魔導書(グリモワール)とは何か
魔導書(グリモワール、grimoire)とは、中世から近世にかけての西洋オカルト文化の中で書かれた、悪魔の召喚・護符の作成・呪文の詠唱といった魔術の実践手順をまとめた書物の総称です。「ソロモンの鍵」や「大奥義書」のように、実際に写本として流通し、後世の魔術結社や神秘主義に影響を与えたものも少なくありません。禁断の知識を記した書物というモチーフ自体が、キリスト教的な異端審問の歴史と結びつき、「読めば身を滅ぼす書物」という西洋文化の定型的なイメージを形作ってきました。
クトゥルフ神話における魔導書の役割
クトゥルフ神話において魔導書は、単なる小道具ではなく物語装置そのものです。作中人物がページをめくるたびに禁断の知識が流れ込み、正気度を代償として世界の真実に近づいていくという構造は、H・P・ラヴクラフトが『ネクロノミコン』で確立し、後続の作家たちが独自の魔導書を次々と創造することで神話体系全体に広がりました。多くの魔導書には「著者は異端審問で処刑された」「複数の言語に翻訳され写本が世界各地の大学や博物館に散在する」といった架空の書誌史が与えられており、この精緻な設定の積み重ねが、フィクションに現実めいた重みを与える役割を果たしています。
主要な神話魔導書
- ネクロノミコン — アラビア語の原題は『アル・アジフ』。狂気の詩人アブドゥル・アルハザードが著したとされる、神話体系の中核を成す最重要の禁書です。
- エイボンの書 — クラーク・アシュトン・スミスが創造。超古代文明ハイパーボリアの魔術師エイボンが、ツァトゥグァの神託を受けて記したとされます。
- 無名祭祀書 — ロバート・E・ハワード創造。フォン・ユンツトが世界各地の邪教団を旅して記録した書物で、ネクロノミコンに次ぐ代表的な禁書です。
- デ・ヴェルミス・ミステリイス — ロバート・ブロック創造。ラテン語で「蟲の秘密」を意味し、異端審問で処刑された著者ルドヴィク・プリンの設定で知られます。
- プナコティック・マニュスクリプト — ラヴクラフト自身の原典に繰り返し登場する、人類誕生以前の記録を伝える古文書群です。
- 屍食教典儀 — ロバート・ブロック創造。フランス語で「食屍鬼の崇拝」を意味し、死者蘇生や食屍鬼への変貌の術が記されています。
- 悪魔の啓示 — ラムジー・キャンベル創造。邪神グラーキの信者たちが世代を越えて書き継いだとされる書物です。
- クタート・アクアディンゲン — ブライアン・ラムレイ創造。水にまつわる存在の召喚・鎮圧に特化した魔導書です。
- ルルイエ異本 — 粘土板に刻まれた人類以前の言語の記録を翻訳したものとされます。原典対応には編集部注で留保を付しています。
- ポナペ経典 — リン・カーター創造。太平洋の島ポナペで発見された、クトゥルフの「子ら」にまつわる刻文の翻訳という設定です。
- ザントゥの石板 — リン・カーター創造。失われた大陸ムーの魔道士ザントゥが遺したとされる石板群です。
- エルトダウンの粘土板 — リチャード・F・サーライト考案。人類が存在し得ない時代の地層から出土したとされる判読不能な粘土板です。
神話の外の魔導書
クトゥルフ神話の魔導書群は、実在する西洋グリモワール文化を下敷きにしながら独自に発展した創作物です。「ソロモンの鍵」のような実在のグリモワール伝統は、悪魔祓いや護符作成の実務書という性格が強い一方、神話の魔導書は「読むこと自体が危険」という架空の設定を核に据えている点で一線を画します。この「禁断の書物」というモチーフは、TRPGやビデオゲーム、ホラー小説など現代の創作全般に広く借用され、クトゥルフ神話を知らない読者にも「怪しい古書」の記号として浸透しています。
実在の出版物として——ネクロノミコンを名乗る本たち
ラヴクラフトが創造した架空の禁書とは別に、その名を借りて現実に出版された書籍も存在します。1977年に「サイモン」の筆名で刊行されたサイモン・ネクロノミコンは、シュメール神話の要素とラヴクラフトの神格名を組み合わせた実在の出版物で、著者も内容も作中のネクロノミコンとは無関係ですが、同じ書名を掲げたことで長年混同・誤解の対象となってきました。フィクションと現実の出版史が交錯する、この神話ならではの現象を象徴する一冊です。
サイモン版のほかにも、「ネクロノミコン」の名を冠した実在の出版物は複数存在します。1978年には英国で、実在の学者ジョン・ディーの暗号文書を解読したという体裁を取るジョージ・ヘイ版が刊行され、こちらは日本語訳『魔道書ネクロノミコン』(学研)で読むことができます(サイモン版・ヘイ版それぞれの入手先はサイモン・ネクロノミコンの記事末尾にまとめています)。さらに、ラヴクラフトの物語から生まれた実在のレシピ集料理の魔書 ネクロノミコンのようなパロディ出版物、邪神が美少女となって独ソ戦に顕現する架空戦記小説ネクロノミコン異聞のように書名を受け継いだ派生作品も生まれており、「架空の禁書が現実の本棚に増殖していく」というネクロノミコンならではの現象は、現在も進行中です。


