概要
イングランドの寒村アンチェスターから3マイル西の断崖上に建つ、語り手ド・ラ・ポア家の先祖伝来の館[1]。ゴシック様式の塔がサクソンあるいはロマネスク様式の下部構造の上に載り、さらにその基礎はローマ、あるいは伝承が正しければドルイド以前の土着様式にまで遡るという、幾重にも重なった複合建築として描かれる[2]。
原典での描写
建物の来歴と重層する建築
「壁のなかの鼠」において、追放された三男の後日談は、名前とともに記される。「ウォルター・ド・ラ・ポア、第十一代エクサム男爵はヴァージニアへ逃れ、そこで一族を興した。その一族は次の世紀までにディラポアの名で知られるようになった」[7]。
無人となった館は、階層によって評価が割れる対象になっていく。「建築家や好古家たちはこの忘れられた時代の奇怪な遺物を喜んで調べたが、田舎の人々はそれを憎んでいた」[8]。学術的関心と土地の忌避感の落差が、館の由緒に影を落としている。
再建と館の内部
買い取りの経緯にも語りがある。息子アルフレッドが1917年に英国で航空士官として過ごした際、一族の伝承を書き送ったことが語り手の関心を大西洋の彼方へ向けさせ、1918年の購入につながった。息子の死後しばらく放置されていた再建計画は、1921年に動き出す。「1921年、私は喪失感を抱え目的を見失った、もはや若くはない引退した実業家として、残りの歳月をこの新たな所有物へ振り向ける決意を固めた」[9]。
ノリス大尉の案内で初めて対面した館の姿は、感情を排して記される。「エクサム・プライオリそのものを、私は何の感慨もなく眺めた——苔と黴に覆われ、ミヤマガラスの巣で穴だらけになった、崩れかけの中世廃墟の寄せ集めが、断崖の上に危うく載り、別々の塔の石壁を残すのみで床も内部の設備も失われていた」[10]。
莫大な費用を投じた修復は、この姿を一変させた。「中世のあらゆる特徴が巧みに再現され、新しく加えられた部分は元の壁や基礎と完全に調和していた」。使用人7人、猫9匹を伴い、語り手が入居したのは1923年7月16日である[11]。
地下の祭室と大洞窟
ノリスが集めた土地の伝承と、廃墟を調べた学者たちの記録を突き合わせた末に、語り手はひとつの推測に達する。「私は、エクサム・プライオリが先史時代の祭祀場——ドルイド教あるいはそれ以前の、ストーンヘンジと同時代のものと思われる何か——の跡地に建っていると推測した。得体の知れない儀式がそこで執り行われていたことを疑う者はほとんどいなかった」[12]。
土地の言い伝えには、もっと具体的なものもあった。「毎夜この館で、蝙蝠の翼を持つ悪魔の一団が魔女の夜宴を開くという言い伝えもあった」。村人たちが館を悪鬼と人狼の巣窟同然に見なしていたことも、こうした言い伝えと地続きに記されている[13]。
結末の館
物語の語り手は、館の解体を現在形に近い時制で報告する。「そしてこの週、労働者たちはエクサム・プライオリを爆破し、その基礎の痕跡を消し去る作業に追われている」[14]。
地下での出来事の後、語り手が見出された時の姿も原文にある。「彼らは私を、暗闇の中でノリス大尉の丸々とした半ば食われた死体の上にうずくまり、自分の猫に喉を引っかかれ噛みつかれている姿で見つけた」。語り手自身はこの死について、鼠の仕業だったのだと訴え続けている[15]。
基本プロフィール
- 分類: 地名
- 欧文表記: EXHAM PRIORY
- 初出・出典: 「壁のなかの鼠」(1923年8月〜9月執筆、Weird Tales誌1924年3月号発表)
- 地理設定: イングランド、寒村アンチェスターから3マイル西の断崖上
由来・モデル
「アンチェスター(Anchester)」は、ラヴクラフト研究(S・T・ヨシの注釈等)において、実在するリンカンシャー州の村アンカスター(Ancaster、ローマ帝国期の遺跡で知られる)の軽い変名(もじり)とされる通説がある。物語内の3マイル西という距離設定はあくまで作中の記述であり、実在のアンカスター周辺に文字通り対応する断崖・館が存在するわけではないが、「ローマ以前の遺構の上にローマ、さらにその上に中世以降の建築が積み重なる」というイングランドの実際の考古学的層序(実在のアンカスターもローマ期の要塞遺跡として知られる)を下敷きにした地名選定と考えられる。
歴史・年表
- 館の複合建築は、ゴシック様式の塔がサクソンあるいはロマネスク様式の下部構造の上に載り、その基礎はローマ、あるいはドルイド以前の土着様式にまで遡るとされる[2]
- ジェイムズ1世の治世(17世紀初頭)、当主とその子5人、複数の使用人を巻き込んだ凄惨で謎めいた惨劇により館は見捨てられる[3]。三男(語り手の直系の祖先)のみが疑惑の中で追放され、生き延びたとされる
- その後長らく無人のまま放置され、ノリス家の所領に組み込まれつつも、特異な複合建築ゆえに建築家や好古家の研究対象となる一方、地元の人々には忌み嫌われ続けた
- 1918年、語り手(アメリカに渡っていたド・ラ・ポア家の末裔)が館を買い取る
- 1923年7月16日、修復を終えた語り手が入居する。猫の異常な行動や壁の内側から聞こえる無数の鼠のような物音をきっかけに、語り手は館の地下に眠る一族の秘密に直面していく
