概要
ブライアン・ユズナは、1949年8月30日にフィリピン・マニラで、アメリカ人の両親のもとに生まれたとされる映画製作者・監督・脚本家です。幼少期をニカラグア、プエルトリコ、パナマで過ごし、1960年代にアメリカへ移り、ジョージア州アトランタに落ち着いたと伝えられています。生年月日と出生地について、当サイトは一次資料を確認していません[4]。
一方、映画人としての経歴の骨格は裏づけが取れました。映画インタビュー誌『The Flashback Files』に掲載されたロエル・ハーネンによる長編インタビューは、ユズナの歩みを「『Re-Animator』と『From Beyond』で製作者としての地歩を固め、『ソサエティ』『Bride of Re-Animator』『Return of the Living Dead III』で監督に転じ、『ネクロノミコン』『クライング・フリーマン』を企画し、低予算で『The Dentist』を撮り、最後にスペインの製作会社フィルマックスの代表を説得してバルセロナにファンタスティック・ファクトリーを立ち上げた」と要約しています[1]。以下、裏づけの取れた事項には脚注を付け、確認できていない事項はその旨を明記します。
スチュアート・ゴードンの記事で触れたとおり、ユズナは『Re-Animator』『From Beyond』の製作者であり、のちに『Dagon』実現の道を開いた人物でもあります。さらに自らも監督として、ゴードンとは異なる方向からラヴクラフト映画を作り続けました。2018年のBlu-ray版『Dagon』『Beyond Re-Animator』には、ゴードンとユズナそれぞれのインタビュー映像が収められています[3]。ゴードンが監督として原作を映像化する側だとすれば、ユズナはそれを成立させる側——資金と製作体制を作った人物です。
大工から、映画製作者へ
映画に関わる以前の経歴は、監督業とは無縁のものでした。ローマ・カトリックの家庭に育ったユズナは、1970年代をノースカロライナ州で共同生活を送りながら、大工やレストランの仕事に就いて過ごしています。映画製作とは縁遠い、地に足のついた生活を10年近く送っていたことになります。
そこから映画製作者としてのキャリアがどう始まったのか、詳しい経緯は資料によって濃淡があります。地方紙イサカ・タイムズのインタビューでユズナは、ゴードンから二つの企画——嬰児を襲う犬の話と『Re-Animator』——を持ちかけられ、後者を選んだと語っています[2]。伝えられているのは、彼の映画製作者としての最初の仕事がゴードン作品の製作だったということです。1985年の『Re-Animator』、1986年の『From Beyond』、1987年の『Dolls』——この3本すべてで製作者を務めています[4]。『From Beyond』については脚本にも名を連ねました[4]。前二作について製作者を務めた事実は、上記インタビューの紹介文でも確認できます[1]。
意外な仕事:『インナースペース』ではなく『ミクロキッズ』
ゴードンとのホラー路線の一方で、ユズナには意外な仕事もあります。1989年のファミリー映画『Honey, I Shrunk the Kids(邦題:ミクロキッズ)』にも関わっているのです。縮小したわが子を探す家族コメディと、蘇生した死体が暴れるホラー映画。振れ幅の大きい仕事ぶりが、この時期のユズナのキャリアには表れています。この関与について、当サイトは一次資料を確認していません[4]。
監督デビュー作『ソサエティ』
1989年、ユズナは監督として独り立ちします。デビュー作『ソサエティ』は、ビバリーヒルズの高校生ビルが、自分の裕福な一家が下位の社会階層を食い物にする異種族の一員だと知る、という筋書きです。もともとは、上流階級のカルト信者が生贄の儀式を行うという通常のスラッシャー映画として構想されていました。ユズナはこれを、自身の見た悪夢から着想を得た姿を変える怪物たちの物語へと作り替えたとされています。
特殊効果はスクリーミング・マッド・ジョージが担当しました。カルトの成員たちが肉体を変形させながら融合し、犠牲者を貪り食う「シャンティング(shunting)」と呼ばれる場面は、サルバドール・ダリの絵画『大自慰者』から着想を得た、映画でもっとも異様な瞬間とされています。
製作者として他人の原作(ラヴクラフト)を映像化する仕事から一転、自ら発案した社会風刺のホラーで監督デビューを飾ったことになります。1970年代に共同生活を経験した人物が、80年代末に「富裕層の共同体」を主題にした作品で監督デビューする——この符合は、偶然にしても興味深いものです。
ヨーロッパでは称賛され、アメリカでは黙殺された
