概要
語り手は、案内人に率いられたマンモス・ケーヴの見学の一行から離れ、禁じられた脇道を一時間以上さまよった末、自分が完全に道を失ったことを悟ります。どちらを向いても目印になるものはなく、松明の灯りも風前の灯火です。もう二度と昼の光を見ることはないという結論が、揺るがぬ確信になっていきます。哲学的な素養のおかげか、取り乱すことのない静かな平静さです。餓死こそが自分の運命だろうと語り手は考えます。灯りが消える直前に思い出したのは、かつてこの洞窟へ移り住んだ肺病患者たちの逸話です。地上より澄んだ空気と一定の気温を求めて住み着いた彼らは、健康を得るどころか「奇怪でおぞましい形の死」を迎えたと伝えられており、朽ちた小屋の跡を見学中に目にしたことも語り手は思い出します。
暗闇の中で助けを求めて叫んだ直後、語り手は忍び寄る足音に気づきます。案内人の靴音とは違う、猫科の動物を思わせる柔らかな足取りで、時おり四本、時おり二本の足を使っている気配です。逃げ場のないまま最大の石を両手に構え、迫る呼吸音に向けて投げつけると、一投目は外れたものの、二投目が命中し、生き物はその場に崩れ落ちます。息はまだ続いていましたが、近づいて確かめる気力は残っていません。語り手はその場から走り去り、やがて金属質な靴音を耳にします。松明を掲げた案内人との再会です。行方不明になっていた四時間の経緯を聞かされたのち、語り手は自らが傷つけた生き物の正体を確かめようと、案内人とともに現場へ引き返します。
戻った先で二人が見つけたのは、全身が雪のように白く、頭部だけ豊かな白髪を垂らした、大型の類人猿のような姿でした。四肢の傾き方が語り手の聞いた歩き方の謎を解き、指先には長い爪、手足には物をつかむ機能がありません。息を引き取る間際、生き物は瞳孔のない漆黒の目をこちらへ向け、どの類人猿の声とも違う低い唸り声のような音を発します。案内人が拳銃を構えかけたところでその音に手が止まり、生き物は最後にいくつかの音を発してから絶命します。その音が語り手たちに告げたのは、自分たちが撃ち殺したこの生き物が、かつて人間だったという事実でした。
作品情報
- 原題: The Beast in the Cave
- 執筆: 1905年4月21日[2]
- 初出: 『The Vagrant』第7号、1918年6月、113–120ページ[3]
- 分量: 約2,500語(公式アーカイブ本文を機械集計)。章分けなし
- 語り: 一人称。マンモス・ケーヴで一行からはぐれた語り手による回想
- 舞台: マンモス・ケーヴの内部。案内人が観光客を率いて巡る、洞窟の「禁じられた脇道」
- 主題: 姿の見えない相手の足音・呼吸音だけで恐怖を築く語り、洞窟という環境が生き物の身体を変えるという着想、正体を最後の一行まで明かさない構成
登場神格・用語
神格は登場しません。作中に出てくる固有名詞は次の2つです。
- マンモス・ケーヴ(Mammoth Cave) — 語り手が見学中にはぐれ、迷い込む巨大な洞窟。「vast and labyrinthine recesses」(広大で迷路のような奥まった場所)と表現されます。
- グリーン・リバー(Green River) — 洞窟の水域とどこかで通じているとされる川で、そこから運ばれてくる魚が生き物の食料の一部だったと語り手は推測します。
あらすじ
見失った出口
語り手は一行から離れ、案内人に知られないまま洞窟の脇道に一時間以上とどまった末、来た道をたどれなくなっていることに気づきます。「turn as I might, in no direction could my straining vision seize on any object capable of serving as a guidepost」(どちらを向いても、目を凝らしても、目印になりそうなものは何一つ見当たりません)。もう二度と日の光を拝むことはないという確信が固まり、それでも取り乱さずにいられる自分の平静さに、語り手はいくらかの満足を覚えます。死ぬのなら、この洞窟はどの墓地にも劣らない立派な墓所だという想い。餓死を運命づけられたと悟った語り手は、松明が消える寸前、かつてこの洞窟へ移り住んだ肺病患者たちの逸話を思い出します。地上より澄んだ空気と一定の気温を求めて住み着いた彼らは、健康を得るどころか「death in strange and ghastly form」(奇怪でおぞましい形の死)を迎えたと伝えられており、朽ちた小屋の跡を見学中に見かけていたことも思い出します[1]。
忍び寄る足音
松明が尽きる寸前、語り手は助けを求めて大声で叫びますが、反響するだけで届く見込みはないと諦めかけます。ところがそのとき、岩の床を踏む柔らかな足音に気づきます。案内人の靴なら鋭く硬い音がするはずですが、聞こえてくるのは猫科の動物のような、忍び足に似た音です。しかも耳を澄ますと、四本の足の跡と二本の足の跡が入り混じって聞こえます。てっきり迷い込んだ山猫だろうと考えた語り手は、身を隠しても無駄だと悟り、床に転がる岩のかけらを両手に構えて身構えます。足音は語り手の匂いを追って着実に迫り、その息づかいには長距離を歩いてきたような疲労がにじんでいました。一投目の石は外れて生き物を跳びのかせただけでしたが、二投目が命中すると、生き物は「complete collapse」(完全な崩落)というべき音を立てて倒れ込みます[1]。
