実在の文献 — THE ZOHAR

ゾーハル

13世紀のスペインで現れた、アラム語による分厚いユダヤ神秘主義の書。2世紀のシメオン・ベン・ヨハイに仮託されているが、書いたのはモーゼス・デ・レオンだというのが近代以降の学説。「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」で、ジョゼフ・カーウェンの蔵書のひとつとして実名で挙げられている。その同じ書棚で、ネクロノミコンは別の書名を騙って隠れている。

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概要

『ゾーハル(Sefer ha-zohar、光輝の書)』は、13世紀のスペインで現れた、大部分がアラム語で書かれたユダヤ神秘主義=カバラの古典です[2]。

この書名は、原典の中に出てきます。「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」(1927年1月〜3月1日執筆)で、ジョゼフ・カーウェンの蔵書のひとつとして挙げられています[1]。

当サイトはこれまでに金枝篇、西欧の魔女崇拝、ソロモンの鍵を扱ってきました。いずれも、ラヴクラフトが作中で名指しした実在の本です。ゾーハルもその列に加わります。

ただしこの本には、直前に公開したジャーンの書とよく似た事情がひとつ付いています。著者をめぐる話です。

原典のどこに出てくるか

商人メリットが、カーウェンの農場を訪ねる場面です。前の部屋に置かれた奇術・錬金術・神学の特別な書棚を見せられ、その書名だけで生涯消えない嫌悪を覚えたと語られます[1]。

Hermes Trismegistus in Mesnard’s edition, the Turba Philosophorum, Geber’s Liber Investigationis, and Artephius’ Key of Wisdom all were there; with the cabbalistic Zohar, Peter Jammy’s set of Albertus Magnus, Raymond Lully’s Ars Magna et Ultima in Zetzner’s edition, Roger Bacon’s Thesaurus Chemicus, Fludd’s Clavis Alchimiae, and Trithemius’ De Lapide Philosophico crowding them close.(訳: メナールの版のヘルメス・トリスメギストス、『哲学者たちの群集』、ゲーベルの『探究の書』、アルテフィウスの『知恵の鍵』がそこにあり、カバラのゾーハル、ペーター・ヤミー編のアルベルトゥス・マグヌス集成、ツェッツナーの版のライムンドゥス・ルルス『大いなる究極の術』、ロジャー・ベーコンの『化学宝典』、フラッドの『錬金術の鍵』、トリテミウスの『賢者の石について』が、それらを押しのけるように並んでいた)[1]

書名を版元や編者つきで並べる、この目録じみた書き方に注目してください。ここに挙がっているのは実在の本ばかりです。 ゾーハルも、ヘルメス文書も、アルベルトゥス・マグヌスも、ライムンドゥス・ルルスも、ロバート・フラッドも、トリテミウスも、どれも書誌の取れる書物です。

実在の本の列に、ネクロノミコンが紛れている

そのすぐあとに、この場面のしかけが置かれています。

Mr. Merritt turned pale when, upon taking down a fine volume conspicuously labelled as the Qanoon-e-Islam, he found it was in truth the forbidden Necronomicon of the mad Arab Abdul Alhazred(訳: メリット氏は蒼白になった。『カヌーン・エ・イスラム』とはっきり題された立派な一巻を取り出してみると、それが実は、狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドの禁断のネクロノミコンだったからである)[1]

ネクロノミコンは、実在する書名を騙って書棚に紛れ込んでいます。実在の本の列そのものが、隠れ蓑になっているわけです。

ここが金枝篇の場合との違いです。「クトゥルフの呼び声」では、実在の学術書の隣に架空の教団を置いて、教団に手触りを与えていました。こちらでは、実在のオカルト書を何冊も積み上げたうえで、その中の一冊が偽装だったと明かします。読者は、他の書名も疑い直すことになります。

ゾーハルは、その積み上げの一冊です。書棚を本物らしく見せる役目を負っています。

どういう本なのか

ブリタニカ百科事典の記述によれば、ゾーハルは13世紀の書物で、大部分はアラム語で書かれています。カバラの古典であり、多くのカバリストがこの本に、通常はトーラーとタルムードにしか与えられない聖性を認めてきました[2]。

いちばん大きな部分が扱うのは、聖書本文の「内なる」意味、つまり神秘的・象徴的な意味です。対象は主にモーセ五書で、そのほかにルツ記と雅歌。長い説教のあいだに短い談話や譬え話が挟まり、そのすべてが2世紀のシメオン・ベン・ヨハイと弟子たちを中心に展開していきます[2]。

繰り返し戻ってくる主題は創造の神秘です。そこから、神の10の流出——セフィロト、文字どおりには「数」——をめぐる長い議論が続きます。悪の問題、そして祈りと善行の宇宙的な意味も、この本の大きな柱になっています[2]。

