概要
語り手は最初の段落で結末を言ってしまいます。デニス・バリーはどこかへ行ってしまった。自分は彼が人の中で過ごした最後の夜にそばにいて、「あれ」が来たときの悲鳴を聞いた。ミース州の農民と警察が長く遠くまで探しても、彼も、ほかの者たちも見つからなかった。そして今も、沼で蛙が鳴くのを聞くと、人けのない場所で月を見ると、身震いする[1]。
残りの本文は、その夜へ至る数日の記録です。アメリカで財を成したバリーは、父の故郷であるアイルランドのキルデリーに戻り、一族がかつて治めた古城を買い戻して修復しました。そして城の隣に広がる大きな沼を干拓しようとします。農民は沼に触れた者に降る呪いを恐れて村を捨て、バリーは北部から労働者と使用人を呼び寄せ、話し相手のいない城へ語り手を招きます。
ラヴクラフトが1921年3月に書いた約3,400語の短編で[2]、舞台はアイルランドですが、沼の下に眠るのはギリシアの都です。農民の伝承、語り手の夢、島の廃墟の白い大理石、月の女神アルテミス、笛と太鼓。それらが干拓の前夜にひとつに重なります。
作品情報
- 原題: The Moon-Bog
- 執筆: 1921年3月[2]
- 初出: 『ウィアード・テイルズ』第7巻第6号、1926年6月、805–810ページ[3]
- 分量: 約3,400語(公式アーカイブ本文を機械集計)
- 語り: 一人称。事件のあと、ひとりで沼地や月光の中にいると思い出す、という現在から語られる
- 舞台: アイルランド、ミース州の村キルデリー。最寄り駅はバリーロッホで、鉄道は通っていない
- 主題: 父祖の地への帰還と開発、土地の禁忌、沈んだ都、月と笛
登場神格・用語
クトゥルー神話固有の神格は登場しません。作中の固有名を挙げます。
- デニス・バリー: アメリカで富を築き、キルデリーの城を買い戻した男。一族はかつてこの地を治めていましたが、城は何世代も空き家で朽ちていました。古物への関心が強く、干拓のあとで沼を徹底的に調べるつもりでいます
- キルデリー: ミース州の眠ったような村。城と、古い尖塔の教会と、沼を見下ろす平地があります。農民は干拓の話を聞いて、家財を持ってバリーロッホへ去りました
- 沼の島の廃墟: 沼の遠い小島に立つ白い遺構。年代は明らかに古く、輪郭は「アイルランドのたいていの遺跡とはほとんど似ていない」。農民はここに「厳めしい守護霊」が棲むと言います
- パルソロンの子ら/ネメドの民: 農民の伝承に出てくる名。語り手によれば『侵略の書』では「ギリシア人の息子たち」であるパルソロンの子らは疫病ののちタラハトに葬られたことになっていますが、キルデリーの老人たちは、ひとつの都だけが見落とされ、守護する月の女神以外に顧みられぬまま、スキタイから30隻の船で来たネメドの民の時代に森の丘の下へ埋もれた、と言います
- アルテミスの神殿と月の巫女クレイス: 語り手の夢に出る都の、高い峰に残った神殿と、象牙の冠を戴いて冷たく横たわる銀髪の老巫女
- 沼の精(ナイアス): 平地で踊り、最後に労働者を沼へ導く白衣の存在。語り手は「沼の憑かれた泉の、青ざめた物憂げなナイアス」を思わせると書きます
あらすじ
買い戻された城
語り手はアメリカでバリーをよく知っていました。バリーが沼のほとりの古城を買い戻したとき、祝いも言いました。アイルランドへ渡ったバリーは何度も手紙をよこし、灰色の城が塔ひとつずつ昔の姿を取り戻していくこと、修復した壁を蔦がゆっくり這い上がること、海の向こうから金を持ち帰って昔日を蘇らせた彼を農民が祝福していることを書いてきます。やがて手紙の調子が変わります。農民は祝福をやめ、「破滅から逃げるように」去っていった。北部から連れてきた新しい使用人と労働者しか話し相手がいない。来てほしい、と[1]。
語り手が着いたのは夏の日没時でした。空の金色が丘と木立の緑と沼の青を照らし、遠い小島の古い廃墟が「幽霊のように」光っています。バリーロッホの農民たちは、キルデリーは呪われたと青い顔で囁きました。北部から来た運転手の車を村人は避け、語り手が城へ行くと知ると声をひそめて忠告します。
沼を干す
その夜、再会のあとでバリーが事情を話します。農民が去ったのは、彼が大沼を干拓すると決めたからでした。「アイルランドを愛しながらも、アメリカは彼を無傷では残さなかった」。泥炭を切り出せ、土地を開ける場所が美しいまま無駄になっているのが我慢ならない。伝説と迷信は彼を動かさず、農民が手伝いを断ったときは笑い、彼らが呪いの言葉を残してバリーロッホへ去ったあとは北部から人を呼びました[1]。
