概要
ノストラダムス——本名ミシェル・ド・ノートルダム(1503-1566)は、フランスの医師にして占星術師です。ブリタニカ百科事典は彼を「ルネサンス期でもっとも広く読まれた予言者」と呼んでいます[2]。その予言集が、この記事の対象です。
この名前は、原典の中に出てきます。ラヴクラフトが1927年に発表した評論「文学における超自然の恐怖」の第3章にあたる箇所で、ルネサンスの魔術師・錬金術師の一人として実名で挙げられています[1]。当サイトはこの一節をソロモンの鍵の記事でも使いました。同じ評論の、少し離れた場所です。
ただしノストラダムスには、金枝篇やゾーハルと違う点がひとつあります。ラヴクラフトは小説の中で、一度もこの名前を使っていません。
原典のどこに出てくるか
中世からルネサンスにかけての恐怖の土壌を説明する段落です。教会建築のガーゴイル、魔女のサバト、黒ミサ、そして占星術師・カバリスト・錬金術師の活動を並べたあと、こう続きます。
It was from no empty background that the Renaissance magicians and alchemists—Nostradamus, Trithemius, Dr. John Dee, Robert Fludd, and the like—were born.(訳: ルネサンスの魔術師や錬金術師たち——ノストラダムス、トリテミウス、ジョン・ディー博士、ロバート・フラッド、その他——が生まれてきたのは、けっして空虚な土壌からではなかった)[1]
直前の一文では、その土壌を「アルベルトゥス・マグヌスやライムンドゥス・ルルスの型の占星術師・カバリスト・錬金術師」と言い表しています[1]。ここに挙がっている名前を、覚えておいてください。
4人のうち、小説へ渡らなかった1人
この評論の名簿は、そのままラヴクラフトの小説の材料になっています。hplovecraft.com が公開している小説104本(約412万字)を検索すると、こうなりました。
| 評論の名前 | 小説での扱い |
|---|---|
| ジョン・ディー博士 | ネクロノミコンの英訳者。「ネクロノミコンの歴史」(1927年)と「ダニッチの怪」(1928年夏執筆) |
| トリテミウス | ジョゼフ・カーウェンの蔵書、ダニッチの暗号解読書、「邪悪な聖職者」の3作 |
| ロバート・フラッド | ジョゼフ・カーウェンの蔵書 |
| ノストラダムス | 該当なし(0件) |
アルベルトゥス・マグヌスとライムンドゥス・ルルスも、「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」のカーウェンの書棚にそろって並んでいます[5]。つまり評論で名前を挙げた魔術師たちは、順に小説へ移されていきました。
なかでもジョン・ディーの扱いは大きく、実在の数学者がネクロノミコンの翻訳者になっています。「ネクロノミコンの歴史」にはこうあります。
An English translation made by Dr. Dee was never printed, and exists only in fragments recovered from the original manuscript.(訳: ディー博士による英訳は印刷されることがなく、原稿から回収された断片としてのみ現存する)[4]
「ダニッチの怪」では、ウィルバー・ウェイトリーが祖父から遺された「ディー博士の英語版の、貴重だが不完全な写し」を携えてミスカトニック大学へ現れます[4]。実在の人物が、架空の書物の来歴の一部になっているわけです。
そのなかでノストラダムスだけが、評論に名前を出されたまま、小説へ渡っていません。ここが、この記事で確かめておきたい事実です。
どういう本なのか
ブリタニカによれば、ノストラダムスは1503年12月14日にサン=レミで生まれ、1566年7月1日か2日にサロンで没しました。医学の学位を取らないまま、おそらく医学校を放校になったあとで、1530年代のどこかでアジャンでの診療を始めています。1544年にサロンへ移り、1546年から47年にかけてのエクスとリヨンの疫病流行で、その治療によって名を上げました[2]。
予言を始めたのは1547年ごろ。1555年に『百詩篇(Centuries)』の題で刊行されます。中身は押韻した四行詩で、100篇ずつの組にまとめられ、その1組を「百詩篇(century)」と呼びました。占星術の流行が頂点にあった時期で、1558年にはフランス王へ献呈された増補第2版が出ています[2]。
その後の経歴も追えます。予言のいくつかが的中したと見なされ、名声はアンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの宮廷に招かれるほどになりました。そこで彼は王妃の子どもたちのホロスコープを立てています。1564年にはシャルル9世から侍医に任じられました[2]。
なお、彼の予言が教会の禁書目録の審査機関から断罪されたという話は、広く信じられているが事実ではないとブリタニカは書き添えています[2]。