1492年のスペイン追放のあと、ユダヤ人はメシアと終末論への関心を強め、神秘的な思索の導きとしてゾーハルへ向かいました。この本が最も広く読まれたのは、書かれてから数世紀のちのことだったわけです[2]。

著者をめぐる話が、ジャーンの書とよく似ている

本文はシメオン・ベン・ヨハイを著者としていますが、近代以降の研究者は、主要部分の著者をスペインのモーゼス・デ・レオン(1250-1305)と見ています[2]。より古い神秘主義の素材が取り込まれた可能性までは否定されていません[2]。

この判定に至る経緯が、この記事で書いておきたい部分です。ブリタニカのモーゼス・デ・レオンの項目によると、彼はバリャドリードへの旅の途上でパレスチナのカバリスト、アッコのイサク・ベン・サムエルと会っています[3]。そこでデ・レオンは、何世紀も昔のゾーハルの原写本を自分が所持していると打ち明けました。1280年代から出回っていた写しは、そこから採ったのだと[3]。彼はその原本をアヴィラの自宅で見せると約束します[3]。

Unfortunately, Moses died before he could fulfill his promise, and Isaac subsequently heard rumors that Moses’ wife had denied the existence of this manuscript, claiming rather that Moses himself was the author of the Zohar.(訳: 不幸にも、モーゼスは約束を果たす前に死んだ。そしてイサクはのちに、モーゼスの妻がその写本の存在を否定し、むしろモーゼス自身がゾーハルの著者だと述べたという噂を聞いた)[3]

古い写本を持っていると言い、外部へ示す前に死んだ。 ジャーンの書のブラヴァツキーが、椰子の葉の写本を目の前に置いていると書きながら現物を出さなかったのと、同じ形です[3]。600年隔てて、同じ手続きが繰り返されています。

決着をつけたのは20世紀の研究でした。ゲルショム・ショーレムは、ゾーハルのアラム語が語彙にも語法にも、母語をヘブライ語とする書き手の手つきを示していることを立証し、デ・レオンのヘブライ語著作と突き合わせて著者を特定しています[3]。ただしブリタニカは、伝統的な研究者の多くはいまもシメオン・ベン・ヨハイを著者とみなしているとも書き添えています[3]。

1887年の英訳と、その訳者

では、1927年にラヴクラフトが書いたとき、英語圏の読者はゾーハルをどう読めたのか。

S・L・マグレガー・メイザースによる『カバラ・アンヴェイルド(The Kabbalah Unveiled)』が、1887年にロンドンのジョージ・レッドウェイから出ています。収めているのはゾーハルのうち「秘匿の神秘の書」「大いなる聖なる集会」「小いなる聖なる集会」の3篇。序文でメイザース自身が、これはゾーハルの重要な3書の最初の英訳だと書いています[4]。

底本はクリスティアン・クノール・フォン・ローゼンロート(1636-1689)のラテン語版『カバラ・デヌダタ』でした。メイザースはそれを原典のカルデア語・ヘブライ語本文と突き合わせたと説明しています[4]。原文の言語について、彼はこう書いています。

The dialect in which the original is written is Aramaic Chaldee, interspersed with Hebrew quotations, and the style is difficult and obscure.(訳: 原典が書かれている方言はアラム=カルデア語で、ヘブライ語の引用が混じっており、文体は難解かつ晦渋である)[4]

訳者の名に見覚えがあるはずです。メイザースは、当サイトがソロモンの鍵の記事で扱った人物と同じです。彼はゾーハルの英訳を1887年に出し、その翌1888年に『ソロモンの鍵』の英訳を出し、黄金の夜明け団の創設者になりました。

ラヴクラフトが評論で名指しした「ソロモンの小さき鍵」と、カーウェンの書棚に置かれたゾーハル。英語圏でこの2冊を読める形にしたのは、同じ一人の人物です。 カーウェンの蔵書目録が実在の本の並びとして成立するのも、19世紀末のこうした翻訳の仕事があってのことでした。

もう一箇所、カバラが出てくる作品

書名そのものではありませんが、カバラへの言及はもう1作にあります。「レッド・フックの恐怖」(1925年8月1〜2日執筆)です[5]。

刑事マローンは、事件の主となるロバート・スイダムについて、間接的に評判を聞いていました。

a really profound authority on mediaeval superstition, and had once idly meant to look up an out-of-print pamphlet of his on the Kabbalah and the Faustus legend(訳: 中世の迷信に関する実に深い権威であり、カバラとファウスト伝説についての彼の絶版の小冊子を、いつか調べてみようと漠然と思っていた)[5]

架空の人物が書いた、カバラについての学術的な小冊子。ここでもカバラは、登場人物に学者としての格を与える道具として使われています。1925年のこの作品と、1927年のカーウェンの書棚は、同じ用法でつながっています。

