実在の文献 — THE KEY OF SOLOMON

ソロモンの鍵

ソロモン王に仮託された、14〜15世紀のルネサンス期イタリアに遡るとされる西洋儀式魔術の魔道書。ラヴクラフトは評論『文学における超自然の恐怖』の中で「ソロモンの小さき鍵(Claviculae of Solomon)」を、古代東方の心を捉えた怪異の力を示す資料として名指ししている。S・L・マグレガー・メイザースによる1888年の英訳が、19世紀末以降の西洋オカルティズムに広く流通した。

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概要

『ソロモンの鍵(ラテン語 Clavicula Salomonis)』は、古代イスラエルの王ソロモンに仮託された儀式魔術の魔道書です。実際の成立は中世からルネサンス期にかけてで、現存する最古のラテン語写本は15世紀末、イタリア語写本の一つは1446年の年記を持ちます[1]。

ラヴクラフトの評論『文学における超自然の恐怖』は、この文献に実名で触れています。

Fragments like the Book of Enoch and the Claviculae of Solomon well illustrate the power of the weird over the ancient Eastern mind(訳: エノク書やソロモンの小さき鍵のような断片は、怪異の力が古代東方の精神をいかに捉えていたかをよく示している)[2]

金枝篇や西欧の魔女崇拝が「クトゥルフの呼び声」の作中に置かれた実在書だとすれば、こちらはラヴクラフト自身が評論の中で引いた実在書です。虚構の登場人物ではなく、書き手本人が根拠として挙げた文献ということになります。エインジェル教授の書類に紛れ込ませたのではなく、自らの主張を支える論拠として、正面から名前を出しています。

「発見された」のではなく、「初めて公刊された」

この文献が広く読まれるようになった経緯には、19世紀末という比較的新しい出来事が絡んでいます。1888年、英国のオカルティストS・L・マグレガー・メイザースが、大英博物館所蔵の写本7点——Add. MSS. 10,862、Sloane MSS. 1307・3091、Harleian MSS. 3981、King’s MSS. 288、Lansdowne MSS. 1202・1203——を底本に、初めて本格的な英訳を刊行しました[1]。

メイザース自身、序文でこう書いています。

The Key of Solomon, save for a curtailed and incomplete copy published in France in the seventeenth century, has never yet been printed, but has for centuries remained in manuscript form(訳: ソロモンの鍵は、17世紀にフランスで出た省略された不完全な版を除けば、これまで一度も印刷されたことがなく、何世紀ものあいだ写本のまま残ってきた)[1]

つまりこの本は、古代から連綿と読み継がれてきた文献というより、19世紀末にようやく一般読者の手に届いた文献です。ラヴクラフトが評論を書いた1920年代の読者にとって、これはまだ「新しく発見された古い知識」という新鮮さを保っていたはずです。

カバラ魔術の「源泉にして貯蔵庫」

メイザースはこの文献の位置づけを、序文でさらにこう説明しています。

The fountain-head and storehouse of Qabalistical magic, and the origin of much of the ceremonial magic of mediæval times, the ‘Key’ has been ever valued by occult writers as a work of the highest authority(訳: カバラ魔術の源泉にして貯蔵庫であり、中世の儀式魔術の多くの起源であるこの『鍵』は、最高の権威を持つ書物としてオカルト作家たちに常に高く評価されてきた)[1]

さらに、19世紀フランスの著名なオカルティストエリファス・レヴィが、自身の代表作『高等魔術の教理と祭儀』を、この『ソロモンの鍵』をモデルとして書いた、とも記しています[1]。

古代の権威から近代のオカルティズムへ、一本の線が引かれていることになります。ソロモン→17世紀の不完全な版→数世紀にわたる写本のままの流通→メイザースの1888年英訳→レヴィの近代魔術書という具合に、伝承の経路をたどることができます。

中身:祈祷・時刻・護符

底本となった構成を見ると、この文献が具体的な手順書であることが分かります。全2巻で、第1巻は神への信愛から始まり、惑星ごとの時刻の選び方、魔法円の作り方、告解、祈祷、召喚、そして惑星ごとに分類された護符(ペンタクル)と具体的な「実験」の手順を扱います[1]。第2巻は、時刻の計算、師弟の作法、断食、沐浴、衣装、実施場所、道具、香、水、火、羊皮紙、インク、文字、供物といった実務的な準備事項を扱います[1]。祈祷の文句そのものより、儀式を成立させるための環境と道具立てに多くの紙幅が割かれているのが分かります。

