスマスの影(1931年11月?-12月3日)
語り手は母方の家系を調べる目的でアーカムを訪れ、道中でインスマス行きのバスの噂を耳にする。旅の終盤、アーカム歴史協会の学芸員E・ラファム・ピーボディから「本物のマーシュの目をしている」と告げられ、この一言が、語り手自身がオベド・マーシュの血を引くという疑惑を決定づける[10]。
魔女の家の夢(1932年1月-2月28日)
ハヴァヒル出身のウォルター・ギルマンがミスカトニック大学に入って以来住むアーカムの下宿には、1692年にセイラムの牢を抜け出したキジア・メイスンが実際に住んでいたとされ、魔女伝説が個々の建物の記憶として生々しく残る町として描かれる。作中の言葉を借りれば、そこは「絶えることのない、伝説に覆われた町であり、その群がり合う切妻屋根は、植民地時代の暗い日々に王の手先から逃れた魔女たちが隠れた屋根裏部屋の上で、しなだれ、たわんでいる」[11]。
戸口に現れたもの(1933年8月21日-24日)
エドワード・ダービーは正気を失った末、アーカム・サナトリウムに収容される。語り手は彼との間柄を育んだ町を「古めかしく朽ちかけた、ひそかに不気味さを漂わせる町――魔女に呪われ、伝説に取り憑かれたアーカム、その寄せ集まった傾いた切妻屋根と崩れかけたジョージ王朝風の欄干が、暗くつぶやくミスカトニック川のほとりで幾世紀を物思いにふけっている」と振り返る[12]。
時間からの影(1934年11月-1935年3月)
記憶喪失から回復した語り手ネイサニエル・ウィンゲート・ピースリーは、自らの故郷を「幾世紀にもわたる陰鬱な瞑想が、崩れかけ、ささやきに満ちたアーカムに、こうした影に対する独特の脆さを与えていたのかもしれない」と振り返る。悪夢の中で見た自分自身の怪物じみた姿に絶叫した夜には、その叫び声がアーカムの住民の半数を眠りから叩き起こしたと記される[13]。
名前のみの言及
このほか、「家のなかの絵」(1920年)には旅の目的地として、「祭り」(1923年)には語り手が運ばれる病院の所在地として、それぞれアーカムの名だけが登場する。「名状しがたきもの」(1923年)、「銀の鍵」(1926年)、「未知なるカダスを夢に求めて」(1926-27年執筆)、「宇宙からの色」(1927年)、「ネクロノミコンの歴史」(1927年)、「ダニッチの怪」(1928年)、「闇に囁くもの」(1930年)、「銀の鍵の門を越えて」(1932-33年)でも、大学図書館・新聞社・カーター家の旧宅など、町に付随する固有名詞の言及にとどまる。「インスマスの影」の廃棄草稿にも、決定稿と重なる言及がある。
「霧の中の奇妙な高屋敷」(1926年)には、丘陵からアーカムを望む場面があり、「幾里もの川と草原の彼方に、アーカムの白いジョージ王朝様式の尖塔が連なる見事な眺めが広がっていた」[14]と描写される。「宇宙からの色」(1927年)でも、測量に訪れた語り手が、そこは「魔女伝説に満ちた非常に古い町」だと聞かされ、その害悪は何世代もの祖母たちが子供に囁いてきたようなものだろうと思ったと回想する[15]。
由来・モデル
モデルとなったのはマサチューセッツ州セイラムおよびロードアイランド州プロヴィデンス(ラヴクラフトの故郷)。ラヴクラフトが描いたアーカムの地図はセイラムの地形とよく対応しており、実在のセイラムが1692年のセイラム魔女裁判で知られるのに対応する形で、架空都市アーカムでも同様の魔女関連の事件が過去にあったという設定が組まれている。街の西にある「絞首刑人の丘(Hangman’s Hill)」は、実在のセイラムで魔女の嫌疑をかけられた人々が処刑されたギャロウズ・ヒルに対応する位置にあり、この地理的対応関係を裏づける一例である。
歴史・年表
