概要
ラヴクラフト「サルナスに到りし禍」に登場する、ムナールの地の大いなる湖畔に一万年前栄えた都市。世界の驚異と称されるまでに繁栄したが、かつてその地にあった先住都市イブを滅ぼした報いとして、祝祭の夜に一夜にして滅び去ったと語られる[6]。因果応報・驕りに対する天罰という民話的骨格を持つ、ラヴクラフト初期の夢の国連作の代表作の一つ。
原典での描写
「サルナスに到りし禍」(1919年12月3日執筆)――ムナールの地とイブの民
物語は、ムナールの地に流れ込む川も流れ出る川もない広大な湖があるという一文から幕を開ける[7]。サルナスの民が至る前、その湖畔には既にイブという灰色の石の都市が湖と同じ古さで立っており、そこには奇怪な姿の住人がいたと記される。
サルナスを築いた部族がイブの者たちを目にしたとき、驚異の念には憎しみが混じっていた。黄昏どきの人間の世界をそのような姿の者が歩き回るのはふさわしくないと思われ、イブの巨石に刻まれた太古の彫刻も忌避されたと語られる[8]。
物語は、若き戦士たちの憎しみが募った理由の一つとして、イブの者たちが石や槍や矢を受ければゼリーのように崩れる弱い存在だったことを挙げる[9]。彼らを打ち滅ぼし、水蜥蜴の偶像ボクルグだけを戦利品としてサルナスへ持ち帰った顛末は、後述の「歴史・年表」に記したとおりである。
「サルナスに到りし禍」――都の繁栄と建築
イブ滅亡から千年が過ぎた頃のサルナスは、磨き上げた大理石の城壁に囲まれていた。高さ300キュビト、幅75キュビトあり、頂を戦車で駆けても互いにすれ違えるほど広かったと描かれる。門はいずれも青銅製で、今は知られていない石で彫られた獅子と象の像が両脇を固めていたという[10]。
都の中心には十七の塔状の神殿がそびえ、他では見られない色鮮やかな石で築かれていた。そこに集う群衆は、サルナスの主神ゾー=カラー、タマシュ、ロボンを拝んだと語られる[11]。
かつての王ゾッカルが築いた庭園は、巨大なガラスの丸屋根に覆われ、晴れた日には陽や月や星の光を通し、曇った日には輝く模造の天体を吊るして照らした。夏は扇で送る風が庭を冷やし、冬は隠した火が暖めたため、庭園にはいつも春があったと記される[12]。
「サルナスに到りし禍」――千年祭と滅亡の夜
サルナスでは毎年、イブ滅亡を祝う祭りが催され、酒と歌と踊りに満ちた。王たちは湖を見渡しては、その底に眠る死者の骨を呪ったという[13]。
イブ滅亡千周年の祭りは十年も前から語り草となっており、当日が近づくとトラー、イラーネク、カダセロンをはじめムナールとその向こうのあらゆる都市から、馬や駱駝や象に乗った人々がサルナスへ押し寄せた[14]。
祭りの夜、最初に異変を見たのは高祭司ガナイ=カーだった。膨らんだ月から湖へ降りる影と、湖から立ちのぼって月を包み、サルナスの塔とドームを不吉な靄で覆う緑の霧である[15]。
恐怖に目を血走らせた者たちは、王の饗宴の間の光景を語り伝えた。窓越しに見えたのはもはや王ナルギス=ヘイと廷臣や奴隷たちの姿ではなかった。そこには、膨らんだ目とたるんだ分厚い唇、奇妙な耳を持つ声なき緑色の群れがいて、宝石を鏤めた金の皿に得体の知れぬ炎を載せて踊っていたという[16]。この容貌の記述は、物語冒頭でイブの住人を形容した言葉とほぼ同じである。
「サルナスに到りし禍」――滅亡後の湖と碑文
後年、遠いファローナから来た勇敢な若者たちだけが、この地への旅をあえて試みた。彼らが見出したのは、今なお変わらぬ静かな湖と、岸近くにそびえる灰色の岩アクリオンのみで、世界の驚異と呼ばれた都市の姿はどこにも無い[17]。
灯心草の茂みには、海藻に覆われた古い緑色の石像が半ば埋もれて見つかっている。水蜥蜴ボクルグを象ったその像は、後にイラーネクの大神殿へ安置され、ムナールの地全域で膨らんだ月の下、崇められることになったという[18]。
他作品での言及
「名もなき都市」(1921年1月執筆)では、語り手が太古の廃墟の壮大さに思いを馳せる場面で、人類がまだ若かった頃にムナールの地に立っていた滅びのサルナスへの連想として、都市名がイブと並んで一度だけ挙げられる[19]。
「流離の王子イラノン」(1921年2月28日執筆)では、放浪する主人公イラノンの語りの中に、かつてサルナスが立っていた沼地を眺めてきたという一節があり、都市名が一度だけ登場する[20]。
基本プロフィール
- 分類: 地名(滅亡した古代都市)
- 欧文表記: SARNATH
- 初出・出典: 「サルナスに到りし禍」(1919年12月3日執筆/1920年6月、アマチュア誌にて発表)
- 地理設定: ムナールの地、大いなる湖の畔
由来・モデル
サルナスは夢の国(あるいは太古の伝説的過去)に属する都市とされ、現実の地球地理上の特定地点との対応関係は原典に明記されていない。物語自体は民話・寓話的な構造(驕った文明が先住者を滅ぼした報いを受けて滅びる)を持ち、ラヴクラフト自身が古代メソポタミア文明やロード・ダンセイニの幻想文学から着想を得たとされる作風の一編である。
歴史・年表
物語で語られる年表は以下の通り。
- サルナス建設以前: 湖畔には元来、灰色の石の都市イブがあり、湖そのものと同じくらい古く、見るも快くない姿の存在たちが住んでいた——膨らんだ目、たるんだ分厚い唇、奇妙な耳を持ち、声を持たなかったとされる[1]。彼らは水蜥蜴の神ボクルグを崇めていた。
- サルナス建設: より頑健な部族がムナールの地・湖畔にたどり着き、貴金属が産出する場所にサルナスを築いた[2]。サルナスはやがて強大かつ学識高く美しい都市へと成長し、周辺都市を征服する軍を送り出すまでになった[2]。