- 地下探索の末、語り手たちは「果てしなく続くかに見える、太古からの薄明かりの洞窟」[4]に至り、そこに家畜のように囲われ人肉食の対象として飼育されていた人間じみた四足生物の群れの痕跡を発見する[5][6]
- 物語の結末部、館は語り手自身の手で爆破され、その痕跡は消し去られる
性質・特徴
幾重にも積み重なった建築様式そのものが、地層のように隠された一族の忌まわしい歴史の比喩として機能しており、「壁のなかの鼠」における退行的恐怖(遺伝・血統に潜む狂気)というラヴクラフト作品の主題を体現する舞台である。地上の館の由緒ある佇まいと、地下に眠る太古の獣的な行為の痕跡との落差が、物語全体の恐怖の核心を成している。
関連する人物・存在・出来事
語り手ド・ラ・ポア家、ジェイムズ1世治世の惨劇の犠牲者たち、館を研究対象とした建築家・好古家たちと結びつく。「壁のなかの鼠」単独の舞台であり、他の神話作品との直接的な地理的接続は原典に見られない。
主要登場作と読みどころ
- 「壁のなかの鼠」(1923年執筆/1924年発表): 唯一の登場作。地上の由緒ある館の描写から始まり、壁の中を這う鼠の物音、猫たちの異常な反応を経て、地下の巨大な空洞と人肉食の痕跡へと至る段階的な恐怖の展開が読みどころ。語り手自身が最終的に正気を失い先祖返りのような振る舞いを見せる結末は、血統・遺伝への恐怖というテーマを凝縮している。
よくある誤解・設定の食い違い
Q. アンチェスターは実在するイングランドの村ですか?A. 作中の「アンチェスター」自体は架空の地名です。ただし研究者の間では、実在するリンカンシャー州の村アンカスター(Ancaster)の軽い変名だとする通説があります。
Q. 館の地下で発見されたのは何の生物ですか?A. 原典では明確な種の同定はされておらず、「人間じみた四足の生物」として描かれます。語り手は、これらが石の囲いの中で飼育され、家畜のように扱われていたことを示す証拠(粗野な野菜で肥育された痕跡等)を発見しますが、その正体そのものについては多くを語らないまま、読者の想像に委ねる形で終わります。
出典
- [1] “perched perilously upon a precipice, and…overlooked a desolate valley three miles west of the village of Anchester”(訳: 「断崖に危うく乗るように建ち、アンチェスター村から3マイル西の荒涼とした谷を見下ろしていた」) — H. P. Lovecraft, “The Rats in the Walls”(1923年執筆/1924年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “Gothic towers resting on a Saxon or Romanesque substructure, whose foundation in turn was of a still earlier order…—Roman, and even Druidic or native Cymric”(訳: 「ゴシック様式の塔がサクソンあるいはロマネスク様式の下部構造の上に載り、その基礎はさらに古い様式——ローマ、あるいはドルイド以前の土着ケルト様式にまで遡る」) — 同上 ↩
- [3] “The place had not been inhabited since the reign of James the First, when a tragedy of intensely hideous…nature had struck down the master, five of his children, and several servants”(訳: 「この館はジェイムズ1世の治世以来無人であった。その治世に、極めて忌まわしい性質の惨劇が当主とその子5人、複数の使用人を襲ったのである」) — 同上 ↩
- [4] “It was a twilit grotto of enormous height, stretching away farther than any eye could see; a subterraneous world of limitless mystery and horrible suggestion”(訳: 「それは巨大な高さを持つ薄明かりの洞窟で、いかなる目も見通せぬほど遠くまで広がっていた——限りない神秘とおぞましい示唆に満ちた地下世界であった」) — 同上 ↩
- [5] “The quadruped things…had been kept in stone pens, out of which they must have broken in their last delirium of hunger or rat-fear. There had been great herds of them”(訳: 「四足の生物たちは……石の囲いの中に飼われており、飢えあるいは鼠への恐怖の末の錯乱でそこから脱走したに違いない。かつては大きな群れがいたのだ」) — 同上 ↩
- [6] “The purpose of the herds I did not have to ask.”(訳: 「その群れが何のためであったか、私はあえて問う必要もなかった」) — 同上 ↩
