概要
クラネスは名家の血筋を引く最後の一人で、財産と土地をすでに失い、ロンドンの人混みの中で誰にも顧みられることなく暮らしています。目覚めているときの名は別にありますが、本人は夢の中で名乗る「クラネス」という名前でしか自分を語りません。夢について書いたものは人に見せるたびに笑われ、やがて書くこと自体をやめてしまいますが、外の世界から退くほどに彼の見る夢そのものは豊かになっていきました。
クラネスは、生の醜さをそのままの姿で暴こうとする周囲の書き手たちと違い、ひたすら美だけを追い求めます。真実や経験の中にそれを見出せないとき、彼は空想と幻影の中にそれを探し、子供のころの物語や夢のおぼろな記憶の中にたどり着きます。人は夜ふと目を覚まし、魔法にかけられた丘や庭園、太陽の下で歌う泉、光る崖の記憶に襲われることがありますが、それは「象牙の門」を通してかつて見ていた驚異の世界を、一瞬だけ振り返っているのだとラヴクラフトは書いているのです。
物語は、幼いころに一度だけ訪れた都市セレファイスの記憶をクラネスが夢の中で取り戻すところから始まり、村と断崖と虚空を経て都市へ帰り着く二度目の夢、空へ続く海を渡ってセレニアンを目指す航海、麻薬に頼ってまで夢を追い続ける歳月を経て、最後に黄金の甲冑の騎士団に導かれてセレファイスの神として迎えられるところで終わります。その栄光を描いた直後、物語はロンドンの片隅で起きた一つの死を、感情を交えずに書き添えて幕を閉じます。
作品情報
- 原題: Celephaïs
- 執筆: 1920年11月初旬[2]
- 初出: 『The Rainbow』第2巻第2号、1922年5月、10–12ページ[3]
- 分量: 約2,500語(公式アーカイブ本文を機械集計)。章分けなし
- 語り: 三人称。クラネスの見る夢と、彼が置かれた現実の境遇とを交互に描く形式
- 舞台: 現実のロンドンおよびサリー州の丘陵、夢の中の生家と村、断崖の虚空、ウース=ナルガイの谷とセレファイス、空へ続く海、雲の都市セレニアン、レングの高原など
- 主題: 現実の醜さと夢に見出す美の対比、時間が流れない国への憧れ、夢を追い続けることの代償
登場神格・用語
- クラネス(Kuranes) — 本作の主人公です。夢の中でだけ名乗る名で、目覚めているときの名は明かされません。ロンドンで没落した末に、夢を通じてウース=ナルガイの王になります
- セレファイス — クラネスが繰り返し夢に見る都市です。谷間に位置し、海と、雪を頂いた山を望みます
- ウース=ナルガイ(Ooth-Nargai) — セレファイスが位置する谷です。タナリア丘陵の向こうにあります
- タナリア丘陵(Tanarian Hills) — ウース=ナルガイを外の世界から隔てる丘陵です
- アラン山(Mount Aran) — セレファイスの浜辺からそびえる山で、緑の斜面と白い頂をもちます
- ナラクサ川(Naraxa) — クラネスが幼いころ自分の名を刻んだ木の橋がかかる小川です
- ナス=ホルサスの神殿 — 街にあるトルコ石色の神殿です。蘭の花輪をつけた神官たちが、ウース=ナルガイには時間がなく永遠の若さだけがあるとクラネスに告げます
- アシブ(Athib) — クラネスをかつて船に乗せる約束をした船長です。再会したときも同じ香辛料の木箱に腰かけていました
- セレネリア海(Cerenerian Sea) — セレファイスの港から空へと続く海です
- セレニアン(Serannian) — 西風が空へ吹き込む場所に築かれた、桃色の大理石でできた雲の都市です
- レングの高原 — 黄色い絹の仮面をつけ、先史時代の石造修道院に独り住む「名状しがたい大神官」が住む、寒く荒れた高原です
- キュナラソリス王(Kynaratholis) — かつて征服の旅から帰った末に神々の報いを受けたという、廃墟の都市の王です
- インスマス — 物語の結びに登場する海峡沿いの村です。イングランドの村であり、当サイトの地名記事にあるマサチューセッツの港町インスマスとは別の場所なので、リンクはしていません
- トレヴァー・タワーズ(Trevor Towers) — 蔦に覆われた館です。太った成金の醸造業者が「絶えた貴族の空気」を金で買って暮らしています
あらすじ
ロンドンに独り暮らす夢想家