- イブの滅亡: サルナスの若い戦士たちがイブへ進軍し、その住人をことごとく殺し、奇怪な亡骸を湖へ沈めた[3]。彼らはイブの民が崇めていた緑色の偶像ボクルグだけを、征服の証としてサルナスへ持ち帰った[3]。
- 偶像の消失と大祭司の死: 偶像が神殿に安置された夜、湖の上空に奇妙な光が見られ、恐るべき何かが起きたらしい[4]。翌朝、偶像は消え失せており、大祭司タラン=イシュは祭壇に震える手で「禍(DOOM)」の印を刻みつけて息絶えていた[4]。
- 繁栄の絶頂と滅亡: それから千年、サルナスは富と歓楽の都として栄え続けたが、イブ滅亡千周年を祝う盛大な祝祭の夜、青銅の門が突如開け放たれ、恐怖に取り憑かれた群衆がなだれ出る。翌朝、五千万の民が住んだはずの都市はまるごと消え失せ、忌まわしい緑色の水蜥蜴だけが湖畔の湿地を這うばかりとなっていた[5]。
性質・特徴
「サルナスに到りし禍」は、驕った文明が先住民を虐殺し、その報いを受けて滅びるという、単純だが強い構図を持つ寓話であり、ラヴクラフトの他の宇宙的恐怖作品とは異なり、明確な「因果応報」のメッセージ性を持つ点が特徴。物語は「禍はサルナスに到った」という一文で締めくくられ[6]、この簡潔な結句は本作を象徴する一節として頻繁に引用される。
関連する人物・存在
- ボクルグ: イブの民が崇めていた水蜥蜴の神。サルナスがこの神の偶像を戦利品として奪ったことが、都市滅亡の直接の引き金になったとされる。深淵書架では神格記事として別途詳述している。
- ウルタール: 同じ夢の国の因果応報譚として並び称される町。猫を殺した老夫婦が報いを受けるウルタールの物語と、先住民を滅ぼした都市が報いを受けるサルナスの物語は、構造的に対をなす姉妹編として扱われることが多い。
主要登場作と読みどころ
- 「サルナスに到りし禍」(1919年執筆): 本作そのもの。中心となる原典。繁栄の絶頂で唐突に滅びが訪れる展開の落差、そして最後まで「何が起きたか」を直接描写せず、消えた都市と這い回る水蜥蜴という結果だけを提示する語りの手法が読みどころ。
よくある誤解
Q. サルナスは実在するどこかの都市がモデルなのですか?A. いいえ。サルナスは伝説的な太古の時代・夢の国に属する都市として描かれ、現実の地球地理上の特定の場所との対応関係は原典に明記されていません。
Q. サルナスを滅ぼしたのは誰(何)だったのですか?A. 原典では、偶像を奪われたことに対するイブの民(あるいはボクルグ自身)の報復であることが強く示唆されますが、破壊行為そのものの主体や具体的な過程は直接描写されません。祝祭の夜に忽然と都市が消え失せ、水蜥蜴だけが残されたという結果のみが語られ、詳細は読者の想像に委ねられています。
出典
- [1] “the grey stone city of Ib, which was old as the lake itself, and peopled with beings not pleasing to behold… they had bulging eyes, pouting, flabby lips, and curious ears, and were without voice.”(訳: 「灰色の石の都市イブは、湖そのものと同じくらい古く、見るも快くない存在たちが住んでいた……彼らは膨らんだ目、たるんだ分厚い唇、奇妙な耳を持ち、声を持たなかった」) — H. P. Lovecraft, “The Doom That Came to Sarnath”(1920年), 公式アーカイブ ↩
- [2] “certain tribes, more hardy than the rest, pushed on to the border of the lake and built Sarnath at a spot where precious metals were found… Sarnath waxed mighty and learned and beautiful, and sent forth conquering armies.”(訳: 「より頑健な部族が湖の畔まで進み、貴金属が見つかる場所にサルナスを築いた……サルナスは強大かつ学識高く美しく育ち、征服の軍を送り出した」) — 同上 ↩
- [3] “the young warriors…marched against Ib and slew all the inhabitants thereof…This the young warriors took back with them to Sarnath as a symbol of conquest over the old gods.”(訳: 「若き戦士たちは……イブへ進軍しその住人をことごとく殺した……若き戦士たちはこれを、古き神々に対する征服の証としてサルナスへ持ち帰った」) — 同上 ↩
- [4] “Taran-Ish had scrawled upon the altar of chrysolite with coarse shaky strokes the sign of DOOM.”(訳: 「タラン=イシュは、貴橄欖石の祭壇に、荒々しく震える筆致で『禍』の印を書き殴っていた」) — 同上 ↩
- [5] “the detestable green water-lizard”(訳: 「忌まわしい緑色の水蜥蜴」)が五千万の民が住んだはずの地を這うばかりとなった、と原文は伝える — 同上 ↩
- [6] “DOOM had come to Sarnath.”(訳: 「禍はサルナスに到った」) — 同上 ↩
- [7] “There is in the land of Mnar a vast still lake that is fed by no stream and out of which no stream flows.”(訳: 「ムナールの地には、流れ込む川も流れ出る川もない、広大で静かな湖がある」) — 同上 ↩
