概要
トラーは、幻夢境ムナールの地を流れる川アイのほとりに、イラーネク・カダセロンとともに築かれた交易都市である[1]。原典「サルナスに到りし禍」では、この三都市がひとまとめに名指しされる場面が四度あり、サルナスの繁栄を測る比較対象や、大祭に押し寄せる人々の一団として繰り返し現れる[1][2][3][4]。三都市のなかでトラーだけに与えられた個別の記述は、大祭の宴で供された「トラーの酢」という調味料一つに限られる[5]。約七年後に書かれた「未知なるカダスを夢に求めて」では一転、インガノクの瑪瑙を買い取る交易港の一つとして、まったく異なる文脈で一度だけ言及される[6]。
基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 分類 | 地名(幻夢境ムナールの地の交易都市) |
| 欧文表記 | THRAA |
| 初出 | 「サルナスに到りし禍」(1919年12月3日執筆[7]/1920年6月、アマチュア誌『The Scot』第44号にて発表[8]) |
| 二度目の登場 | 「未知なるカダスを夢に求めて」(1926年秋?〜1927年1月22日執筆[9]/1943年、アーカム・ハウスの作品集『Beyond the Wall of Sleep』で刊行[10]) |
| 位置 | ムナールの地を流れる川アイのほとり。イラーネク・カダセロンと並んで建てられた三都市の一つ[1] |
| 建てた者 | 羊の群れを連れた「浅黒い羊飼いの民」。人類がムナールの地へ至ったのちの建設で、サルナスの建国より前にあたる[1] |
| 固有の産物 | 酢。ムタルの真珠を溶かす調味料として、サルナスの大祭の宴で供された[5] |
| 本文中の言及回数 | “Thraa” は「サルナスに到りし禍」に5回、「未知なるカダスを夢に求めて」に1回、計6回(当サイトが hplovecraft.com の両作の本文を実測) |
原典での描写
トラーが登場する作品は二つある。「サルナスに到りし禍」(1919年執筆)では、イラーネク・カダセロンとの三都市一組として計5回現れ、単独で名指しされる場面は無い。「未知なるカダスを夢に求めて」(1926-27年執筆)では、まったく異なる場面で1回だけ言及される。当サイトは hplovecraft.com が公開する両作の本文を実際に取得し、”Thraa” が現れる全6箇所を数えたうえで本記事を書いている。
「サルナスに到りし禍」――川アイの三都市として
物語は、「多くの永劫」を経て人類がムナールの地へ至った経緯を語る場面で、トラーを初めて名指しする。羊の群れを連れた浅黒い羊飼いの民が、曲がりくねる川アイのほとりにトラー、イラーネク、カダセロンを築いた。そして、彼らよりも頑健なある部族が、さらに奥へと進んで湖の岸辺に至り、貴金属の産する場所にサルナスを築いたという[1]。この一文は、トラーを含む三都市の建設が、サルナスの建国に先行する出来事として語られていることを示している。
サルナスが栄えていく場面でも、トラーは繰り返し引き合いに出される。ガラス質のレンガとカルセドニーで築かれ、他のどの都市にも似た家がなかったサルナスの家々を、トラーとイラーネクとカダセロンから来た旅人たちは、その輝くドームに驚嘆して眺めたという[2]。続けて宮殿と神殿、老王ゾッカルが造らせた庭園の壮麗さが語られる場面でも、もっとも小さな宮殿でさえ、トラーやイラーネクやカダセロンのどの宮殿よりも堂々としていた、と規模を比較する形で描かれる[3]。ここでのトラーは、サルナスの繁栄を測る物差しとして、名前だけで機能している。
イブ滅亡千周年を祝う祭りが近づくと、ムナールの地とその向こうのあらゆる都市から、馬や駱駝や象に乗った人々がサルナスへ押し寄せた。その筆頭に名指しされるのが、トラー、イラーネク、カダセロンの人々である[4]。原典がトラーに個別の隊商路や記録媒体を与えることは無い。三都市がひとまとめに語られる四つの場面――建設・旅人の驚嘆・宮殿の比較・祭りへの参集――のどれにおいても、トラーはイラーネク・カダセロンと分かちがたく結びついた形でしか現れない。
「サルナスに到りし禍」――トラーの酢
三都市が一組で語られるなかで、トラーにだけ与えられた具体的な特徴が一つある。千年祭の宴に供された数々の珍味を列挙する場面で、波に洗われたムタルの真珠を、トラーの酢に溶かした一品が挙げられているのである[5]。
この場面には、他にもナリエルの孔雀、インプランの子山羊、バナジック砂漠の駱駝の踵、キダスリアの木立の木の実と香辛料など、地名を冠した各地の食材が並ぶ。イラーネクには「パピルス」という記録媒体、カダセロンには「煉瓦の円柱」という記録媒体が個別に割り当てられているのに対し、トラーに与えられているのは、記録媒体ではなく、この酢という食材だけである。三都市のなかで、名前を冠した固有の産物が原典に明記されているのはトラーだけであり、この一節が本記事の記事名の由来になっている。