クラネスは名家に生まれた最後の一人で、金も土地も失い、ロンドンの「無関心な幾百万」の中に紛れて暮らしています。夢について書いたものは人に見せるたびに笑われ、やがて書くのをやめてしまいますが、外界への関心を失うほど彼の夢そのものは豊かになっていきました。生の醜さをそのまま暴こうとする周囲の書き手と違い、彼はひたすら美だけを求め、それを子供のころの物語や夢のおぼろな記憶の中に探したのです。夜ふと目覚めた者が魔法の丘や歌う泉の幻を見るとき、それは「象牙の門」を通してかつて見ていた驚異の世界を、一瞬だけ振り返っているのだとラヴクラフトは述べています[1]。
断崖の底に見た都市
生家の夢を見ていたクラネスは、月明かりの下、蔦に覆われた石造りの家から庭を抜け、古びて荒れた村を通り、海峡の崖へと続く小道に引き寄せられていきます。村も世界もそこで唐突に終わり、目の前には光の届かない虚空が口を開けていました。信仰に背を押されるように断崖から身を投げると、彼は形をなさない夢、まだ半ばしか夢見られていない淡く光る球体、夢見る者たちを嘲るように笑う翼あるものたちのそばを、どこまでも落ちていきます。そのとき、目の前の闇に裂け目が開いたようで、彼ははるか下方に、海と空を背景として燦然と輝く谷間の都市を見ました[1]。目覚めた瞬間、彼はそれがタナリア丘陵の向こうウース=ナルガイの谷にあるセレファイスだと悟ります。かつて子供のころ、乳母の目を盗んで崖の上で雲を眺めているうちに一度だけ迷い込み、金の帆船に乗ろうとした矢先に起こされて連れ戻された、あの都市でした。四十年を経て見つけたその都市を、彼はまた失ったことを惜しみました。
セレファイスへの帰郷とセレニアンを目指す船出
三晩後、クラネスは同じ道筋をたどってセレファイスに戻ります。今度は空中に投げ出されたまま目覚めることなく、翼あるもののように丘の上へ静かに降り立ちました。かつて自分の名を刻んだ木の橋でナラクサ川を渡り、木立を抜けて石橋を渡ると、大理石の壁も青銅の像も色褪せておらず、衛兵たちも記憶のままの若さでそこに立っています。街に入ると商人や駱駝引きが何事もなかったように彼を迎え、トルコ石色のナス=ホルサスの神殿では、蘭の花輪をつけた神官たちが、ウース=ナルガイに時間はなくただ永遠の若さだけがあると告げます。柱の並ぶ大通りを抜けて海に面した壁まで来ると、クラネスはかつて船を約束してくれた船長アシブを、以前と同じ香辛料の木箱の上に見つけました。二人は港のガレー船に乗り込み、空へと続くセレネリア海へ漕ぎ出します。幾日か波に揺られたのち、船は海と空が出会う地平線に至り、薔薇色に染まった雲の間を漂うように進みました。船の下には見たこともない美しい国や川や都市が、尽きることのない陽光の中に横たわっています。船長アシブが、まもなく雲の都市セレニアンの港に着くと告げ、尖塔がその姿を見せかけたところで、どこか空の彼方から音が響き、クラネスはロンドンの屋根裏部屋で目を覚ましてしまいます。
さすらいと麻薬、そして永遠の帰還
それから幾月ものあいだ、クラネスはセレファイスへの道を探し続けますが、見つかりません。ある夜は暗い山々を飛び越え、人の手では築けそうにない、両端の見えない古代の石壁を越えた先で、庭園と桜の木に満ちた国にたどり着きます。あまりの美しさに一瞬セレファイスを忘れかけますが、赤い屋根の塔へ向かう道すがら、そこにいるのは鳥と蜂と蝶だけで、道を尋ねる人の姿はありません。またある夜は湿った螺旋階段を延々と上り、満月に照らされた川と平野を見晴らす塔の窓にたどり着きました。そこへ地平線の彼方から不気味な極光が立ちのぼり、その光が下の街の荒廃と、淀んだ葦の川と、キュナラソリス王が征服から帰った末に神々の報いを受けて以来その土地に横たわる死とを照らし出したのです。彼はまた、黄色い絹の仮面をつけて先史の石造修道院に独り住む名状しがたい大神官からも、レングの寒い高原で危うく逃れています。ついに彼は昼の時間に耐えかね、眠りを長引かせるために麻薬を買い求めるようになりました。ハシシは彼を、形というものが存在せず、光る気体が存在の秘密を研究している宇宙の領域まで運んでいます[1]。金が尽きて麻薬も買えなくなったある夏の日、屋根裏部屋を追われたクラネスは家々がまばらになる橋のたもとまで彷徨い歩き、そこでついに、セレファイスから彼を永遠に連れ去るために遣わされた騎士団の行列に出会いました。金襴の胴着をまとい艶やかな甲冑を着た騎士たちの長は、ウース=ナルガイを夢の中に創り出したのは彼自身であるゆえ、これよりセレファイスの主神として迎えると告げます。