冒頭の第1章はこう始まります。

Solomon, the son of David, King of Israel, hath said that the beginning of our Key is to fear God, to adore him, to honour him with contrition of heart(訳: イスラエル王、ダビデの子ソロモンは言った。我らの鍵の始まりは、神を畏れ、神を崇め、悔悟の心をもって神を敬うことにある、と)[1]

儀式魔術というと禍々しい呪文の羅列を想像しがちですが、実際の書き出しは、むしろ敬虔な信仰の表明から始まっています。悪魔を呼び出す手順書である前に、まず神への態度を説く教訓書として書かれているわけです。

5つの言語で伝わった写本群

現存する写本は、ギリシア語、ラテン語、イタリア語、ヘブライ語、フランス語、英語の6つの言語にまたがります[3]。最古級のものとして、15世紀のギリシア語写本(大英図書館Harley MS 5596)や、1572年の英訳『The Clavicle of Solomon, revealed byPtolomy the Grecian(プトレマイオスによって明かされたソロモンの小さき鍵)』という奇妙な題を持つ写本が知られています[3]。

ヘブライ語版も大英図書館に2点伝わっており[3]、1580年ごろ、マントヴァ公の依頼でアブラモ・コロルニがヘブライ語からイタリア語へ翻訳したとされます[3]。翻訳の経緯を裏づける一次資料以上の検証は、当サイトでは行えていません。

一つの書物が、数世紀のあいだに複数の言語圏を渡り歩きながら、少しずつ形を変えて写され続けてきたことになります。翻訳者が同時に改変者でもあった時代の産物であり、「原本」と呼べる単一の写本は存在しません。

『レメゲトン』とは別の書物

しばしば混同されるのが、17世紀の魔道書『レメゲトン(Lemegeton)』、通称「ソロモンの小さき鍵(The Lesser Key of Solomon)」です。メイザース自身、英訳版の注記で「レメゲトン、別名ソロモンの小さき鍵と呼ばれるもう一つの書物があるが、それは本書とは別物である」と明記する一方、本文の召喚句の一つについては「レメゲトンにあるものとほとんど同一」だとも記しています[3]。両者のあいだに重なりが皆無ではないものの、メイザース自身が別の書物として扱っていたことになります。

つまり、この記事で扱っている大きい方の『ソロモンの鍵』(Clavicula Salomonis)と、72柱の悪魔を列挙することで知られる『レメゲトン』(通称「小さき鍵」)は、成立時期も内容も異なる別の文献です。「ソロモンの鍵」という名前だけで両者を同一視しないよう、注意が必要です。

翻訳者は、黄金の夜明け団の創設者だった

英訳したS・L・マグレガー・メイザースその人についても触れておきます。1854年1月8日ロンドン・ハックニー生まれ、1918年11月5日、パリで流行していたスペイン風邪により没したとされます[4]。

メイザースは、儀式魔術結社「黄金の夜明け団(Hermetic Order of the Golden Dawn)」の共同創設者3人のうちの一人です。教団の再編を主導してその首長格となり、上級コースの主要な教本の執筆や、8段階の試験からなるカリキュラムの整備を担いました[4]。

彼は『ソロモンの鍵』のほかにも、『アブラメリンの書』、『あばかれたカバラ』(1887年)、『アルマデルの魔道書』を英訳しています[4]。さらに、72柱の悪魔を列挙する『レメゲトン』第1書「ゴエティア」の英訳も彼の手によるもので、1904年にアレイスター・クロウリーの手で編集・刊行されました[4]。同じ人物が、『ソロモンの鍵』と『レメゲトン』第1書の両方を、それぞれ独立した仕事として英訳していたことになります。

19世紀末のオカルティズム復興を支えた人物の一人が、この『ソロモンの鍵』の英訳者でもあったわけです。

ラヴクラフトの評価の中での位置

評論の中でこの文献が置かれた文脈も見ておきます。「エノク書やソロモンの小さき鍵のような断片」という一節は、先史時代から続き、エジプトとセム系諸民族で最高度に発達した荘厳な儀式魔術——悪魔や幽霊を呼び出す儀礼を伴うもの——の説明の中にあります[2]。ラヴクラフトはこれを、古典文学にまで痕跡が及ぶ「超越的な恐怖」の例として挙げています。

