編集部注(著作権について): 出典の『時間からの影』は、Astounding Stories誌掲載号の著作権が更新されているため(Catalog of Copyright Entries登録番号R316511)、2032年まで米国で著作権が継続している可能性があります(パブリックドメインとは断定できません)。本記事中の引用は論評・紹介目的のごく短い範囲(数語程度)に限定しています。
概要
オーストラリア大砂漠の地下に築かれた、イースの大いなる種族の都市。語り手ネイサニエル・ピースリーが精神転移中に見た夢の中で繰り返し彷徨った場所であり、後に実際の発掘調査によってその実在が確認される[1]。
基本プロフィール
- 分類: 地名(先史時代のオーストラリア、地下都市)
- 欧文表記: THE GREAT RACE’S CITY
- 初出・出典: 「時間からの影」(執筆1934-1935年/『アスタウンディング・ストーリーズ』1936年6月号)
- 所在: オーストラリア大砂漠地下(西部のグレートサンディ砂漠に相当するとされる)
- 建造者: イースの大いなる種族
原典での描写
「時間からの影」(1934-1935年執筆/1936年発表)
精神転移中のピースリーは、夢の中でイースの大いなる種族の生活圏の広がりを繰り返し目撃する。とらわれの精神は、巨大な飛行船や、幹線道路を行き交う舟形で原子機関を備えた乗り物を用いて、居住可能な世界の全域を自由に巡ることを許されていたという。夢はやがて彼が閉じ込められていた一室を越えて広がり、密林を貫く道路や投射体のような閉鎖式の飛行船での移動、そして広大な海の彼方に築かれた同じ種族の別の都市の光景までもが、断片的な記憶として残された[4]。
都市の中枢には、種族の存続と同じだけの歳月に耐えることを意図した巨大な文書庫があった。記録は粘り強い繊維状の素材でできた大判の紙に記され、上端から開く形式の書物として綴じられたうえで、錆一つ生じない軽い金属製の個別ケースに収められていたという。ケースの表面には数学的な図案とともに、大いなる種族に特有の曲線的な象形文字で表題が刻まれ、これらは同じ金属で作られた棚状の保管庫に整然と並べられていたとされる[5]。
イースの大いなる種族自身の姿も、夢の中でたびたび語られている。彼らは高さ十フィートに達する、いぼ状の突起に覆われた巨大な円錐形の体をもち、頂点から伸びる太い可動肢の先に頭部やその他の器官を備えていたという。四肢のうち二本の先端についた大きな鉤爪をこすり合わせたり打ち鳴らしたりして意思を伝え合い、残る二本の伸縮する基部で移動した。社会の資源は少数の統治機関のもとで計画的に配分され、高度に機械化された産業が生む余暇の大半は、知的・芸術的な活動に充てられていたという[6]。
だが、この都市の内部には大いなる種族自身が口にすることを避けた禁忌もあった。窓のない黒玄武岩の廃墟と、固く閉ざされた落とし戸の周辺には、言葉にできない恐怖の気配が漂っていたという。夢や伝承でわずかに触れられた限りでは、その正体は最後まで姿を現さない。ただ「奇怪な可塑性」や一時的に見えなくなる性質、風のうねりを操る力、五つの円形の跡が並ぶ巨大な足跡だけが、その存在を示す手がかりとして語られるにとどまる[7]。
物語終盤、ピースリーは実際にオーストラリア探検隊に参加し、大陸内陸部の発掘現場で奇妙な暗色の石材を目にする。それは夢の中で幾度となく見た、大いなる種族でさえ恐れた玄武岩造りの遺構の一部であり、地の底に巣食う半ば物質的な異形の者たちが遺したものだと直感する。この発見を仲間のウィリアム・ダイアーやフリーボーンらに告げたことで、夢は実在の記憶だったという確信が、本人の中で決定的なものになる[8]。
由来・モデル
「時間からの影」はラヴクラフト最晩年の長編であり、人類が誕生するはるか以前、イースの大いなる種族が地球を支配していた時代の都市が、オーストラリア大陸の地下に眠っているという設定を採る。舞台がオーストラリアに設定された背景には、当時まだ大陸内陸部の広大な範囲が西洋の学術調査において「空白地帯」として扱われていたことがあり、南極を舞台にした「狂気の山脈にて」と同様、実際の地理的な未踏領域を物語の余白として活用する手法が採られている。
歴史・年表
語り手ネイサニエル・ウィンゲート・ピースリーは、1908年に人格の変容(実際にはイースの大いなる種族との精神交換)を経験して以降、繰り返しこの都市を夢に見るようになる。夢の中で最初に見たのは、天井の高い巨大な石造の広間で、アーチを多用した曲線的な意匠の石組みは、凸型上面の石材と凹型下面の石材が組み合う独特の工法によるものだったとされる[2]。壁面には曲線的な幾何学模様の彫刻と、独自の文字体系による刻文が施され、書棚には巨大な書物が並び、机代わりの巨大な台座には奇妙な材質の壺や道具が置かれていたという。