「未知なるカダスを夢に求めて」――のちの時代の交易相手
「サルナスに到りし禍」から七年ほどのちに書かれた「未知なるカダスを夢に求めて」では、トラーはまったく別の文脈で、一度だけ登場する。舞台はインガノク。この街は瑪瑙でできた都市で、そこで切り出された見事な瑪瑙の塊は、リナル、オグロタン、セレファイスで、また地元ではトラー、イラーネク、カダセロンの商人たちに取引され、彼らの伝説的な港が産する美しい品々と交換されていたという[6]。
「サルナスに到りし禍」では大祭の宴に酢を供する側として現れたトラーが、この作品では瑪瑙を買い取る側の交易港として現れる。二作のあいだに、時系列上の連続性を示す記述は無い。ムナールの地とインガノクの位置関係、両作の出来事の前後関係についても、原典に明示する一節は見当たらない。この場面のトラーに、酢や大祭についての言及は無く、単に交易相手の一つとして名前が挙がるだけである。
由来・モデル
トラーという地名の由来を説明する記述は、原典本文にも、当サイトが確認した hplovecraft.com の作品資料にも見当たらない。イラーネク・カダセロンとの語感の類似についても、それを意図した言及は原典に無い。
唯一言えるのは、原典がこの都市に一つだけ具体的な産物を与えている点である。三都市がほぼ常にひとまとめに名指しされるなかで、「トラーの酢」という一節だけが、トラーに固有の色を与える例外として存在する[5]。この酢がどのように造られ、何を原料としたのかを示す記述は無く、地名を冠した食材の一つとして一度だけ触れられているにすぎない。
歴史・年表
原典二作から読み取れる限りの順序を示す。暦の上の年を示すものではない。
- 多くの永劫ののち: 羊の群れを連れた浅黒い羊飼いの民が、川アイのほとりにトラー、イラーネク、カダセロンを築く[1]。
- その後: より頑健な部族が湖の岸辺まで進み、貴金属の産する場所にサルナスを築く[1]。
- サルナス建国後、幾世紀を経て: トラー・イラーネク・カダセロンの旅人たちがサルナスの輝くドームに驚嘆する[2]。サルナスの宮殿の壮麗さが、トラー・イラーネク・カダセロンの宮殿との比較で語られる[3]。
- イブ滅亡千周年の祭り: トラー、イラーネク、カダセロンをはじめムナール中の人々がサルナスへ集まる。宴では、トラーの酢に溶かしたムタルの真珠が供される[4][5]。
- 祭りの夜以降: 原典はこの夜、恐れに押されて天幕をたたんだイラーネクと遠いロコルの王侯たちの動きを記すが、トラーについては何も語らない。サルナスが一夜にして消え去った後の記述にも、トラーは現れない。
- 年代不詳・別作品: 「未知なるカダスを夢に求めて」の時点で、トラーはインガノクと瑪瑙を取引する交易港の一つとして活動している[6]。この時点とサルナスの物語との時系列上の関係は、原典に記述が無い。
性質・特徴
- 立地: ムナールの地を流れる川アイのほとり。イラーネク・カダセロンと並んで建てられた三都市の一つ[1]。
- サルナスとの関係: 隊商路などの具体的な経済関係を示す記述は無い。旅人の一団・宮殿比較の物差し・祭りの参集者として、名前だけで機能する場面が四度ある[1][2][3][4]。
- 固有の産物: 酢。ムタルの真珠を溶かす調味料として、サルナスの大祭の宴で供された。三都市のなかで、名前を冠した固有の産物が明記されるのはトラーだけである[5]。
- のちの時代の交易港: 「未知なるカダスを夢に求めて」で、インガノクの瑪瑙を買い取る交易相手の一つとして名前が挙がる[6]。
- 記述の少なさ: イラーネクの「パピルスに記された記録」のような固有の記録媒体、あるいは神像の安置のような個別の出来事は、トラーには与えられていない。原典がトラーに割いている固有の描写は、酢の一節だけである。
関連する人物・存在
- サルナス: トラーが繁栄の比較対象として、また大祭の宴の場として関わる都市[2][3][4]。
- イラーネク: トラーとともに川アイのほとりに築かれた姉妹都市。原典でトラーが名指しされる場面のほとんどで、常に並んで登場する[1][2][3][4][6]。
- カダセロン: トラー・イラーネクと同じ川アイのほとりに建てられた三都市目の都市[1]。深淵書架にはまだ単独の記事は無い。
- ムナール: トラー・イラーネク・カダセロン・サルナスがすべて属する広域の地名。
- インガノク: 「未知なるカダスを夢に求めて」で、トラーの商人が瑪瑙を買い取る取引先として現れる[6]。
- セレファイス: 同じ場面で、インガノクの瑪瑙がトラーとは別に取引される先として名指しされる港湾都市[6]。