つまりここでの『ソロモンの鍵』は、神話の直接の元ネタというより、怪異への恐怖がどれほど古く、どれほど広く人類の精神に根を張ってきたかを示す証拠として引かれています。特定の呪文や神格の出典としてではなく、恐怖という感情そのものの歴史的な厚みを裏づけるために名指しされているわけです。金枝篇がそうだったように、ラヴクラフトは実在の資料を挙げることで、自分の主張に歴史的な裏付けを与えているわけです。

ネクロノミコンとの距離

当サイトのネクロノミコンは実在するのかの記事で扱った実在の魔術師ジョン・ディーは、ラヴクラフトの評論の同じ段落で、ノストラダムスやトリテミウス、ロバート・フラッドと並んで「ルネサンス期の魔術師・錬金術師」として名前が挙がっています[2]。

『ソロモンの鍵』は、ネクロノミコンのような完全な創作とは違い、実在し、いまも研究され、いまも英訳が更新され続けている文献です。この記事の出典として使ったesotericarchives.comの版も、2025年1月の注釈更新まで記録が残っている、現在も続いている学術的な校訂作業の産物です[1]。実在の書物と架空の書物のあいだにどれほどの距離があるかを測るには、この違いを知っておく必要があります。

メイザースが1888年に英訳を刊行し、ラヴクラフトが1920年代にそれを評論の中で引用する。両者のあいだは、わずか30〜40年です。神話が参照する「古い知識」の少なからぬ部分が、実はラヴクラフト本人の生きた時代に近い過去の産物だった——この時間の近さも、あわせて覚えておきたい事実です。

出典

  • [1] “The Key of Solomon the King (Clavicula Salomonis)”、S. L. MacGregor Mathers訳(1888年初版)、Joseph H. Peterson校訂版(2025年最終更新)。写本7点の一覧、序文の引用(エリファス・レヴィへの言及を含む)、全2巻の構成、第1章冒頭の引用はいずれも同ページによる(2026年8月25日確認) https://www.esotericarchives.com/solomon/ksol.htm
  • [2] H. P. Lovecraft “Supernatural Horror in Literature”。「ソロモンの小さき鍵」およびジョン・ディーらルネサンス魔術師への言及は、いずれも公式アーカイブの公開テキストによるhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/essays/shil.aspx
  • [3] 写本がギリシア語・ラテン語・イタリア語・ヘブライ語・フランス語・英語の6言語にまたがること、大英図書館Harleian MS 5596(15世紀、ギリシア語)、Sloane MS 3847「The Clavicle of Solomon, revealed by Ptolomy the Grecian」(1572年、現存最古級)、大英図書館所蔵のヘブライ語写本2点(Or. 6360、Or. 14759)、レメゲトンについてのメイザース自身の注記(「別物である」「召喚句の一つはほぼ同一」)は、いずれもJoseph H. Petersonの校訂ノートおよびメイザース本人の序文・注による(2026年9月7日確認) https://www.esotericarchives.com/solomon/ksol.htm 。アブラモ・コロルニが1580年ごろマントヴァ公の依頼でヘブライ語からイタリア語へ翻訳したことは — “Colorni (Colorno), Abraham”, Jewish Encyclopedia(1906年、2026年9月7日確認), https://www.jewishencyclopedia.com/articles/4559-colorni-colorno-abraham
  • [4] メイザースの生年月日(1854年1月8日、ロンドン・ハックニー)、没年月日(1918年11月5日、パリ、スペイン風邪の流行下)、黄金の夜明け団の共同創設者であり教団の再編を主導したこと、上級コースの主要な教本の執筆と8段階の試験からなるカリキュラム整備を担ったこと、『ソロモンの鍵』『アブラメリンの書』『あばかれたカバラ』『アルマデルの魔道書』を英訳したことは — The Hermetic Order of TheGolden Dawn®公式サイト「Samuel Liddell “MacGregor” Mathers」(2026年9月7日確認),https://hermeticgoldendawn.org/biography-samuel-liddell-macgregor-mathers/ 。『レメゲトン』第1書「ゴエティア」の英訳がメイザースの手になり、1904年にアレイスター・クロウリーの編集で刊行されたとされるが、当サイトでは版元の一次資料で確認していない。なお、研究者イズラエル・リガーディーがメイザースを評したとされる発言は、当サイトの出典基準を満たす一次資料で本文を確認できなかったため、本文から削った。
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