ラヴクラフトはこの本をどう使ったか

カーウェンの書棚には、二つの働きがあります。

ひとつは年代です。並んでいるのはヘルメス文書、アルベルトゥス・マグヌス、ライムンドゥス・ルルス、ロジャー・ベーコン、フラッド、トリテミウス、そしてゾーハル[1]。中世からルネサンスにかけての実在の名前が続きます。18世紀のプロヴィデンスに住む男が、これだけの本を集めている——それだけで、彼が普通の商人でないことが伝わります。

もうひとつは、すでに書いた偽装です。実在の本ばかりの列に、書名を偽ったネクロノミコンが一冊だけ混ざっていました[1]。実在の本が多いほど、その一冊は見つけにくくなります。

ゾーハルは、この二つのどちらにも効いています。カバラの古典として年代を作り、同時に隠れ蓑の一部にもなっている。ネクロノミコンは実在するのかという問いが100年経っても消えないのは、こういう置き方の積み重ねによります。

書物どうしの距離という点では、ジャーンの書と対になります。あちらは架空の魔道書の列に置かれた実在(と主張される)の本でした。こちらは実在の本の列に置かれた実在の本で、そこへ架空の一冊が忍び込んでいます。向きは違いますが、狙っているのは同じ効果です。

三層のどこに属するか

神話の三層で見ると、こうなります。

原典層(1917-1937) — 「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」(1927年1月〜3月1日執筆)にゾーハルの書名[1]、「レッド・フックの恐怖」(1925年8月1〜2日執筆)にカバラへの言及[5]。いずれもラヴクラフト単独の作品です。どちらも名前を出すだけで、神話的な設定は与えていません。

ダーレス以降の拡張層(1939-) — 当サイトでは未確認です。資料に当たっていないので、ここは空欄のままにします。

TRPG層(1981-) — Chaosiumが公開している『クトゥルフ神話TRPG』第7版キーパー・ルールブックの公式索引に “The Zohar 236” として載っています[6]。この索引は「Mythos Tomes(神話の魔導書)」と「Occult Books(オカルト書)」を別の見出しで立てていて、ゾーハルの236頁は、金枝篇、ソロモンの鍵、易経、『魔女の鉄槌』、『ヴェールを剥がされたイシス』と同じ236頁です[6]。一方、ジャーンの書は226頁で、ネクロノミコン(230頁)やエイボンの書(226頁)と同じ範囲に入ります[6]。

ゲームの側は、ゾーハルを実在のオカルト書のほうへ整理しました。 ジャーンの書とは反対側に置かれています。ラヴクラフトがカーウェンの書棚で作った区別が、そのまま残った形です。

なお当サイトは、この記事に `shinen_arc_canon_layer` を設定していません。ゾーハルは神話の中で生まれた魔道書ではなく、13世紀から実在する書物だからです。金枝篇・魔女崇拝・ソロモンの鍵の各記事と同じ扱いにしてあります。

出典

  • [1] H. P. Lovecraft “The Case of Charles Dexter Ward”(1927年1月〜3月1日執筆)。カーウェンの蔵書の記述、ゾーハルの書名、『カヌーン・エ・イスラム』を騙るネクロノミコンの引用、および執筆時期は、公式アーカイブの公開テキストと同サイトの小説年表によるhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/cdw.aspx
  • [2] “Sefer ha-zohar”, Encyclopaedia Britannica(2026年9月3日確認)。13世紀・アラム語という成立、トーラーとタルムードに準じる聖性、内容の構成、セフィロト、1492年以降の受容は同項目によるhttps://www.britannica.com/topic/Sefer-ha-zohar
  • [3] “Moses de León”, Encyclopaedia Britannica(2026年9月3日確認)。生没年、アッコのイサク・ベン・サムエルとの逸話と引用、ゲルショム・ショーレムによる著者特定、伝統的研究者の立場は同項目による https://www.britannica.com/biography/Moses-de-Leon
  • [4] S. L. MacGregor Mathers “The Kabbalah Unveiled, containing the following books of theZohar”(London: George Redway、1887年)。書誌・収録3篇・序文の引用は、Internet Archive で公開されている Wellcome Library 所蔵本のスキャン(識別子 b24884443、2026年9月3日確認)によるhttps://archive.org/details/b24884443
  • [5] H. P. Lovecraft “The Horror at Red Hook”(1925年8月1〜2日執筆)。スイダムの小冊子への言及と執筆時期は、公式アーカイブの公開テキストと同サイトの小説年表によるhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/hrh.aspx
  • [6] Chaosium “Call of Cthulhu 7th Edition Index for Keepers and Investigators”(版元公式の無償配布PDF、2026年9月3日取得)。”The Zohar 236” の掲載、索引が Mythos Tomes と Occult Books の見出しを分けていること、および各書名に付された頁番号は、同PDFによるhttps://www.chaosium.com/content/FreePDFs/CoC%207/Call%20of%20Cthulhu%207th%20Edition%20Index%20for%20Keepers%20and%20Investigators.pdf
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