作中年表としては、1692年にセイラムの魔女裁判を逃れた人々が入植を開始したとされ[2]、魔術師エドマンド・カーターも同年セイラムからアーカム背後の丘陵へ逃れている(「銀の鍵の門を越えて」)[3]。1882年6月には近郊の農場に隕石が落下した(「宇宙からの色」)[4]。また「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」では、ウェストの医学部在学中にチフスの大流行が街を襲う(作中に年の明記は無い)。物語はこの惨状を「まるでエブリスの広間から来た有害な悪鬼のように、腸チフスがアーカムを忍び寄り歩いた」[5]と描写し、埋葬が追いつかず「クライストチャーチ墓地の受入用納骨堂でさえ、未防腐処理の遺体を収めた棺で埋め尽くされた」[6]という惨状が語られる。1928年8月にはダニッチのウィルバー・ウェイトリーによる大学附属図書館侵入死亡事件(「ダニッチの怪」)、同年10月のランドルフ・カーター失踪(「銀の鍵」)など、複数の代表作の事件がこの町の年表上に位置づけられている。18世紀には西インド諸島との貿易でキングスポートとともに繁栄し、19世紀には工業地帯へと産業転換した。
なお、アーカムとダニッチの距離感についてはラヴクラフトとオーガスト・ダーレスの記述で食い違いがあり、ダーレスは原作よりもアーカムのすぐ近くにダニッチがあるものとして後続作品を書いている。単一の確定した設定ではなく、原作者と後続作家の間で生じた地理設定の揺れとして扱う必要がある。
性質・特徴
新旧の科学知識と怪異が衝突する舞台であり、合理主義者の知識人が超自然の怪異と遭遇して理性を崩壊させる、神話文学の基本構造を体現する。「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」では、街の敬愛される医師ハルジー博士について「アーカムのあらゆる老住民が記憶する、病人のために尽くした学識ある慈悲深い」人物と描写され[7]、この種の敬愛される知識人がやがて怪異に呑まれていく構図が繰り返し使われる。
ラヴクラフトの死後(1937年)、友人作家オーガスト・ダーレスとドナルド・ワンドレイが、パルプ雑誌に散らばっていた故人の怪奇小説をハードカバーの追悼版として刊行するために設立した出版社「アーカムハウス(Arkham House)」の社名は、この架空都市に由来する。地名としての波及力も大きく、ボードゲーム『Arkham Horror』およびリビングカードゲーム『Arkham Horror: The Card Game』(いずれもFantasy Flight Games)は、この町を舞台にした協力型ゲームとしてクトゥルフ神話を題材にしている。DCコミック『バットマン』シリーズの精神病院「アーカム・アサイラム」も、編集者ジャック・C・ハリスと脚本家デニス・オニールがラヴクラフトのアーカムへのオマージュとして命名したとされ、神話の枠を越えたポップカルチャーの語彙として定着したことを示す一例といえる。
関連する人物・存在・出来事
ミスカトニック大学を通じてヘンリー・アーミテージ博士・ハーバート・ウェスト・ウォルター・ギルマン・ネイサニエル・ウィンゲート・ピースリーら複数の作品の登場人物と結びつく。街そのものが複数の神話的事件を横断する共通の舞台装置として機能する。なお、チャールズ・デクスター・ウォードの物語の舞台は実在のプロヴィデンスであり、アーカムではない。インスマス・ダニッチ・キングスポートとは地理的に隣接し、これら4都市がラヴクラフト神話地理の中核をなす。
主要登場作と読みどころ
- 「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」(1921-22年): アーカムが本格的な舞台として機能する最初期の連作。ミスカトニック大学医学部を中心に、チフス流行という実際に街を襲った惨事が物語の背景として描かれる
- 「ダニッチの怪」(1928年): アーカムの学者ヘンリー・アーミテージ博士が、隣接するダニッチの怪異解決に赴く構図で、アーカムが「調査する側の拠点」として機能する典型例