夢はやがて都市全体の光景へと広がる。数百から千フィート級の巨大建築が、幅広い舗装道路沿いにそれぞれ庭園を伴って連なる光景が語られ、屋上には奇怪な羊歯状の植物が茂る庭園があったとされる。都市のところどころには、他の建築よりもさらに古く風化の進んだ、円筒形で窓のない黒い玄武岩造りの塔が点在しており[3]、それらの周囲には都市の他の場所にはない不気味な威圧感が漂っていたと語られる。決して開かれることのない、金属の帯で封じられた落とし戸群も同様に、名状しがたい危険の気配を放っていたとされる。
物語終盤、ピースリーは実際にオーストラリアへの探検隊に参加し、砂漠の地下から夢で見たものと寸分違わぬ石造建築の遺構を発掘することになる。
性質・特徴
「都市の中に、都市を築いた種族自身すら畏れる、さらに古い痕跡が眠っている」という入れ子状の太古性の表現が、この場所の恐怖の核にある。時間を自在に旅する超越的な種族でさえ踏み込むことを避けた領域が存在するという設定は、宇宙的恐怖における「知の限界」というテーマを、地質学的スケールの建築物という具体的なイメージに落とし込んでいる。黒玄武岩の塔の主とされる存在は、後年の設定で「古のもの」(狂気の山脈にての種族)と結びつけられることが多いが、原典自体では正体は最後まで明言されない。
関連する人物・存在・出来事
イースの大いなる種族と、彼らが恐れた黒玄武岩の塔の主(正体不詳、後世の設定では古のものと同一視されることが多い)が中心的な存在。語り手ネイサニエル・ピースリーの精神転移(精神交換)の経験がこの都市を知る唯一の手がかりとなっている。南極を舞台にした「狂気の山脈にて」の古のものの文明とは、同じくイースの大いなる種族が言及する古い時代の勢力として、後続の設定でしばしば関連づけられる。
主要登場作と読みどころ
- 「時間からの影」(1934-1935年執筆/1936年発表): 唯一の登場作にして中心となる原典。ラヴクラフト最晩年の代表的長編で、人格が入れ替わるという恐怖と、深時間(ディープタイム)のスケール感を組み合わせた構成が特徴。夢の中で徐々に明かされる都市の全貌と、終盤の実地発掘による「夢は現実だった」という反転が最大の読みどころ。
よくある誤解・設定の食い違い
Q. この都市を「レン」や「カダス」のような夢の国(ドリームランド)の一部と考えてよいですか?A. いいえ。夢の国は別次元的な幻想世界として描かれるのに対し、この都市はオーストラリア大陸の地下に実在する遺跡として設定されており、物語内で実際に発掘・確認されます。作中でも両者は明確に区別されています。
Q. 黒玄武岩の塔の主の正体は原典で明かされますか?A. いいえ。原典では正体不明のまま示唆に留まります。「古のもの」との同一視は後年のTRPG設定等で広まった解釈であり、ラヴクラフト自身の記述として断定されているわけではありません。
出典
- [1] “I would seem to be in an enormous vaulted chamber…”(訳: 「私は、巨大な穹窿状の広間にいるように思われた……」) — H. P. Lovecraft, “The Shadow Out of Time”(1934-1935年執筆/1936年発表), 公式アーカイブ(※著作権継続の可能性があるため、引用は数語の断片に限定) ↩
- [2] “…whose lofty stone groinings were well-nigh lost in the shadows overhead.”(訳: 「……その高く聳える石造の穹窿は、頭上の闇にほとんど紛れて見えなかった」) — 同上 ↩
- [3] “In certain places I beheld enormous dark cylindrical towers which climbed far above any of the other structures…”(訳: 「ある場所では、他のどの建造物よりもはるかに高く聳える、巨大で暗い円筒形の塔を目にした……」) — 同上 ↩
- [4] 飛行船や原子機関を備えた乗り物で幹線道路を往来し、居住可能な世界の全域を自由に巡っていたという記述による — 同上 ↩
- [5] 巨大な文書庫と、錆のない金属製のケースに収められた記録についての記述による — 同上 ↩
- [6] 高さ十フィートの円錐形の体、四肢の構造、社会・資源配分の仕組みについての記述による — 同上 ↩
- [7] “veiled suggestions of a monstrous plasticity”(訳: 「奇怪な可塑性をうかがわせる示唆」)ほか、姿を明かさない存在と風・足跡の手がかりについての記述による — 同上 ↩
- [8] オーストラリアでの発掘中、夢に見た玄武岩の遺構と同じ石材を発見し、ダイアーらに告げた場面についての記述による — 同上 ↩