- [7] “Walter de la Poer, eleventh Baron Exham, fled to Virginia and there founded the family which by the next century had become known as Delapore.”(訳: 「ウォルター・ド・ラ・ポア、第十一代エクサム男爵はヴァージニアへ逃れ、そこで一族を興した。その一族は次の世紀までにディラポアの名で知られるようになった」) — 同上 ↩
- [8] “Architects and antiquarians loved to examine this strange relic of forgotten centuries, but the country folk hated it.”(訳: 「建築家や好古家たちはこの忘れられた時代の奇怪な遺物を喜んで調べたが、田舎の人々はそれを憎んでいた」) — 同上 ↩
- [9] “In 1921, as I found myself bereaved and aimless, a retired manufacturer no longer young, I resolved to divert my remaining years with my new possession.”(訳: 「1921年、私は喪失感を抱え目的を見失った、もはや若くはない引退した実業家として、残りの歳月をこの新たな所有物へ振り向ける決意を固めた」) — 同上 ↩
- [10] “Exham Priory itself I saw without emotion, a jumble of tottering mediaeval ruins covered with lichens and honeycombed with rooks’ nests, perched perilously upon a precipice, and denuded of floors or other interior features save the stone walls of the separate towers.”(訳: 「エクサム・プライオリそのものを、私は何の感慨もなく眺めた——苔と黴に覆われ、ミヤマガラスの巣で穴だらけになった、崩れかけの中世廃墟の寄せ集めが、断崖の上に危うく載り、別々の塔の石壁を残すのみで床も内部の設備も失われていた」) — 同上 ↩
- [11] “Every attribute of the Middle Ages was cunningly reproduced, and the new parts blended perfectly with the original walls and foundations.”(訳: 「中世のあらゆる特徴が巧みに再現され、新しく加えられた部分は元の壁や基礎と完全に調和していた」) — 同上 ↩
- [12] “I deduced that Exham Priory stood on the site of a prehistoric temple; a Druidical or ante-Druidical thing which must have been contemporary with Stonehenge. That indescribable rites had been celebrated there, few doubted”(訳: 「私は、エクサム・プライオリが先史時代の祭祀場——ドルイド教あるいはそれ以前の、ストーンヘンジと同時代のものと思われる何か——の跡地に建っていると推測した。得体の知れない儀式がそこで執り行われていたことを疑う者はほとんどいなかった」) — 同上 ↩
- [13] “there was the belief that a legion of bat-winged devils kept Witches’ Sabbath each night at the priory”(訳: 「毎夜この館で、蝙蝠の翼を持つ悪魔の一団が魔女の夜宴を開くという言い伝えもあった」) — 同上 ↩
- [14] “And this week workmen have blown up Exham Priory, and are busy obliterating the traces of its foundations.”(訳: 「そしてこの週、労働者たちはエクサム・プライオリを爆破し、その基礎の痕跡を消し去る作業に追われている」) — 同上 ↩
- [15] “found me crouching in the blackness over the plump, half-eaten body of Capt. Norrys, with my own cat leaping and tearing at my throat.”(訳: 「彼らは私を、暗闇の中でノリス大尉の丸々とした半ば食われた死体の上にうずくまり、自分の猫に喉を引っかかれ噛みつかれている姿で見つけた」) — 同上 ↩


