編集部注(著作権について): 出典の『時間からの影』は、Astounding Stories誌掲載号の著作権が更新されているため(Catalog of Copyright Entries登録番号R316511)、2032年まで米国で著作権が継続しているとする資料がある一方、複数の電子アーカイブがパブリックドメイン扱いで全文を公開している。著作権の扱いには出典間で相違があるため、本記事の引用は論評・紹介目的の短い範囲に限定している。
概要
ミスカトニック大学の経済学教授。1908年5月14日、講義中に突然倒れて以来、5年4ヶ月13日にわたって元の人格を失い、見知らぬ人物のような言動を示す「健忘症」に陥った人物であり[1]、その真相を綴った手記「時間からの影」の語り手を務める。
基本プロフィール
- 分類: 人物
- 欧文表記: NATHANIEL WINGATE PEASLEE
- 初出: 「時間からの影」(1934〜35年執筆、Astounding Stories誌1936年6月号発表)
- 職業: ミスカトニック大学 経済学教授
- 家族: 息子ウィンゲート・ピースリー(同じくミスカトニック大学教授)
原典での描写
経歴と1908年5月14日の発作
ピースリーはハヴァヒルのジョナサンとハンナ(旧姓ウィンゲート)夫妻の子として生まれ、18歳だった1889年にミスカトニック大学へ入学した。卒業後はハーバード大学で経済学を修め、1895年に母校へ政治経済学講師として戻っている。1896年にハヴァヒルのアリス・キーザーと結婚し、1898年・1900年・1903年にそれぞれ長男ロバート、次男ウィンゲート、長女ハンナをもうけた。1898年に准教授、1902年には正教授へ昇進している。発作が起きたのは1908年5月14日木曜日、政治経済学第六講義の最中、午前十時二十分頃のことだった。以後16時間半にわたり昏睡し、自宅(クレイン街二十七番地)で手当てを受けた末、翌15日午前三時にようやく目を開けたものの、そこにいたのは自分の素性の記憶を失い、表情や言葉遣いまで一変した何者かだったという[5]。
第二の人格の5年間
目覚めた後の人格は身体の動かし方さえおぼつかず、発音や言い回しにも聞き慣れない癖があったが、体力の回復は早く、歴史・科学・語学・民俗学の知識を貪欲に吸収し続けた。図書館に入り浸り、各地の大学で講座を受けながら、ヒマラヤ(1909年)、アラビア砂漠でのラクダ旅行(1911年)、スピッツベルゲン北方の北極海航海(1912年夏)、ヴァージニア州西部の鍾乳洞探索(1912年)と、単身の長期旅行を重ねた。禁断とされる書物を読み漁ったとの記録が残り、オカルト集団との交友を疑う噂も立っている。妻はこの人格を夫の身体を奪った赤の他人と見なして1910年に離婚し、長男と長女もそれ以来一度も父に会っていない。当時8歳だった次男ウィンゲートだけが、いつか本来の父が戻るという確信を捨てなかったという[6]。
回復後の夢と調査
1913年8月、ピースリーはアーカムの旧宅に戻り、歯車と鏡を組み合わせた奇妙な装置を据え付けた。9月26日の夜に見知らぬ男が訪ねてきた後その装置は持ち去られ、翌27日の昼前、彼は5年前の講義の続きを口にしながら本来の人格として意識を取り戻している。復職後も神経は元に戻らず、悪夢や時間感覚の乱れに悩まされ続け、1915年には教職を退くに至った。やがて彼は、自らの健忘症が未知の領域から入り込んだ何かによる精神の入れ替えだったのではないかと疑うようになり、同種の症例を歴史や医学文献の中に探し求め続けている[7]。
息子ウィンゲートとの関係
回復したピースリーは次男ウィンゲートの親権を得て共に暮らし、以後の研究や生活を彼に支えられた。物語の時点で35歳のウィンゲートはミスカトニック大学の心理学教授であり、父の症例をもっとも深く理解する人物として、この手記自体が彼に宛てて書かれている。オーストラリアの発掘にも終始同行し、父が錯乱状態で野営地に戻った夜もダイアーやボイル博士とともに駆けつけて世話をした[8]。
オーストラリアの遺跡と結末
1935年3月28日、ピースリーは次男ウィンゲートやウィリアム・ダイアーら大学の教授陣とともにボストンを発ち、西オーストラリアの砂漠地帯(ピルバラ地方)で巨石群の発掘に加わった。滞在中、彼は夜な夜な砂漠を単身徘徊するようになり、7月17日から18日の夜、イースの大いなる種族の廃都の地下に埋もれた大書庫らしき遺構に迷い込んでいる。そこで金属製の書物入れを一つ持ち出し、中の一冊に記された文字が英語であり、しかも自分自身の筆跡であるのを目にしたところで意識を失った。パニックの末に脱出した彼はその書物入れを取り落としており、証拠となるはずの品は失われたまま、遺構自体もその後の捜索では見つかっていない[9]。
人物像・性格
物語は「二十二年にわたる悪夢と恐怖の果て、ある種の印象が神話的な起源を持つという苦渋の確信によってのみ救われながら、私は一九三五年七月十七日から十八日の夜、西オーストラリアで見出したと思うものの真実を保証する気にはなれない」[2]という、自らの体験の真偽すら断言できない懐疑的な語り口で幕を開ける。自身の正気を疑いながら真相へと迫っていく姿勢は、ラヴクラフトの語り手に共通する認識論的恐怖の典型例である。
生涯・経歴
1908年5月14日午前10時20分頃、政治経済学の講義中に突然椅子から崩れ落ちて意識を失い、以後5年4ヶ月13日にわたって「正しい人格が我々の通常世界の光を再び目にすることはなかった」[3]という長期の人格喪失状態に陥る。この期間、彼の身体は元とは全く異質な言動を示し、猛烈な勢いで世界中の書物や知識を渉猟し続けた。
回復後の彼は当初、これを心因性の疾患と考えていたが、その後見るようになった悪夢と、各地で得られる断片的な証言から、真相に気づき始める——健忘症の期間中、自分の精神は太古の地球に栄えた「イースの大いなる種族」の一個体と入れ替わっており、逆に自分の精神がその種族の肉体に宿されて、彼らの巨大な図書館都市で暮らしていたのだという。彼が理解するに至った大いなる種族の精神交換の仕組みは、「適切な機械的補助を用いて、精神は時間を越えて自らを前方に投射し、暗く超感覚的な手探りで求める時代へと近づいていく。そして予備的な試みの後、その時代の生命形態の中で最も優れた個体を捕らえ、その生物の脳へ入り込み自らの波動を打ち立てる。追い出された精神は代わりに、押しのけた側の時代へと跳ね返される」[4]というものであった。
物語終盤、彼は息子ウィンゲート・ピースリー(ミスカトニック大学教授)らとともにオーストラリアの奥地(グレートサンディ砂漠)へ赴き、大いなる種族の廃都の遺跡で自らの体験の物的証拠——太古に自分自身が(大いなる種族の身体で)書き残した手記そのもの——を発見するに至る。
他の人物・存在との関係
息子ウィンゲート・ピースリーは、父の「奇妙な健忘症」以来ずっと寄り添い続けた家族であり、後年のオーストラリア探検にも同行する重要な協力者である。物語自体、この息子に向けて事の真相を語り残すという体裁を取っている。
主要登場作と読みどころ