『ソサエティ』は1989年5月のカンヌ映画祭で上映されましたが、アメリカでの劇場公開はそこから3年遅れて1992年2月まで持ち越されました。
公開当時のアメリカでの評価は分かれています。『Variety』誌は「気取っていて不快」と評し、一方で『ロサンゼルス・タイムズ』のマイケル・ウィルミントンは、結末を「観客は決して忘れないだろう」と書きました。この落差についてユズナ自身は、「ヨーロッパの観客のほうが、映画に含まれる考え方を受け入れる意志が強いのだと思う」と語っています。
後年の再評価は大きく好転しており、『Empire』誌は星5つ中4つを付けています。公開時と現在とで評価が入れ替わった作品の一つ、ということになります。
『Re-Animator』の花嫁
1990年には『Bride of Re-Animator』を監督・製作しました。製作者から監督への転身が、ここで明確になります。原作の初代を最初から最後まで支えた製作者が、続編では自ら演出席に座ったことになります。
物語は前作の8か月後を舞台に、ハーバート・ウェストとダン・ケインが、死体の各部位から生きた女性を作り出そうとする筋書きです。原作「ハーバート・ウェスト——死体蘇生者」の後半エピソード「影よりの恐怖」「墓標の軍勢」を下敷きにしています。
主演ジェフリー・コムズはウェスト役で続投。前作でカール・ヒル博士を演じたデヴィッド・ゲイルも、復讐に燃える生首という形で再び登場しました。スチュアート・ゴードンの記事、そしてドキュメンタリー『Lovecraft: When the Stars are Right』の記事で触れたとおり、ゲイルはこの翌年、1991年に世を去っています。
批評は割れました。『ニューヨーク・タイムズ』は「続編というより焼き直し」と切り捨てる一方、コムズの演技については前作を上回るとの評価もありました。演出面では、ゴードンの無秩序な生々しさとは異なり、ユズナは特殊効果を前面に押し出す、より内臓的な演出を選んだとされています——脚本の一貫性や動機づけを犠牲にした面があるという指摘も含めてです。
以後、既存シリーズの続編として『Silent Night, Deadly Night 4: Initiation』(1990年)、『Return of the Living Dead 3』(1993年)の監督を経て、1996年には『The Dentist』を発表しています。他人が始めたシリーズを引き継ぐ仕事も、この時期のユズナの経歴に含まれます。
バルセロナで興した、もう一つの製作拠点
ヨーロッパで大きな支持を集めていたユズナは、2000年代初頭、バルセロナのフィルマックス社のもとでフリオ・フェルナンデスとともにファンタスティック・ファクトリーを共同設立します。このレーベルは、多様な作り手を起用しながら、国際市場向けに中規模予算のジャンル映画(ホラー・SF・ファンタジー)を製作することを目指したものでした。
スチュアート・ゴードンの記事で見た『Dagon』の製作経緯を思い出してください。1985年から16年間停滞していたこの企画が実現したのは、ユズナがスペインを拠点とする製作会社を立ち上げてからでした。撮影地コンバッロを提案した地元の製作者フリオ・フェルナンデスは、ここで名前が一致します——ファンタスティック・ファクトリーの共同設立者その人です。
つまりユズナは、ゴードンの映画を長年支えた製作者として、最終的に自分自身が興した製作会社によって、ゴードンの長年の企画を実現させたことになります。製作者として関わり続けた25年余りの帰結が、そこにありました。
ファンタスティック・ファクトリーは、『Dagon』だけでなく、ユズナ自身が手がけた『Beyond Re-Animator』(2003年)——『Re-Animator』シリーズ3作目——の製作元にもなっています。自らが手がけた続編を、自らが興した拠点で作る。一つの製作会社が、ラヴクラフト映画の複数の系列を同時に支えていたことになります。
『Beyond Re-Animator』は、13年服役していたハーバート・ウェストが、新任の刑務所付き医師の到着をきっかけに実験を再開する、というシリーズ完結編だとされています。この3作目が実現した理由については、ホラー映画製作部門ファンタスティック・ファクトリーを立ち上げたスペインのフィルマックス社から声をかけられたことで機会が生まれたと伝えられていますが、当サイトでは一次資料を確認していません。
コムズは3作目でも同じ役を演じ続けており、1985年から2003年まで、18年にわたって同じキャラクターを演じたことになります。ゴードンが手がけた初代、ユズナが監督した2作目と3作目——同じ主人公を、監督を替えながら3本にわたって描いた製作体制の中心に、ユズナがいたことになります。
小説版『ソサエティ』