- [8] “But with their marvelling was mixed hate, for they thought it not meet that beings of such aspect should walk about the world of men at dusk. Nor did they like the strange sculptures upon the grey monoliths of Ib, for those sculptures were terrible with great antiquity.”(訳: 「だが彼らの驚異の念には憎しみが混じっていた。そのような姿の者が黄昏どきの人間の世界を歩き回るのはふさわしくないと思われたからである。彼らはまた、太古の年月ゆえに恐ろしいイブの灰色の巨石の彫刻も好まなかった」) — 同上 ↩
- [9] “As the men of Sarnath beheld more of the beings of Ib their hate grew, and it was not less because they found the beings weak, and soft as jelly to the touch of stones and spears and arrows.”(訳: 「サルナスの民がイブの者たちをより多く目にするにつれ憎しみは募った。それは、石や槍や矢を受ければゼリーのようにたやすく崩れる、彼らの弱さを知ったからでもあった」) — 同上 ↩
- [10] “Of polished desert-quarried marble were its walls, in height 300 cubits and in breadth 75, so that chariots might pass each other as men drave them along the top. And the gates of Sarnath were as many as the landward ends of the streets, each of bronze, and flanked by the figures of lions and elephants carven from some stone no longer known among men.”(訳: 「その城壁は磨き上げた砂漠産の大理石でできており、高さ300キュビト、幅75キュビトあって、頂を人が戦車で駆ってもすれ違えるほどだった。サルナスの門は街路が陸へ向かって開く数だけあり、いずれも青銅製で、今はもう知られていない石で彫られた獅子と象の像に挟まれていた」) — 同上 ↩
- [11] “Lofty and amazing were the seventeen tower-like temples of Sarnath, fashioned of a bright multi-coloured stone not known elsewhere…where gathered throngs in worship of Zo-Kalar and Tamash and Lobon, the chief gods of Sarnath.”(訳: 「サルナスにそびえる十七の塔状の神殿は、他では知られない鮮やかな色の石で築かれ、高く驚異的だった……そこには群衆が集い、サルナスの主神ゾー=カラー、タマシュ、ロボンを拝んだ」) — 同上 ↩
- [12] “they were surmounted by a mighty dome of glass, through which shone the sun and moon and stars and planets when it was clear, and from which were hung fulgent images of the sun and moon and stars and planets when it was not clear…so that in those gardens it was always spring.”(訳: 「庭園の上には巨大なガラスの丸屋根がかけられ、晴れた日には陽や月や星々の光を通し、曇った日には輝く模造の陽や月や星々の像が吊るされた……この庭園には常に春があった」) — 同上 ↩
- [13] “Each year there was celebrated in Sarnath the feast of the destroying of Ib, at which time wine, song, dancing, and merriment of every kind abounded…And the kings would look out over the lake and curse the bones of the dead that lay beneath it.”(訳: 「サルナスでは毎年、イブ滅亡を祝う祭りが催され、その時には酒と歌と踊り、あらゆる歓楽が満ちあふれた……王たちは湖を見渡しては、その底に横たわる死者の骨を呪った」) — 同上 ↩