- 「時間からの影」: ピースリーが語り手を務める唯一の収録作。1908年の健忘症発症、回復後に見るようになる悪夢、大いなる種族の文明の詳細、そしてオーストラリアでの物証発見という、精神交換というテーマを扱った代表的な一連の出来事がすべてこの手記の中で語られる
よくある誤解
Q. ピースリーの「健忘症」は原作内で心因性の病気だったのですか、それとも本当に精神交換が起きていたのですか?A. 物語の構成上、当初は心因性の疾患という解釈も提示されますが、最終的にピースリー自身がオーストラリアの遺跡で自らの手による太古の手記という物的証拠を発見することで、精神交換が実際に起きていたことが強く示唆される結末になっています。
Q. 「精神交換(マインド・エクスチェンジ)」というテーマは、この作品オリジナルの設定ですか?A. 「時間からの影」はこのテーマを扱ったラヴクラフト自身の代表作ですが、後年のTRPG等でも精神交換は繰り返し扱われる代表的なケーススタディとなっており、原作のアイデアがジャンル全体に影響を与えた例といえます。
出典
- [1] “It was on Thursday, May 14, 1908, that the queer amnesia came…the collapse occurred about 10:20 a.m., while I was conducting a class in Political Economy VI…Then I slumped down, unconscious in my chair, in a stupor from which no one could arouse me.”(訳: 「その奇妙な健忘症が訪れたのは、一九〇八年五月十四日木曜日のことだった……その崩落は午前十時二十分頃、私が政治経済学第六講義を行っている最中に起きた……そして私は椅子の上で崩れ落ち、誰にも目覚めさせることのできない昏迷状態で意識を失った」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow Out of Time”(1934–35年執筆/1936年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “After twenty-two years of nightmare and terror, saved only by a desperate conviction of the mythical source of certain impressions, I am unwilling to vouch for the truth of that which I think I found in Western Australia on the night of July 17–18, 1935.”(訳: 本文中訳参照) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [3] “Nor did my rightful faculties again look out upon the daylight of our normal world for five years, four months, and thirteen days.”(訳: 「そして正しい人格が我々の通常世界の光を再び目にすることはなかった、五年四ヶ月と十三日の間」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [4] “With suitable mechanical aid a mind would project itself forward in time, feeling its dim, extra-sensory way till it approached the desired period. Then, after preliminary trials, it would seize on the best discoverable representative of the highest of that period’s life-forms; entering the organism’s brain and setting up therein its own vibrations while the displaced mind would strike back to the period of the displacer.”(訳: 本文中訳参照) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [5] ハヴァヒル生まれの経歴(両親、1889年のミスカトニック大学入学、ハーバード大学での経済学の修学、1895年の政治経済学講師としての着任、1896年の結婚と三子の誕生、1898年の准教授・1902年の正教授への昇進)、および1908年5月14日木曜日午前10時20分頃、政治経済学第六講義の最中に倒れてから翌15日午前3時に目を覚ますまでの経緯についての記述による — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [6] “vowing that I was some utter alien usurping the body of her husband.”(訳: 「夫の身体を奪った、まったくの他人であると誓って」)ほか、旅行歴、禁書渉猟の噂、1910年の妻との離婚、次男ウィンゲートだけが父の帰還を信じ続けたことについての記述による — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [7] “the secondary personality had indeed been an intruding force from unknown regions”(訳: 「その副次人格こそ、未知の領域から入り込んだ何かだった」)ほか、1913年9月の回復劇と、復職後の不調、1915年に教職を退くまでの経緯についての記述による — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [8] 次男ウィンゲートが親権を得て父の研究生活を支え、物語の時点で三十五歳のミスカトニック大学心理学教授としてオーストラリア探検にも同行し、手記の宛先ともなったという記述による — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [9] “the words of the English language in my own handwriting”(訳: 「綴られていたのは英語の文字、それも自分自身の筆跡だった」)ほか、1935年のオーストラリア遠征、地下遺構での書物入れの発見と喪失についての記述による — 同上, 公式アーカイブ ↩