主要登場作と読みどころ
- 「サルナスに到りし禍」(1919年執筆/1920年発表): トラーが登場する最初の作品で、本文に “Thraa” が5回現れる。読みどころは、三都市がひとまとめに語られる四つの場面――建設・旅人の驚嘆・宮殿の比較・祭りへの参集[1][2][3][4]――のなかに、酢という一つだけの個別描写[5]が挟み込まれている点にある。イラーネクが記録媒体や神像の安置といった複数の固有描写を与えられるのに対し、トラーの個性はこの一節に集約されている。
- 「未知なるカダスを夢に求めて」(1926年秋?〜1927年1月22日執筆/1943年刊行): トラーの二度目の登場で、本文に “Thraa” が1回だけ現れる。舞台も時代も語り口もまったく異なり、酢や大祭への言及は一切無い。同じ地名が二つの独立した物語で異なる役回りを演じている点は、幻夢境という舞台が単一の年表に沿って書かれた世界ではないことを示す一例になっている。
- あわせて読む記事として、繁栄の比較対象・宴の場となるサルナス、常に並んで名指しされる姉妹都市イラーネク、広域の地名であるムナール、のちの交易相手であるインガノクがある。
よくある誤解
Q. トラー・イラーネク・カダセロンは、原典でまったく同じように描かれているのですか? A. ほとんどの場面では、そうです。三都市は「トラー、イラーネク、カダセロン」とひとまとめに名指しされる場面が四度あります[1][2][3][4]。ただし、大祭の宴の場面だけは例外で、トラーには酢という固有の産物が与えられています[5]。イラーネクにも、パピルスに記された記録など、別の場面で個別の描写があります。
Q. トラーの酢とは、具体的にどのようなものですか? A. 原典が書いているのは、「波に洗われたムタルの真珠を、トラーの酢に溶かした」という一品が、サルナスの千年祭の宴で供された珍味の一つだったということだけです[5]。この酢の造り方や原料、味についての記述は無く、それ以上の詳細は分かりません。
Q. 「サルナスに到りし禍」と「未知なるカダスを夢に求めて」のトラーは、同じ時代の同じ都市なのですか? A. 地名は同じですが、原典はこの二つの場面を結びつける記述を与えていません。前者では大祭に酢を供する川アイ流域の一都市として、後者では瑪瑙を買い取る交易港として言及されるのみで、時系列上の前後関係を示す一節は見当たりません。
Q. サルナスが一夜にして消え去った夜、トラーはどうなったのですか? A. 原典に記述がありません。この夜については、恐れに押されて天幕をたたんだイラーネクと遠いロコルの王侯たちの動きだけが語られており、トラーについては何も書かれていません。
Q. ダーレス以降の作品やTRPGでは、どう扱われていますか? A. 本記事は一次資料(hplovecraft.com の本文と作品一覧)に限って調べており、後世の作家の作品や供給元の公式資料は確認していない。確認できる資料が無いため、ここには書かない。
出典
- [1] “After many aeons men came to the land of Mnar; dark shepherd folk with their fleecy flocks, who built Thraa, Ilarnek, and Kadatheron on the winding river Ai. And certain tribes, more hardy than the rest, pushed on to the border of the lake and built Sarnath at a spot where precious metals were found in the earth.”(訳: 「多くの永劫を経て、人類がムナールの地へ至った。羊の群れを連れた浅黒い羊飼いの民で、彼らは曲がりくねる川アイのほとりにトラー、イラーネク、カダセロンを築いた。そして、他よりも頑健なある部族が、さらに湖の岸辺まで進み、地中から貴金属の見つかる場所にサルナスを築いた」) — H. P. Lovecraft, “The Doom That Came to Sarnath”(1919年執筆/1920年発表), The H. P. Lovecraft Archive ↩
- [2] “With strange art were they builded, for no other city had houses like them; and travellers from Thraa and Ilarnek and Kadatheron marvelled at the shining domes wherewith they were surmounted.”(訳: 「奇妙な技巧で築かれており、他のどの都市にもこれに似た家は無かった。トラーとイラーネクとカダセロンから来た旅人たちは、それらを戴く輝くドームに驚嘆した」) — 同上 ↩