2023年後半の時点でユズナは『ソサエティ』の小説版に取り組んでいたと伝えられていますが、当サイトでは一次資料を確認していません。1989年の監督デビュー作を、30年以上を経て文字の形でも残そうとしていたことになります。
映画として発表した作品を、30年以上を経て小説という別の形式へ移し替える。自分自身が生み出した映像作品を、今度は文章の形でも語り直そうとする姿勢は、一つの物語に長く関わり続けてきたユズナのキャリア全体を象徴する仕事とも言えます。
映像化する側の、もう一つの顔
当サイトが「ラヴクラフトらしい映画とは何か」で扱ってきた問いは、多くの場合、監督の作家性に焦点を当ててきました。しかし映画が実際に世に出るには、資金を集め、製作体制を組む人間が必要です。
ユズナ自身の監督作『ソサエティ』が、カンヌでの称賛とアメリカでの3年間の黙殺という落差を経験したことも思い出しておきたいところです。作品を作ることと、それを世に届けることのあいだには、製作者としての判断だけでなく、市場という別の壁が立ちはだかります。ユズナは、その両方の側に立ち続けた人物でした。
大工として働いていた1970年代から、バルセロナに製作拠点を構えるまでの道のりです。一人の経歴の中に、これだけの振れ幅がありました。
ユズナの経歴を追うと、スチュアート・ゴードンという一人の監督の仕事が、実は製作者としてのユズナの判断に何度も支えられてきたことが見えてきます。『Re-Animator』『From Beyond』の製作から、『Dagon』を実現させたスペインの拠点まで。当サイトのドキュメンタリー『Lovecraft: When the Stars are Right』の記事で、ユズナがゴードンとともに「ラヴクラフトへの傾倒を公言してきた作り手」として名前を挙げたのも、この積み重ねを踏まえてのことでした。
もう一つの視点
映画製作者としてのユズナの仕事は、原作の作家性を映像化する仕事の裏側にあります。資金を集め、俳優を確保し、公開の場を用意する——監督のクレジットの陰に、この種の判断の積み重ねが常にありました。ゴードンが監督した3本(『Re-Animator』『From Beyond』『Dagon』)に、自身が監督した『Bride of Re-Animator』『Beyond Re-Animator』を合わせると、ユズナが製作・監督いずれかの形で名前を連ねたラヴクラフト映画は5本を数えます。『ソサエティ』のようなラヴクラフト色を持たない作品と並行して、この5本を作り続けていたことになります。
出典
- [1] Roel Haanen によるブライアン・ユズナへのインタビュー(第2部)、The Flashback Files(該当ページ)。『Re-Animator』『From Beyond』の製作者としての地歩、『ソサエティ』『Bride of Re-Animator』『Return of the Living Dead III』での監督業、『ネクロノミコン』『クライング・フリーマン』の企画、『The Dentist』の低予算での監督、スペインの製作会社フィルマックスの代表フリオ・フェルナンデスを説得してバルセロナにファンタスティック・ファクトリーを設立した経緯を確認した。設立の発端がシッチェス映画祭での『The Dentist 2』上映時の出会いであったこと、フェルナンデスがそれ以前に『ソサエティ』のスペイン配給権を買っていたこと、ファンタスティック・ファクトリーでユズナが4本を監督したこともここで確認している(2026年9月15日確認)。当サイトが確認したのは掲載されたインタビュー記事であり、発言の一次記録ではない。 ↩
- [2] Ithaca Times「Interview with Horror Filmmaker Brian Yuzna」(該当ページ)。『Re-Animator』の企画がユズナのもとへ持ち込まれた経緯についての本人談を含む地方紙のインタビュー記事。 ↩
- [3] ScreenAnarchy「Now on Blu-ray: Lovecraft Lives In DAGON & BEYOND RE-ANIMATOR From Vestron Video」(該当ページ)。『Dagon』『Beyond Re-Animator』のBlu-ray版に、スチュアート・ゴードンとブライアン・ユズナのインタビュー映像が収録されていることを確認した。 ↩
- [4] 生年月日・出生地・幼少期の居住地、『Dolls』の製作、『Honey, I Shrunk the Kids』への関与など、上記の出典で裏づけられていない経歴・作品情報。当サイトは一次資料を確認していない。確認できた時点で脚注を差し替える。 ↩