- [14] “For a decade had it been talked of in the land of Mnar, and as it drew nigh there came to Sarnath on horses and camels and elephants men from Thraa, Ilarnek, and Kadatheron, and all the cities of Mnar and the lands beyond.”(訳: 「その祭りは十年前からムナールの地で語り草となっており、当日が近づくと、トラー、イラーネク、カダセロンをはじめムナールとその向こうのあらゆる都市から、馬や駱駝や象に乗った人々がサルナスへ押し寄せた」) — 同上 ↩
- [15] “it was the high-priest Gnai-Kah who first saw the shadows that descended from the gibbous moon into the lake, and the damnable green mists that arose from the lake to meet the moon and to shroud in a sinister haze the towers and the domes of fated Sarnath.”(訳: 「最初に見たのは高祭司ガナイ=カーであった。膨らんだ月から湖へ降りる影と、湖から立ちのぼって月を迎え、運命づけられたサルナスの塔とドームを不吉な靄で包む、忌まわしい緑の霧を」) — 同上 ↩
- [16] “Men whose eyes were wild with fear shrieked aloud of the sight within the king’s banquet-hall, where through the windows were seen no longer the forms of Nargis-Hei and his nobles and slaves, but a horde of indescribable green voiceless things with bulging eyes, pouting, flabby lips, and curious ears; things which danced horribly, bearing in their paws golden platters set with rubies and diamonds containing uncouth flames.”(訳: 「恐怖に目を血走らせた者たちは、王の饗宴の間の光景を叫び声とともに語った――窓越しに見えたのはもはやナルギス=ヘイとその廷臣や奴隷たちの姿ではなく、膨らんだ目とたるんだ分厚い唇、奇妙な耳を持つ、形容しがたい声なき緑色の群れであり、彼らは紅玉や金剛石を鏤めた金の皿に得体の知れぬ炎を載せて捧げ持ちながら、おぞましく踊っていた」) — 同上 ↩
- [17] “but though they found the vast still lake itself, and the grey rock Akurion which rears high above it near the shore, they beheld not the wonder of the world and pride of all mankind.”(訳: 「彼らは今なお変わらぬ静かな湖と、岸近くに高くそびえる灰色の岩アクリオンを見出しはしたが、世界の驚異にして人類の誇りであったものを、そこに見ることはなかった」) — 同上 ↩
- [18] “half buried in the rushes was spied a curious green idol of stone; an exceedingly ancient idol coated with seaweed and chiselled in the likeness of Bokrug, the great water-lizard. That idol, enshrined in the high temple at Ilarnek, was subsequently worshipped beneath the gibbous moon throughout the land of Mnar.”(訳: 「灯心草の茂みに半ば埋もれて、奇妙な緑色の石像が見出された――それは海藻に覆われた、極めて古い、水蜥蜴ボクルグを象った像であった。その像はイラーネクの大神殿に安置され、以後ムナールの地全域で、膨らんだ月の下で崇められることとなった」) — 同上 ↩
- [19] “and thought of Sarnath the Doomed, that stood in the land of Mnar when mankind was young, and of Ib, that was carven of grey stone before mankind existed.”(訳: 「そして私は、人類がまだ若かった頃にムナールの地に立っていた滅びのサルナスと、人類が存在する前に灰色の石で刻まれたイブとを思った」) — H. P. Lovecraft, “The Nameless City”(1921年), 公式アーカイブ ↩
- [20] “I have seen Stethelos that is below the great cataract, and have gazed on the marsh where Sarnath once stood.”(訳: 「私は大瀑布の下のステセロスを見、かつてサルナスが立っていた沼地を眺めてきた」) — H. P. Lovecraft, “The Quest of Iranon”(1921年), 公式アーカイブ ↩