農民の恐れを聞いて、語り手もバリーと同じくらい大声で笑います。月のない夜に踊る灯り、暖かい夜の冷たい風、水面に漂う白い亡霊、沼の底に沈んだ石の都。中でも全員が一致して語っていたのは、「この広い赤茶けた泥沼に触れ、干そうとする者を待つ呪い」でした。沼には、歴史の向こうの伝説の年代にパルソロンの子らへ疫病が来て以来、隠されたままの秘密がある、と農民は言います。バリーはしかし古物に強い関心があり、干拓ののちに沼を調べ尽くすつもりでした。小島の白い廃墟にはよく渡っていましたが、朽ちすぎていて往時の姿は分かりません[1]。
北部の労働者たちは、まもなくこの禁じられた沼から緑の苔と赤いヒースを剥ぎ取り、貝殻を敷いたような小さな流れと、藺草に縁取られた静かな青い池を殺すことになっていました。
塔の部屋と笛の音
語り手の部屋は離れた塔にあり、窓から村と、沼の縁の平地と、沼そのものが見えます。農民が逃げて労働者が入った屋根、古い尖塔の教会、そして遠く、白く幽霊のように光る廃墟。眠りに落ちる直前、遠くからかすかな音が聞こえた気がします。「荒々しく、半ば音楽のような」音で、それが夢に色をつけました。翌朝にはすべて夢だったと思います。見た夢のほうが、夜の笛の音よりずっと素晴らしかったからです。緑の谷の堂々たる都、大理石の街路と彫像、別荘と神殿、彫刻と碑文。「そのすべてが、ある調子で、かつてのギリシアの栄光を語っていた」[1]。
バリーに話すと二人で笑いますが、笑ったのは語り手のほうが大きい。バリーは労働者たちのことで困惑していました。彼らが寝過ごすのはこれで6度目で、早く床についたはずなのに休めていない様子で、ぼんやりと目を覚ますのです。昼、語り手が村を歩いて労働者と話すと、彼らも思い出せない夢に不安を感じていました。語り手が夜の音のことを口にすると、彼らは妙な目で見て、自分たちも奇妙な音を覚えている気がする、と言います[1]。
その晩、バリーは干拓を2日後に始めると告げます。語り手は苔とヒースと小川と池が消えるのを惜しみながらも、泥炭の下に眠る古い秘密を見たいという気持ちが強くなっていました。そして夢が変わります。谷の都に疫病が降り、森の斜面が雪崩となって街路の死体を覆い、高い峰のアルテミスの神殿だけが残されます。そこには年老いた月の巫女クレイスが、銀の髪に象牙の冠を戴いて、冷たく黙って横たわっていました[1]。
平地の踊り
語り手は驚いて目を覚まします。笛の音がまだ耳に鳴っていて、目覚めているのか眠っているのか分からない。床の氷のような月光とゴシック様式の格子窓の輪郭を見て、ようやく城にいると分かります。下の階で時計が2時を打ちます。それでも遠くから単調な笛は続いていて、「遠いマイナロス山でのファウヌスたちの踊り」を思わせます。眠れずに部屋を歩き回り、たまたま北の窓へ寄って外を見ました[1]。
月光の溢れる平地に、揺れ動く人影の群れが音もなく滑っていました。葦笛の音に合わせて、「昔シチリア人がキュアネの泉のほとりで収穫の月の下、デメテルのために踊ったような」乱舞です。語り手は恐怖の中で見て取ります。疲れを知らぬ機械的な踊り手の半分は、眠っているはずの労働者たち。残りの半分は「白い衣の奇妙な、実体の定かでない存在」で、沼の泉のナイアスを思わせました。どれほど見ていたか分からないまま、語り手は夢のない失神に落ち、朝の高い日に起こされます[1]。
朝の光の中では、見たものに現実味がなくなります。「私は奇妙な幻を見やすいが、それを信じるほど弱くはない」。労働者に尋ねると、彼らは遅くまで眠り、甲高い音の霧のような夢しか覚えていません。語り手は、秋の蟋蟀が季節を先取りして夜を騒がせたのかと考えます。けれど午後、書斎で明日の工事の図面に没頭するバリーを見ていて、語り手は初めて、農民を追い立てたのと同じ種類の恐れに触れます。古い沼と「陽の射さぬ秘密」を掻き乱すことが恐ろしい。年経た泥炭の測り知れない深みの下に、黒いものが横たわっている気がする。城を出る口実がほしくなります。それとなくバリーに言いかけますが、彼の大笑いで口をつぐみました。日は「前兆のような」赤と金の炎で遠い丘に沈みます[1]。
赤い光
