概要
レグヌム・コンゴ(Regnum Congo)は、H・P・ラヴクラフトの短編「家のなかの絵」(The Picture in the House)で、語り手が老人の家の一室で見つける書物です。作中では、水夫ロペスの記録をもとにラテン語で書かれ、1598年にフランクフォートで印刷された、ピガフェッタによるコンゴ地方の記録だと語り手が気づく場面で紹介されます[1]。本が独りでに開く癖のあるページは「第十二図(Plate XII)」で、食人種アンジーク族の肉屋の様子が凄惨に描かれており、この一枚が物語の結末までを支配する不吉な焦点になります[2]。
架空の魔導書とは異なり、レグヌム・コンゴは実在する書物です。原型は1591年にローマで刊行されたイタリア語版で、その後ドイツ語・ラテン語で版を重ねました[3]。ラヴクラフトが作中で語る刊年・刊行地・言語(1598年、フランクフォート、ラテン語)は、現存するこの書物の一版と実際に一致しています。
基本プロフィール
- 分類: 書物(実在)
- 欧文表記: REGNUM CONGO ── 作中で語り手が老人に入手経緯を尋ねる場面で、書名が「ピガフェッタのレグヌム・コンゴ(Pigafetta’s Regnum Congo)」と直接明言されます[4]
- 原著: フィリッポ・ピガフェッタが、ポルトガル人航海者ドゥアルテ・ロペスの口述・記録をもとに編纂[1]
- 初版: 1591年[30]、ローマ、Bartolomeo Grassi刊[29]、イタリア語版『Relatione del reame di congo et delle circonuicine contrade』(Biblioteca Universitaria de Sevilla所蔵、archive.org識別子 ARes04525)[3]
- 作中で言及される版: 1598年、フランクフルト刊、ラテン語版。刊記には「Francofvrti : Excudebat Wolffgangus Richter, impensis Io. Theo. & Io. Israel. de Bry, frat.」とあり、デ・ブライ兄弟(ヨハン・テオドール&ヨハン・イスラエル・デ・ブライ)の出資によることが分かります[5]
- 収録図版: 折込地図3枚、番号付き銅版画14葉。このうちの第12図がアンジーク族の肉屋の場面にあたります[6][2]
- 初出作品: 「家のなかの絵」。1920年12月12日執筆[7]、The National Amateur誌第41巻第6号に発表(号の年月表記は「1919年7月」だが実際の発行は1921年夏)[8]
- 作中の所有者: 老人(名前不明)。前所有者はセイラムの商船に何年も乗っていたエベニーザー・ホルト船長で、老人が馬の取引のついでに挿絵目当てで本と交換したと語られます[9][10]
原典での描写
初出作品は「家のなかの絵」。
物語の舞台はミスカトニック渓谷で、語り手は系譜調査のためこの地方を旅していた1896年11月という設定です[11]。雨宿りのため語り手が飛び込んだ古びた農家の一室に、この本は置かれていました。
タイトルページを開いた語り手は、それがピガフェッタによるコンゴ地方の記録、水夫ロペスの記録をもとにラテン語で書かれ、1598年にフランクフォートで印刷された、由緒ある一冊だと気づきます[1]。デ・ブライ兄弟による珍しい挿絵で以前から名前を聞いていたと語り手は述懐しますが、その安堵は長くは続きません[12]。銅版画は完全な想像と杜撰な記述だけから描かれたもので、黒人を白い肌と白人的な顔立ちで表現していると語り手は評します[13]。何より語り手を苛立たせたのは、本が独りでに、まるで何度も開かれ続けてきたかのように「第十二図」のところで開いてしまう癖でした。そこに描かれるのは食人種アンジーク族の肉屋の凄惨な図で、隣接するアンジーク族の食習慣についての記述とあわせて、語り手はこの挿絵に不快感を覚えます[14]。
語り手が老人に本の入手経緯を尋ねると、老人は書名を「ピガフェッタのレグヌム・コンゴ」と口にし[4]、この本を「あのアフリカの本」と呼んで、戦死したエベニーザー・ホルト船長から1868年に交換で手に入れたと語ります[9]。ホルトはセイラムの商船に何年も乗り、寄港地ごとに珍品を集めており、この本もロンドンで手に入れたものらしいと老人は言います。老人は挿絵が気に入り、馬の取引のついでに本と交換したのでした[10]。本はラテン語で書かれており老人自身は読めず、以前に学校教師やクラーク牧師に一部を読んでもらったことがあると語り、語り手は求めに応じて冒頭近くの一節を英訳して聞かせます[15]。
老人がまず示すのは前の方の挿絵です。垂れ下がる大きな葉を持つ木、インディアンのような姿の人物、半分猿・半分人間のような生物、そしてアリゲーターの頭を持つ竜のような架空の生物が描かれており、老人が一つひとつを興味深そうに指し示す場面です[16]。だが本はほとんど独りでに、頻繁に開かれてきたかのように「忌まわしい第十二図」、すなわちアンジーク食人族の肉屋の場面で開きます。画家はアフリカ人を白人のように描いており、店の壁に吊るされた手足や胴体は凄惨で、斧を持つ肉屋の姿は場違いなほど不釣り合いだと描写されます[17]。老人はこの挿絵を見るたびに興奮を覚えると語り、切り刻まれた人物の足が切断された箇所、台の上の頭部、地面側にある腕の位置まで具体的に指し示します[18]。
やがて老人の語りは、市場に出す羊を殺す前にこの挿絵を眺めるようになったこと、それが次第に満足できなくなり、人肉への異常な渇望へと変わっていったことの告白へと沈んでいきます[19]。物語の結末部では、開いたままの本の上に天井から血の滴が落ち、アンジーク食人族の肉屋の挿絵の上で赤い染みとなって光り、これが老人の正体を示す最後の手がかりとなって物語は幕を閉じます[20]。
ラヴクラフト作品での言及
「家のなかの絵」以外のラヴクラフト作品でレグヌム・コンゴやピガフェッタの名が挙がる例は、今回参照した資料の範囲では確認できていません。
性質と影響
作中の描写は短い言及の積み重ねですが、レグヌム・コンゴという書物そのものは、16世紀末から17世紀にかけて版を重ねた実在の出版史を持っています。
原著はフィリッポ・ピガフェッタが、コンゴ王国に赴いたポルトガル人ドゥアルテ・ロペスの口述をもとにまとめたもので、1591年にローマでイタリア語版として初めて刊行されました[3]。この原著は、著名な銅版画師・出版者一族であるデ・ブライ兄弟の手により、大部の紀行叢書『小航海記』の第一部として翻訳・出版されていきます。まず1597年にフランクフルトでドイツ語版が刊行され[31][32]、書誌学者E・D・チャーチはこれを『小航海記』第一部の最初の版と同定しています[21]。この1597年版の目録記述には、番号付きの銅版画のうち10番までは折り込み地図とともに綴じられ、11番から14番までの図版についての説明が別葉に記されているとあり、少なくとも14番までの図版番号が存在したことが確認できます[22]。