アンリ2世の死を当てた四行詩
名声の出発点になった一篇があります。チャールズ・A・ウォードの1891年の英語版から引きます。『百詩篇』第1巻・第35番。
Le lyon jeune le vieux surmontera / En champ bellique par singulier duelle: / Dans cage d’or les yeux lui crevera, / Deux classes une, puis mourir, mort cruelle.(ウォードの英訳より: 若き獅子は老いたる獅子を打ち負かすであろう/戦の場において、一騎打ちによって/黄金の檻の中で、その両眼を貫くであろう/これは二つの伐採のうち最初のもので、そののち彼は残酷な死を遂げる)[3]
ウォードの注釈によれば、モンゴメリ伯となる人物が馬上槍試合でアンリ2世(=老いたる獅子)を倒し、金メッキの兜のバイザー越しに眼の上を貫きました。これがヴァロワ王家の樹を倒す二撃のうちの最初の一撃であり、二撃目は息子アンリ3世が1589年8月1日にジャック・クレマンの手で倒れたことを指す、という読み方です[3]。
この四行詩について、ウォードはこう書いています。
It is found in the earliest edition of the quatrains published at Lyons in 1555, containing merely 300 quatrains. It lifted Nostradamus into celebrity at once.(訳: これは1555年にリヨンで刊行された、わずか300篇の四行詩を収める最初期の版に見出される。これが一挙にノストラダムスを名士へ押し上げた)[3]
アンリ2世が馬上槍試合の傷で没したのは1559年7月10日[3]。刊行の4年後です。
わざと読みにくく書いた、とされている
この本の性格をよく表しているのが、ウォードによる次の説明です。予言をそのまま散文で書いて世に理解されてしまえば、それは予言としてではなく落雷として、書物としてではなく地震として落ち、ヨーロッパの姿を変え、予言自身の実現を妨げてしまう——だから彼はそうしなかった、という筋立てのあとに置かれています。
He broke up the sequence, threw the utterances into metre, mingled much learning linguistic to darken them, and obscured the names, of the great men introduced, under the impenetrable mask of the anagram.(訳: 彼は順序を崩し、語られたものを韻律へ流し込み、それらを暗くするために言語の学識を多く混ぜ込み、登場する偉人たちの名を、見通しのきかないアナグラムの仮面の下へ隠した)[3]
デルフォイやドドナといった古代の託宣所のやり方に倣ったのだ、ともウォードは書きます[3]。順序を崩し、韻律に流し込み、名前をアナグラムで隠す。読み解けないことが、この本の仕様だという説明です。
ラヴクラフトの読者は、ここで手が止まるかもしれません。読み解けない書物、判読不能の文字、断片としてしか現存しない翻訳——ネクロノミコンをめぐる記述の語彙とよく似ています。実在の予言書がすでに持っていた性質が、架空の魔道書の描き方と重なっている、と言うこともできます。
1891年の英語版
英語圏の読者がこの本をどう読めたのかも見ておきます。
チャールズ・A・ウォード『オラクルズ・オブ・ノストラダムス(Oracles of Nostradamus)』が、1891年にロンドンのリーデンホール・プレスから出ています[3]。四行詩の原文、英訳、そして歴史上の出来事との対応づけを並べた本です。前の記事で扱ったゾーハルのメイザース訳が1887年、ソロモンの鍵のメイザース訳が1888年ですから、ほぼ同じ時期になります。19世紀末のロンドンで、オカルト文献の英語版が続けて出ていた——その一冊です。
この書名は、あとで出てくるTRPG側の項目名とも一致します。
ラヴクラフトはなぜこの名前を使わなかったのか
ここは、答えを出さずに材料だけ置きます。動機を書いた資料に当たっていないので、理由は書けません(推測で埋めない、というのが当サイトの決まりです)。
観察できることは3つあります。
ひとつ。カーウェンの書棚に並んだのは、トリテミウス『賢者の石について』、フラッドの『錬金術の鍵』のように、書名と版が挙がる書物でした[5]。これに対してノストラダムスの予言集は、書名より著者名で通っています。目録の一行として置きにくい形です。
ふたつ。ジョン・ディーがネクロノミコンの英訳者として使われたとき、必要だったのは空白でした。実在のディーの経歴に、架空の翻訳を差し込む隙間があったわけです。ノストラダムスの四行詩は、すでに何百年も注釈がつけられ続けています。