「その夜の出来事が現実だったか幻だったか、私には確かめようがない」。ただ、あとで誰もが知ることになった失踪は、普通の説明がつきません。語り手は早く床につきますが、塔の不気味な静けさの中で眠れません。空は晴れていますが月は欠けていて、昇るのは夜半過ぎ。車を奪ってバリーロッホへ逃げようという衝動が形になる前に、眠りに落ちます。夢の中で、谷の都は「醜悪な影の帳の下で、冷たく死んで」いました[1]。
目を覚ましたとき、最初に気づいたのは笛ではなく光でした。沼を見下ろす東の窓に背を向けて寝ていたので、昇る月の光が向かいの壁に落ちるはずでしたが、そこにあったのは月の光ではありません。「恐ろしく、突き刺すような赤い輝きの柱」がゴシック窓から流れ込み、部屋全体がこの世のものでない光に満ちていました。語り手は窓の外を見ずに、逃げようとして服を手探りで着ます。拳銃と帽子を掴んだことは覚えていますが、撃つことも被ることもなく、どちらも失くしました[1]。
やがて赤い光の魅惑が恐怖に勝ち、語り手は東の窓へ這い寄ります。沼の上に緋色の光が溢れ、遠い小島の廃墟から注いでいます。その廃墟は「私は狂っていたに違いない」と断ったうえで、崩れもせず堂々と、列柱に囲まれて聳え、炎を映す大理石のエンタブラチュアが「山頂の神殿の頂のように」空を突いていた、と語り手は書きます。笛が叫び、太鼓が鳴り始め、大理石と輝きを背に、黒い跳ねる影がいくつも浮かびます[1]。
沼へ沈む列
笛の音が左手で強まった気がして、語り手は円い部屋を横切り、北の窓へ移ります。赤く照らされた平地を、「悪夢の中でしか誰も見たことのないような」行列が動いていました。白衣の沼の亡霊たちが、半ば滑り、半ば宙に浮いて、静かな水と島の廃墟のほうへ、古い厳かな儀式の踊りを思わせる隊形でゆっくり退いていきます。その半透明の腕が見えない笛に導かれて不気味なリズムで手招きし、労働者の群れが「犬のように」、目の見えない、脳のない、よろめく足取りでついていきます。「不器用だが抗いがたい魔物の意志に引かれるように」[1]。
ナイアスたちが沼に近づくと、城の下のどこかの扉から新しい列がジグザグに出てきます。中庭を手探りで横切り、村を抜け、平地の労働者の列に加わる。遠くからでも語り手には分かりました。北部から連れてきた使用人たちです。料理人の醜く不格好な体つきが見分けられ、その滑稽さが「言いようもなく悲劇的」になっていました。ナイアスは水に達すると、ひとりずつ古い沼へ溶けていきます。従う者たちは速度を落とさず、不器用に水を跳ね上げてあとを追い、緋色の光の中でかろうじて見える小さな渦の泡の中へ消えます。最後の一人、太った料理人が重く沈んだとき、笛と太鼓は止み、廃墟からの赤い光は瞬時に消え、昇ったばかりの月の弱い光の中に、破滅の村だけが残されました[1]。
悲鳴と逃走
語り手はアルテミス、ラトナ、デメテル、ペルセポネ、プルートーンに祈ります。「古典を学んだ若い日に覚えたすべてが唇にのぼった」。村ひとつの死を見届けたと感じ、城にはバリーと自分しかいないと知って、床に倒れます。気は失わず、ただ体が動かない。そこへ、月の昇った東の窓から氷の突風が吹き込み、城のはるか下から悲鳴が聞こえ始めます。「言えるのは、それが私の友だったものから発せられていた、ということだけだ」[1]。
語り手は真っ暗な部屋と廊下を駆け抜け、中庭を横切って夜へ出ます。夜明けにバリーロッホの近くで、正気を失ってさまよっているところを見つけられました。彼の理性を完全に壊したのは、それまでに見聞きしたどの恐怖でもなく、逃走の途中に起きた「何の意味もない」二つの出来事です[1]。
蛙と、月への光
ひとつは音です。城から沼の縁を逃げるうち、キルデリーでは聞いたことのない、ありふれた音が聞こえました。生き物のいなかったはずのよどんだ水が、「ぬめる巨大な蛙の大群」で溢れ、体の大きさに似合わない甲高い声で鳴き続けている。蛙たちは月光に緑色にふくれて光り、光の源を見上げているようでした[1]。
もうひとつは、その視線の先です。とりわけ太く醜い一匹の見上げる方向を追うと、小島の廃墟から欠けた月へまっすぐに、水面に映らないかすかな震える光の道が伸びているように見えました。その青白い道を、細い影がゆっくり身をよじりながら上っていきます。「見えない魔物に引かれてもがくような、曖昧で歪んだ影」。狂っていたとはいえ、語り手はその影に「怪物じみた相似──吐き気を催す、信じがたい戯画──デニス・バリーだった者の冒涜的な似姿」を見ました。本文はそこで終わります[1]。
