概要
現実の生活に希望を持てないロンドンの没落貴族クラネスが、幼年期にただ一度だけ垣間見た夢の都市セレファイスへの憧れを募らせ、麻薬に頼ってまでその夢に還ろうとする一篇。夢と現実の対比を通じて、美への渇望と現実からの解放というラヴクラフトの初期の主題を鮮やかに描く。
作品情報
- 執筆・発表年: 1920年11月執筆/1922年5月同人誌「ザ・レインボー」発表
- 主題タグ: 夢による現実からの解放、失われた幼年期への憧憬、王としての戴冠、現実の悲惨との対比
登場神格・用語
あらすじ
物語は一つの夢から始まる——「夢の中でクラネスは、谷間にある都市と、その向こうに広がる海岸と、海を見下ろす雪を頂いた峰と、港から海と空が出会う遠い地方へと帆走していく色鮮やかな帆船とを見た」[1]。祖先の土地も財産も失い、ロンドンの陋屋で孤独に暮らす没落貴族クラネスは、夢の中で幼い日に一度だけ見た都市セレファイスに強く心惹かれている。ウース=ナルガイの谷にあるというこの都市を再び夢見ようと、彼は薬物の力を借りてまで眠りを求め続ける。ある夜、ついに黄金の騎士団に導かれてセレファイスへと帰還したクラネスは、自らが夢見て創造したこの地の王として永遠に君臨することを告げられる。以後クラネスはウース=ナルガイと周辺の夢の国々を統べ、セレファイスと雲の都セラニアンとに交互に宮廷を構え、永遠に幸福な統治を続けている——しかしその一方で、現実のインスマス沖の断崖の下では、夜明けに村をさまよっていた一人の浮浪者の亡骸が、潮に弄ばれながら岩に打ち上げられていた[2]。
読みどころと注目テーマ
夢の中の栄光と現実の悲惨な死とを一文で対比させる幕切れの鮮烈さが際立つ。後の「未知なるカダスを夢に求めて」でクラネスが再登場する布石ともなっており、ラヴクラフトの「夢の国」連作の起点として位置づけられる。物語の中盤、クラネスがセレファイスへの帰路を見失い、雲の都セラニアンや、黄色い絹の仮面をかぶり誰も正体を知らないレン高原の大神官が住まう先史時代の石造修道院など、幾つもの異境をさまよい歩く挿話は、後の『未知なるカダスを夢に求めて』でランドルフ・カーターが辿ることになる長い遍歴の原型そのものであり、ラヴクラフトが自らの夢の国を段階的に拡張していった過程を読み取ることができる。また、望んだものを手に入れた瞬間に目が覚めてしまうという反復構造は、夢と現実の主導権が最後まで語り手の手を離れないというこの時期のラヴクラフト作品特有の焦燥感を生み出している。
執筆背景と影響
ダンセイニ卿の作風に強く傾倒していた時期に書かれた、いわゆる「夢の国」連作の中核をなす一篇。ここで初めて描かれたセレファイスとウース=ナルガイは、後年の「未知なるカダスを夢に求めて」で舞台として再び用いられ、夢の国の地理的骨格を形作ることになる。1920年11月に執筆され、1922年5月にアマチュア文芸誌「ザ・レインボー」に発表された。この時期のラヴクラフトは、経済的困窮と第一次大戦後の閉塞した現実から逃避するように、麻薬による陶酔と夢による異世界への没入という主題を繰り返し扱っており、クラネスという人物像には、現実で財を成すことに関心を持たず執筆と夢想に沈潜していったラヴクラフト自身の心情が色濃く投影されているとしばしば指摘される。物語終盤で語られる「彼は今もなお、そこに君臨し続けるであろう、末永く」という一節は、夢の中の永遠と現実の死という二つの時間が同時に存在するという逆説を成立させる仕掛けであり、ラヴクラフトの夢幻文学の中でも特に完成度の高い結末の一つとされる。本作の着想源には、ラヴクラフト自身が実際に見た「都市の上空を飛ぶ夢」という夢日記の記述があったことが知られており[3]、ロード・ダンセイニに加えてアンブローズ・ビアスの幻想的なイメージからも影響を受けたと指摘される。5年後に執筆される『未知なるカダスを夢に求めて』では、再びセレファイスを訪れたランドルフ・カーターが、クラネスの望郷の念によってこの都市がいつしか彼の故郷コーンウォールの記憶に似た姿へと変容していたことを知る場面が描かれ、本作の結末に漂う「望みが叶うことの代償」という主題を、より深く掘り下げる形で引き継いでいる。
出典
- [1] “In a dream Kuranes saw the city in the valley, and the sea-coast beyond, and the snowy peak overlooking the sea, and the gaily painted galleys that sail out of the harbour toward distant regions where the sea meets the sky.”(訳: 「夢の中でクラネスは、谷間にある都市と、その向こうに広がる海岸と、海を見下ろす雪を頂いた峰と、港から海と空が出会う遠い地方へと帆走していく色鮮やかな帆船とを見た」) — H. P. Lovecraft, “Celephaïs”(1920年執筆/1922年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “And Kuranes reigned thereafter over Ooth-Nargai and all the neighbouring regions of dream, and held his court alternately in Celephaïs and in the cloud-fashioned Serannian. He reigns there still, and will reign happily forever, though below the cliffs at Innsmouth the channel tides played mockingly with the body of a tramp who had stumbled through the half-deserted village at dawn…”(訳: 「かくしてクラネスは、ウース=ナルガイとその近隣にある夢のあらゆる地域を統治し、セレファイスと、雲でできたセラニアンとに交互に宮廷を構えた。彼は今もなお、そこに君臨し続けるであろう、末永く。しかしその一方で、インスマスの断崖の下では、夜明けに半ば人気のない村をさまよっていた一人の浮浪者の亡骸を、海峡の潮が嘲るように弄んでいた」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [3] 本作の着想源としてラヴクラフト自身の夢日記にある「都市の上空を飛ぶ夢」という記述、ロード・ダンセイニおよびアンブローズ・ビアスからの文学的影響、『未知なるカダスを夢に求めて』(1926年執筆)でランドルフ・カーターが再訪した際にセレファイスがクラネスの望郷の念によって変容していたと判明する場面について。— 出典: Wikipedia「Celephaïs」, 該当ページ ↩