- [3] “There were many palaces, the least of which were mightier than any in Thraa or Ilarnek or Kadatheron.”(訳: 「宮殿は数多くあり、そのもっとも小さなものでさえ、トラーやイラーネクやカダセロンのどの宮殿よりも堂々としていた」) — 同上 ↩
- [4] “For a decade had it been talked of in the land of Mnar, and as it drew nigh there came to Sarnath on horses and camels and elephants men from Thraa, Ilarnek, and Kadatheron, and all the cities of Mnar and the lands beyond.”(訳: 「その祭りは十年前からムナールの地で語り草となっており、当日が近づくと、トラー、イラーネク、カダセロンをはじめムナールとその向こうのあらゆる都市から、馬や駱駝や象に乗った人々がサルナスへ押し寄せた」) — 同上 ↩
- [5] “pearls from wave-washed Mtal dissolved in the vinegar of Thraa.”(訳: 「波に洗われたムタルの真珠を、トラーの酢に溶かしたもの」) — 同上 ↩
- [6] “There were many of them, for all the city of Inganok was builded of onyx, whilst great polished blocks of it were traded in Rinar, Ogrothan, and Celephaïs, and at home with the merchants of Thraa, Ilarnek, and Kadatheron, for the beautiful wares of those fabulous ports.”(訳: 「その数は多かった。インガノクの街はすべて瑪瑙で築かれており、磨き上げた瑪瑙の大きな塊は、リナル、オグロタン、セレファイスで、また地元ではトラー、イラーネク、カダセロンの商人たちと取引され、彼らの伝説的な港が産する美しい品々と交換されていたからである」) — H. P. Lovecraft, “The Dream-Quest of Unknown Kadath”(1943年刊行), The H. P. Lovecraft Archive ↩
- [7] “The Doom That Came to Sarnath (3 December 1919)”(訳: 「サルナスに到りし禍」(1919年12月3日)) — H. P. Lovecraft’s Fiction, Alphabetical Order, The H. P. Lovecraft Archive ↩
- [8] “1920, June: The Doom That Came to Sarnath (The Scot, No. 44)”(訳: 「1920年6月:『サルナスに到りし禍』(アマチュア誌『The Scot』第44号)」) — H. P. Lovecraft’s Fiction, Publication Order, The H. P. Lovecraft Archive ↩
- [9] “The Dream-Quest of Unknown Kadath (Autumn? 1926–22 January 1927)”(訳: 「未知なるカダスを夢に求めて」(1926年秋?〜1927年1月22日)) — H. P. Lovecraft’s Fiction, Alphabetical Order, The H. P. Lovecraft Archive ↩
- [10] “1943: The Dream-Quest of Unknown Kadath ( Beyond the Wall of Sleep , Arkham House)”(訳: 「1943年:『未知なるカダスを夢に求めて』(作品集『Beyond the Wall of Sleep』、アーカム・ハウス)」) — H. P. Lovecraft’s Fiction, Publication Order, The H. P. Lovecraft Archive ↩