馬を与えられ列の先頭に立ったクラネスは、サリーの丘陵を抜けて生まれ故郷の方角へと駆けてゆき、道すがら時をさかのぼるように、チョーサーの時代さながらの村や騎馬の従者たちを目にします。やがて到達した幼い日の村は生き生きと目を覚ましており、村人たちは馬列に会釈を送りました。そのまま「夢の虚空」に至る小道の断崖へ差しかかったとき、東から金色の光がすべてを覆い、虚空は薔薇と青の輝きに満ちた渦となって、目に見えぬ声が歓喜の歌をうたうなか、騎士たちはきらめく雲を抜けて谷底へと舞い降りていきます。霧が晴れた先に現れたのは、海と空を背景に輝く都市セレファイスと、雪を頂いた山と、色鮮やかなガレー船の姿でした[1]。クラネスはその後、ウース=ナルガイと周囲の夢の国々を治め、セレファイスと雲のセレニアンとに交互に宮廷を構え、いまも幸福に治め続けているといいます。だが物語の最後の一文は、海峡の崖の下、蔦に覆われたトレヴァー・タワーズのそばの岩に、夜明けに半ば人気のない村をさまよっていた一人の浮浪者の遺体を、潮がもてあそぶように打ち上げていたと書き添えます。その館では、太った不快な醸造業者の成金が、金で買った貴族の気配を享受して暮らしているのです[1]。
読みどころと注目テーマ
「裂け目」が開く瞬間
物語には、闇の中に裂け目が開いてセレファイスの姿が現れる場面が二度置かれています。最初は断崖から落ちていく最中に一瞬だけ都市を見て目覚めてしまい、二度目は同じ経路をたどりながら都市に降り立つところまで進みます。冒頭の一文がほぼそのまま物語の最後にも置かれる構成になっており、同じ光景を三度――幼少期の記憶、二度の夢、そして最後の騎士団との帰還――で塗り重ねていく書き方が、この作品の骨格をなしています。
時間が流れない国と、時間に食い荒らされた国
ウース=ナルガイの神官は、ここに時間はなくただ永遠の若さだけがあるとクラネスに告げ、実際に街の壁も衛兵も何十年経っても変わりません。その一方でクラネスが夢の中で迷い込むもう一つの都市は、キュナラソリス王の代からずっと廃墟のまま朽ち続けています。同じ夢の世界の中に、時間が止まった街と時間に蝕まれ続ける街が並んで置かれ、クラネスが繰り返し求めるのは前者だけだという対比が、探索の場面ごとに確かめられていきます。
栄光のすぐ後に置かれた一つの死
クラネスが騎士団に導かれて神として迎えられる場面は、勝利と祝福に満ちた文章で描かれるものです。ところが物語はそのすぐ後、視点を変えることなく一文だけで、海峡の村をさまよっていた浮浪者の遺体が岩に打ち上げられ、近くの館では成金の醸造業者が買った貴族の気配を吸って暮らしている様子を書き添えて終わります。誰の遺体であるかを地の文は明言していませんが、クラネスの現実の姿がロンドンの屋根裏部屋を追われた無一文の男であったことは、それまでの記述からすでに読者に示されています。
執筆背景と影響
公式年譜によれば、本作は1920年11月初旬に執筆されています[2]。初出は1922年5月発行の『The Rainbow』第2巻第2号で、10ページから12ページに掲載されました[3]。成立の経緯や同時期の他作品との関係については、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “Celephaïs” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/c.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(1920年11月初旬)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘Celephaïs'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/c.aspx初出『The Rainbow』第2巻第2号(1922年5月)10–12ページの出典。
関連作品ガイド ── どれから楽しむか
- セレファイス(地名) — クラネスが夢の中で繰り返し訪れる都市そのものを扱った記事です。
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- 未知なるカダスを夢に求めて — クラネスの名が登場する作品です。