- 「宇宙からの色」(1927年): アーカム近郊の農地を襲う異常現象を描き、都市そのものではなく周辺の田園部までがアーカムの「圏内」として扱われることを示す
よくある誤解・設定の食い違い
Q. アーカムとダニッチの距離関係は原典で確定していますか?
A. いいえ。ラヴクラフト自身の記述とオーガスト・ダーレスによる後年の記述の間に食い違いがあり、ダーレスは原作よりも両者を近接させて描いています。単一の確定設定ではなく、後続作家による解釈の揺れとして扱う必要があります。
Q. アーカムのモデルはセイラムだけですか?
A. いいえ。地形的な対応関係は主にセイラムに基づきますが、ラヴクラフトの故郷であるプロヴィデンスの要素も色濃く反映されており、単一の実在都市に一対一で対応するものではありません。
出典
- [1] “the third year of our course at the Miskatonic University Medical School in Arkham”(訳: 「私たちのミスカトニック大学医学部での課程の3年目」) — H. P. Lovecraft, “Herbert West—Reanimator”(1921-22年), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [2] “The region had been settled in 1692 by fugitives from the witchcraft trials in Salem”(訳: 「この地方には1692年、セイラムの魔女裁判からの逃亡者たちが入植していた」) — H. P. Lovecraft & E. Hoffmann Price, “Through the Gates of the Silver Key”(1934年発表), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [3] “which the old wizard Edmund Carter called down from the stars and up from the crypts of nether earth when he fled there from Salem in 1692″(訳: 「老魔術師エドマンド・カーターが1692年にセイラムからこの丘陵へ逃れた際、星々から呼び降ろし、地底の霊廟から呼び上げたもの」) — 同上 ↩ ↩
- [4] “The day after that—all this was in June of ’82—the professors had trooped out again in a great excitement.”(訳: 「その翌日——これはすべて82年6月のことだった——教授たちはまた大興奮でやって来た」) — H. P. Lovecraft, “The Colour Out of Space”(1927年発表), 公式アーカイブ。作中表記は「’82」だが、語り手が自動車時代(“this motor age”)から回想する構成のため1882年を指す ↩ ↩
- [5] “like a noxious afrite from the halls of Eblis typhoid stalked leeringly through Arkham”(訳: 「まるでエブリスの広間から来た有害な悪鬼のように、腸チフスがアーカムを忍び寄り歩いた」) — H. P. Lovecraft, “Herbert West—Reanimator”(1921-22年), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [6] “even the Christchurch Cemetery receiving tomb was crammed with coffins of the unembalmed dead”(訳: 「クライストチャーチ墓地の受入用納骨堂でさえ、未防腐処理の遺体を収めた棺で埋め尽くされた」) — 同上 ↩ ↩
- [7] “the learned and benevolent Dr. Allan Halsey, whose work in behalf of the stricken is recalled by every old resident of Arkham”(訳: 「病人のために尽くした、学識ある慈悲深いアラン・ハルジー博士のことは、アーカムのあらゆる老住民が記憶している」) — 同上 ↩ ↩
- [8] “The next night devils danced on the roofs of Arkham, and unnatural madness howled in the wind.”(訳: 「その翌晩、悪魔たちがアーカムの屋根の上で踊り、尋常でない狂気が風の中で吠え猛った」) — H. P. Lovecraft, “Herbert West—Reanimator”(1921-22年), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [9] “J. B. Douglas, commanding the brig Arkham, and serving as commander of the sea party”(訳: 「J・B・ダグラスが定期船アーカム号を指揮し、海上部隊の隊長を務めた」) — H. P. Lovecraft, “At the Mountains of Madness”(1931年発表), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [10] “the curator had told me I had the true Marsh eyes”(訳: 「学芸員は、私に本物のマーシュの目がある、と告げていた」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow over Innsmouth”(1931年発表), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [11] “He was in the changeless, legend-haunted city of Arkham, with its clustering gambrel roofs that sway and sag over attics where witches hid from the King’s men in the dark, olden days of the Province.”(訳: 「彼は、絶えることのない、伝説に覆われた町アーカムにいた。その群がり合う切妻屋根は、植民地時代の暗い日々に王の手先から逃れた魔女たちが隠れた屋根裏部屋の上で、しなだれ、たわんでいた」) — H. P. Lovecraft, “The Dreams in the Witch House”(1932年発表), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [12] “witch-cursed, legend-haunted Arkham, whose huddled, sagging gambrel roofs and crumbling Georgian balustrades brood out the centuries beside the darkly muttering Miskatonic”(訳: 「魔女に呪われ、伝説に取り憑かれたアーカム、その寄せ集まった傾いた切妻屋根と崩れかけたジョージ王朝風の欄干が、暗くつぶやくミスカトニック川のほとりで幾世紀を物思いにふけっている」) — H. P. Lovecraft, “The Thing on the Doorstep”(1933年発表), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [13] “It may be that centuries of dark brooding had given to crumbling, whisper-haunted Arkham a peculiar vulnerability as regards such shadows”(訳: 「幾世紀にもわたる陰鬱な瞑想が、崩れかけ、ささやきに満ちたアーカムに、こうした影に対する独特の脆さを与えていたのかもしれない」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow out of Time”(1934-35年執筆), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [14] “give a lovely vista of Arkham’s white Georgian steeples across leagues of river and meadow”(訳: 「幾里もの川と草原の彼方に、アーカムの白いジョージ王朝様式の尖塔が連なる見事な眺めが広がっていた」) — H. P. Lovecraft, “The Strange High House in the Mist”(1926年発表), 公式アーカイブ ↩ ↩
- [15] “They told me this in Arkham, and because that is a very old town full of witch legends I thought the evil must be something which grandams had whispered to children through centuries.”(訳: 「彼らはそれをアーカムで私に語った。そこは魔女伝説に満ちた非常に古い町だったので、その害悪とは何世代にもわたって祖母たちが子供たちに囁いてきたようなものだろうと私は思った」) — H. P. Lovecraft, “The Colour Out of Space”(1927年発表), 公式アーカイブ ↩ ↩