現場からの逃走と再会
息はまだ続いているとわかっていながら、語り手にはもう近づいて確かめる気力が残っていません。理屈では説明のつかない恐れに突き動かされ、来た方向へ全力で走り出します。しばらくして聞こえてきたのは、規則正しい金属質の音の連なりでした。案内人の靴音だと悟った瞬間、語り手は歓声を上げ、近づいてくる松明の明かりへ駆け寄ります。案内人の足元に取りすがり、脈絡のない言葉で事の次第を語り、感謝の言葉を浴びせかけたところで、ようやく我に返ります。案内人は一行が入口に着いた時点で語り手の不在に気づき、独自の勘を頼りに脇道を丹念に捜索し、およそ四時間かけて語り手を見つけ出していました。この顛末を聞いた語り手は、自分が石を投げつけた生き物の正体を確かめようと、案内人とともに現場へ引き返すことを申し出ます[1]。
松明の下に見えたもの
戻った二人が見つけたのは、石灰岩の床よりなお白い真っ白な物体で、近づいてみると大型の類人猿のような姿をしていました。体毛は雪のように白く、頭部を除いてほとんど失われていましたが、頭には肩まで垂れる豊かな白髪が残っていました。四肢の傾き方は、歩行中に四本足と二本足を使い分けていた謎を解き明かすもので、指先からは爪のように長い突起が伸び、手足には物をつかむ機能がありません。案内人が息の根を止めようと拳銃を構えたところ、生き物が低く濁った唸り声を発し、それが既知のどの類人猿の声にも似ていなかったため、その手が止まります。やがて痙攣に似た動きとともに体が転がって顔がこちらを向くと、瞳孔を欠いた漆黒の目が、他の洞窟の生き物たちと同じように深く落ちくぼんでいました。厚い唇が開き、いくつかの音を発したのを最後に、生き物は息絶えます。その音が語り手たちに告げていたのは、自分たちが仕留めたこの生き物が、かつて人間だったという事実でした[1]。
読みどころと注目テーマ
視覚を封じたまま恐怖を積み上げる語り
松明が消えたあと、語り手は自分を追ってくるものを一度も目にしないまま、足音・呼吸音・匂いを追う気配だけを頼りに相手の輪郭を推測し続けます。四本足と二本足を不規則に切り替える歩き方、長距離を歩いてきた息づかい、こうした聴覚情報の積み重ねが、姿の見えない相手の正体を読者にも語り手にもわからないまま緊張を持続させます。生き物の姿が実際に描写されるのは、松明の光がふたたび灯った物語終盤になってからです。
最後の一文まで伏せられる正体
語り手と案内人は、白い体毛・傾いた四肢・瞳孔のない目といった生き物の特徴を、ほとんど動物の標本を観察するような筆致で淡々と記録していきます。その観察の積み重ねの果てに置かれるのが、末尾の「The creature I had killed, the strange beast of the unfathomed cave was, or had at one time been, a MAN!!!」(自分が殺したこの生き物、この底知れぬ洞窟の奇怪な獣は、かつて人間だったのだ)という一文です。それまで生き物として記述されてきたものが、最後の瞬間に人間だったと明かされる構成になっています。
洞窟が身体を変えるという着想
物語の前半で語られる肺病患者の逸話は、後半の生き物の描写と呼応しています。「eyeless fish, bats, and rats of the cave」(洞窟に棲む目のない魚やコウモリ、ネズミ)を引き合いに出しながら、語り手は洞窟での長い暮らしが生き物の身体をどう変えるかを想像し、実際に目にした生き物も「like those of other cave denizens」(他の洞窟の生き物たちと同じように)瞳孔を欠いた目をしていました。暗闇の中での長期の生活が、白い体毛や退化した目という形で刻まれるという着想が、冒頭の逸話と終盤の描写を結んでいます。
執筆背景と影響
公式アーカイブの年譜によれば、本作は1905年4月21日に執筆されました[2]。発表は13年後の1918年6月、雑誌『The Vagrant』第7号(113–120ページ)でのことです[3]。執筆から発表までになぜ13年の間隔が空いたのか、この時期に他にどのような作品が書かれていたか、本作が後年の作品にどう影響したかについては、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Beast in the Cave” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/bc.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆日(1905年4月21日)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘The Beast in the Cave'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/bc.aspx初出『The Vagrant』第7号(1918年6月)113–120ページの出典。