みっつ。ラヴクラフトが評論で扱ったのは予言そのものではなく、そういう人物が生まれてくる土壌でした[1]。名簿はそこで役目を終えています。小説へ渡ったかどうかは、評論の側の関心とは別の話です。
以上は、いずれも本文から確かめられる事実です。どれが理由なのかは分かりません。
三層のどこに属するか
神話の三層で見ると、この本の位置は、これまで扱った実在の書物とは少しずれます。
原典層(1917-1937) — 評論「文学における超自然の恐怖」(1927年発表)に人名として1回[1]。小説には出てきません。 検索した104本のいずれにも該当がありませんでした。
ダーレス以降の拡張層(1939-) — 当サイトでは未確認です。資料に当たっていないので、ここは空欄のままにします。
TRPG層(1981-) — Chaosiumが公開している『クトゥルフ神話TRPG』第7版キーパー・ルールブックの公式索引に “Oracles of Nostradamus 236” として載っています[6]。索引は「Mythos Tomes(神話の魔導書)」と「Occult Books(オカルト書)」を別の見出しで立てており、236頁は金枝篇、ソロモンの鍵、ゾーハル、易経、『魔女の鉄槌』、『ヴェールを剥がされたイシス』と同じ範囲です[6]。ジャーンの書の226頁とは分かれています。
ゲームの側は、原典が使わなかったこの一冊を拾い直しました。 しかも索引が使っている項目名は、ウォードの1891年の英語版の書名と同じ形です。
なお当サイトは、この記事に `shinen_arc_canon_layer` を設定していません。実在の書物であり、Chaosiumもオカルト書の側へ置いているためです。金枝篇・魔女崇拝・ソロモンの鍵・ゾーハルの各記事と同じ扱いにしてあります。
出典
- [1] H. P. Lovecraft “Supernatural Horror in Literature”(1927年発表)。ルネサンスの魔術師の名簿、およびその直前の「アルベルトゥス・マグヌスやライムンドゥス・ルルスの型」という記述は、公式アーカイブの公開テキストによるhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/essays/shil.aspx
- [2] “Nostradamus”, Encyclopaedia Britannica(2026年9月3日確認)。生没年と地名、経歴、1555年の『百詩篇』刊行と1558年の増補第2版、百詩篇という単位、カトリーヌ・ド・メディシスの宮廷、1564年の侍医任命、禁書目録に関する注記は、同項目によるhttps://www.britannica.com/biography/Nostradamus
- [3] Charles A. Ward “Oracles of Nostradamus”(London: The Leadenhall Press, E.C.、1891年)。Project Gutenberg 公開テキスト(eBook #79378、2026年9月3日確認)。第1巻第35番の原文・英訳・注釈、1555年リヨン版が300篇であったこと、アンリ2世の没日、および難解に書いた理由についての記述は、いずれも同テキストによる https://www.gutenberg.org/ebooks/79378
- [4] H. P. Lovecraft “History of the Necronomicon”(1927年執筆)および”The Dunwich Horror”(1928年夏執筆)。ディー博士の英訳に関する引用と記述、執筆時期は、公式アーカイブの公開テキストと同サイトの小説年表によるhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/hn.aspx
- [5] H. P. Lovecraft “The Case of Charles Dexter Ward”(1927年1月〜3月1日執筆)。カーウェンの蔵書に並ぶトリテミウス・フラッド・アルベルトゥス・マグヌス・ライムンドゥス・ルルスの書名は、公式アーカイブの公開テキストによるhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/cdw.aspx
- [6] Chaosium “Call of Cthulhu 7th Edition Index for Keepers and Investigators”(版元公式の無償配布PDF、2026年9月3日取得)。”Oracles of Nostradamus 236” の掲載、索引が Mythos Tomes とOccult Books の見出しを分けていること、および各書名に付された頁番号は、同PDFによるhttps://www.chaosium.com/content/FreePDFs/CoC%207/Call%20of%20Cthulhu%207th%20Edition%20Index%20for%20Keepers%20and%20Investigators.pdf