翌1598年には、同じくフランクフルトでラテン語版が刊行されました。チャーチの書誌はこれを『小航海記』第一部の最初のラテン語版とし、1591年のイタリア語原著の翻訳であると同定しています[23]。この1598年ラテン語版こそ、「家のなかの絵」で語られる刊年・刊行地・言語と一致する版です。刊記にはデ・ブライ兄弟の出資が明記され[5]、折り込み地図3枚と番号付き銅版画14葉を収めています[6]。
1881年の英訳書に付された書誌ノートによれば、その後の版は1609年の第二ドイツ語版と1624年の第二ラテン語版でした[24]。このうち1624年の第二ラテン語版は、archive.orgに公開されているJohn Carter Brown Library所蔵スキャンで、チャーチの書誌により『小航海記』第一部の第二ラテン語版と同定されています[25]。フランス国立図書館(BnF)のカタログにも、フランクフルト刊・Erasmus Kempffer印刷・デ・ブライ家出資という同じ刊記の所蔵記録があり、出版地・出版者・年についてarchive.orgとBnFという独立した二つの機関の記録が一致しています[26]。
1881年には、マーガリート・ハッチンソンによる英訳『A Report of the Kingdom of Congo』がロンドンのジョン・マレー社から出版され、16世紀諸版に関する書誌ノートが付されています[27]。同じ英訳書の本文には、コンゴ王国の先にアンジーク族(Anziques/Anzichi)が住み、人肉のための「肉屋」を持ち、奴隷を切り刻ませて焼くか煮るかして売っていたという記述があります。archive.orgのOCRテキストでは、原文中に多用された長い s(ſ)がすべて f と誤認識されており、”They have fhambles for human fleih, as we have of animals, even eating the enemies they have killed in battle, and felling their {laves if they can get a good price for them ; if not, they give them to the butcher, who cuts them in pieces, and then fells them to be roafted or boiled.”という綴りで表示されます(archive.orgのOCRテキストの綴りのまま。ſがfと読まれている)。本来の綴りに直せば、彼らは家畜と同じように人肉のための「肉屋(shambles)」を持ち、戦いで殺した敵さえ食べ、奴隷を良い値で売れなければ肉屋に渡して切り刻ませ、焼く(roasted)か煮る(boiled)かして売っていた、という記述になります[28]。この一節は、「家のなかの絵」で老人が繰り返し見つめる「アンジーク食人族の肉屋」の挿絵の主題と対応する、実在の記述です。
関連する用語
- 家のなかの絵 ── レグヌム・コンゴの初出作品
- ネクロノミコン
- 魔導書 ── レグヌム・コンゴは実在するコンゴ地方の地誌書で、神話作品では魔導書と並べて扱われます
- 金枝篇 ── 実在書がラヴクラフト作品の背景に登場する先例
- ミスカトニック渓谷(Miskatonic Valley) ── 物語の舞台。当サイトに単独の記事はありません
- アンジーク族(Anziques/Anzichi) ── 作中で描かれる食人種の呼称。原典に記されるコンゴ地方の民族名で、当サイトに単独の記事はありません
- ピガフェッタ(Filippo Pigafetta) ── レグヌム・コンゴの編者。当サイトに単独の記事はありません
- ドゥアルテ・ロペス(Duarte Lopez) ── ピガフェッタに口述した航海者。当サイトに単独の記事はありません
- デ・ブライ兄弟(Theodor de Bry / Johann Theodor de Bry / Johann Israel de Bry) ── 銅版画師・出版者。当サイトに単独の記事はありません
- エベニーザー・ホルト船長(Ebenezer Holt) ── 作中の架空人物で、本の前の所有者。当サイトに単独の記事はありません
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[2] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[3] “Relatione del reame di congo et delle circonuicine contrade” (1591年イタリア語初版), Internet Archive metadata / Biblioteca Universitaria de Sevilla. https://archive.org/metadata/ARes04525[4] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[5] “Regnvm Congo hoc est Vera descriptio regni Africani…” (1598年ラテン語版), Internet Archive metadata / John Carter Brown Library. https://archive.org/metadata/regnvmcongohoces00piga_2[6] “Regnvm Congo hoc est Vera descriptio regni Africani…” (1598年ラテン語版), Internet Archive / John Carter Brown Library. https://archive.org/details/regnvmcongohoces00piga_2[7] “Lovecraft’s Fiction (Chronological Order)”. The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/chrono.aspx[8] “Lovecraft’s Fiction (Publication