読みどころと注目テーマ
沈んだ都の正体は、農民ではなく語り手の夢が語る
農民の伝承が語るのは「沼の下に石の都がある」「月の女神だけが顧みた」というところまでです。その都がどんな姿で、どう滅びたかを見せるのは語り手の夢のほうで、大理石の街路、疫病、森の斜面の雪崩、峰に残ったアルテミスの神殿、象牙の冠の巫女クレイスと、回を追うごとに詳しくなります。夢の都は語り手が「かつてのギリシアの栄光」と呼ぶ姿をしていて、農民の言う「ギリシア人の息子たち」パルソロンの子らの伝承と、沼の島にある「アイルランドの遺跡と似ていない」白い廃墟とが、そこで結びつきます。原文はこの三つを並べるだけで、説明はしません。
「アメリカは彼を無傷では残さなかった」
バリーは父祖の地を愛し、城を昔の姿へ戻し、農民に祝福されます。同じ人物が、泥炭を切り出せる土地が「美しく無駄に」なっているのを憎みます。語り手はこの二面を一文で言います。「アイルランドへの愛にもかかわらず、アメリカは彼を無傷では残さなかった」。農民の呪いの言葉が向かうのは、泥炭を資源としか見ないこの態度です。城の修復は受け入れられ、沼の干拓は拒まれる。その線を農民は全員一致で引いていて、バリーだけが笑い飛ばします。
語り手も最初は笑っている
農民の恐れを聞いて、語り手は「友と同じくらい大声で笑った」と書いています。夢を見ても翌朝には夢として片づけ、平地の踊りを見ても朝の光の中で否定します。恐れに転じるのは、図面に没頭するバリーの背中を見た午後です。理由は自分でも分からない。この転換の遅さが、干拓前夜に語り手が城を出られなかった理由になっていて、同時に、彼が最後まで「現実か幻か確かめようがない」と言い続ける立場を保たせています。
二つの「意味のない」出来事
語り手を壊したのは、村ひとつが沼へ沈む光景でも、友の悲鳴でもなく、逃げる途中の蛙と、月へ伸びる光の道でした。彼自身が「何の意味もない出来事」と呼びます。蛙は水に戻ってきた生き物であり、月への道はバリーの行き先です。冒頭で語り手が「沼で蛙が鳴くのを聞くと、人けのない場所で月を見ると、身震いする」と書いた理由は、本文の最後の二段落で初めて分かる仕組みです。
執筆背景と影響
公式アーカイブの年譜は本作を1921年3月に置いています[2]。同じ年譜では、無名都市が1921年1月、イラノンの探求が1921年2月28日で、本作はその直後の作品です。初出は執筆から5年後、1926年6月の『ウィアード・テイルズ』第7巻第6号でした[3]。
一族の古い館を買い戻して修復するアメリカ人が、土地の禁忌に触れて破滅する筋は、2年後の壁のなかの鼠(1923年8〜9月執筆)で、イングランドの修道院跡を舞台にもう一度書かれます。引き金は、本作では沼を干すこと、あちらでは地下を掘ること。
水の下に沈んだ都と、そこに残る守護者の怒りという骨格は、サルナスに至る運命(1919年12月)のイブとボクルグに先例があります。あちらは湖、こちらは沼。場面を照らすのはどちらも月です。本作のアルテミスとクレイスは夢の国の神格ではなく、ギリシアの名で呼ばれています。夢の国の月については月棲獣の項を参照してください。
ギリシアを舞台に取った作品には樹もあります。本作のギリシアは夢の中のアルテミス神殿と、逃げながら唱える祈りの列(アルテミス、ラトナ、デメテル、ペルセポネ、プルートーン)として現れます。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Moon-Bog” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/mb.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(1921年3月)、および「無名都市」1921年1月・「イラノンの探求」1921年2月28日・「サルナスに至る運命」1919年12月3日・「壁のなかの鼠」1923年8〜9月の出典。
[3] “Data Page for ‘The Moon-Bog'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/mb.aspx初出『ウィアード・テイルズ』第7巻第6号(1926年6月)805–810ページの出典。