Order)”. The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/publish.aspx[9] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[10] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[11] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[12] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[13] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[14] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[15] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[16] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[17] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[18] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[19] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[20] H. P. Lovecraft, “The Picture in the House” (本文). The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ph.aspx (訳文は当サイトの試訳)[21] “Regnvm Congo hoc est Warhaffte vnd Eigentliche Beschreibung…” (1597年ドイツ語版), Internet Archive metadata / John Carter Brown Library. https://archive.org/metadata/regnvmcongohoces00piga[22] “Regnvm Congo hoc est Warhaffte vnd Eigentliche Beschreibung…” (1597年ドイツ語版), Internet Archive / John Carter Brown Library. https://archive.org/details/regnvmcongohoces00piga[23] “Regnvm Congo hoc est Vera descriptio regni Africani…” (1598年ラテン語版), Internet Archive metadata / John Carter Brown Library. https://archive.org/metadata/regnvmcongohoces00piga_2[24] A Report of the Kingdom of Congo, trans. Margarite Hutchinson (London: John Murray, 1881), 書誌ノート. Internet Archive (OCR full text, DjVu XML). https://archive.org/download/reportofkingdomo00lope/reportofkingdomo00lope_djvu.xml (訳文は当サイトの試訳)[25] “Regnvm Congo hoc est Vera descriptio regni Africani…” (1624年第二ラテン語版), Internet Archive metadata / John Carter Brown Library. https://archive.org/metadata/regnvmcongohoces00piga_1[26] “Regnum Congo, hoc est : Vera descriptio regni africani…” (1624年版所蔵記録), BnF catalogue général. https://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb30832080b (訳文は当サイトの試訳)[27] A Report of the Kingdom of Congo, trans. Margarite Hutchinson (London: John Murray, 1881), 書誌ノート”Bibliographical note upon the 16th century editions of Pigafetta”. Internet Archive metadata. https://archive.org/metadata/reportofkingdomo00lope[28] A Report of the Kingdom of Congo, trans. Margarite Hutchinson (London: John Murray, 1881), 本文. Internet Archive (OCR full text). https://archive.org/download/reportofkingdomo00lope/reportofkingdomo00lope_djvu.txt (訳文は当サイトの試訳)[29] “In Roma : appreso Bartolomeo Grassi” (1591年イタリア語初版の刊記), Internet Archive metadata (識別子 ARes04525, Biblioteca Universitaria de Sevilla). https://archive.org/metadata/ARes04525[30] “date: 1591” (同上、date 欄). Internet Archive metadata (識別子 ARes04525). https://archive.org/metadata/ARes04525[31] “Gedruckt zu Franckfort am Mayn, : Durch Johann Saur, in Verlegung Hans Dietherich vnd Hans Israel von Bry,” (1597年ドイツ語版の刊記), Internet Archive metadata (識別子 regnvmcongohoces00piga, John Carter Brown Library). https://archive.org/metadata/regnvmcongohoces00piga[32] “date: 1597” / “Imprint 1597” (同上、date 欄・subject 欄). Internet Archive metadata (識別子 regnvmcongohoces00piga). https://archive.org/metadata/regnvmcongohoces00piga

