映画 — LOVECRAFT WHEN THE STARS ARE RIGHT

Lovecraft: When the Stars are Right

1989年から90年にかけて撮影されながら35年以上未完成のまま眠っていた、ラヴクラフトについての最初のドキュメンタリー。ラヴクラフト本人と交流のあったフランク・ベルナップ・ロング、最初の伝記を書いたL・スプレイグ・ディ・キャンプ、隣家に住んでいたグレース・モーランらの映像証言が残されており、監督のショーン・マーティンが完成のためのクラウドファンディングを始めた。

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概要

映画監督ショーン・マーティン(Seán Martin)氏が、未完成のドキュメンタリー『Lovecraft: When the Stars are Right』を完成させるためのクラウドファンディングを、映像作品向けの支援サイトGreenlitで実施しています[1]。

プロジェクトページによれば、撮影は1989年から90年。制作者はこれを「H・P・ラヴクラフトについて作られた最初の映画」と説明し、35年以上のあいだ未完成のまま置かれてきたと書いています[1]。2026年8月25日の確認時点で、目標2万ポンドに対して2,595ポンド、支援者49人、残り36日です[1]。すでに90分がデジタル化済みで、残る約8時間の素材をデジタル化したうえで完成させる計画とされています[1]。

この記事で見るのは、企画の成否ではありません。そこに何が写っているのかです。

撮り直せない映像

出演者の一覧は、生没年つきで公開されています[1]。ラヴクラフトと同じ時代を生き、彼を直接知っていた人たちが並びます。

  • フランク・ベルナップ・ロング(1901〜1994) — ラヴクラフトと1921年から文通し、同じ年に会っている。もっとも親しい友人の一人
  • L・スプレイグ・ディ・キャンプ(1907〜2000) — ラヴクラフトの最初の(そして当時は唯一の)本格的な伝記の著者。1937年、ラヴクラフトが死んだ年にパルプ雑誌で書き始めた
  • グレース・モーラン(1916〜1999) — 作家・雑誌編集者で、プロヴィデンスの隣人
  • キャサリン・クルック・ディ・キャンプ(1907〜2000) — L・スプレイグ・ディ・キャンプの共著者
  • コリン・ウィルソン(1931〜2013) — 作家
  • スチュアート・ゴードン(1947〜2020) — 映画監督
  • デヴィッド・ゲイル(1936〜1991) — 俳優

制作者は、このうちラヴクラフトを実際に知っていた人々について「彼らは我々にだけカメラの前で語った。そして今では全員が亡くなっている。この証言はほかのどこにも存在しない」と書いています[1]。並んだ生没年を見れば、これは誇張ではありません。デヴィッド・ゲイルは撮影の翌年に、フランク・ベルナップ・ロングは4年後に亡くなっています。

「モデルになった男」の隣に住んでいた人

一覧の中で目を引くのがグレース・モーランです。

プロジェクトページの説明によれば、彼女はウィリアム・リピット・モーラン2世(1910〜1984)の未亡人で、その夫こそ『チャールズ・ウォードの症例』(1927年執筆、1941年初出)の主人公チャールズ・デクスター・ウォードのモデルだった、とされています。しかもラヴクラフトがこの長編を書いていた当時、彼はモーラン家の角を曲がったところに住んでいた[1]。

原典の登場人物のモデルになった人物の配偶者が、カメラの前で話している。書簡集や回想録では届かない種類の資料です。当サイトはウォードの記事を「原典の登場人物」として書いていますが、その背後にプロヴィデンスの実在の一家がいたことになります。

映画をつくった側の証言も入っている

ラヴクラフト作品を映画にした人たちへの取材も含まれます。

スチュアート・ゴードンは『Re-Animator』(1985)、『From Beyond』(1986)、『Dagon』(2001)の監督で、プロジェクトページによればロサンゼルスの編集室で取材を受けています[1]。デヴィッド・ゲイルは『Re-Animator』とその続編『Bride of Re-Animator』(1990)でヒル博士を演じた俳優です[1]。

ほかに、映画監督のブライアン・ユズナとサム・ライミ、作家・演出家のクライヴ・バーカー、作家のラムジー・キャンベル、そして研究者としてS・T・ヨシ、ピーター・キャノン、ウィル・マレー、アイリーン・マクナマラ、マーク・ミショーの各氏が挙げられています[1]。

コリン・ウィルソンの項目には、当サイトの読者に馴染みのある経緯が添えられています。ウィルソンは『The Strength to Dream』(1961)でラヴクラフトを批判的に論じ、それに対してオーガスト・ダーレスが「ならば同じ路線で小説を書いてみせろ」と挑んだ。応じて書かれたのが『精神寄生体』(1967)と『賢者の石』(1969)である、と[1]。神話の第2層を作った当人が、批判者を書き手に変えた例です。

1990年8月に、いったん止まっている

制作の経緯も公開されています。監督は17歳でラヴクラフトを読み、大学在学中にフィリップ・A・シュレフラーの『H. P. Lovecraft Companion』を通じて「ラヴクラフトが実在の土地を作品に使っている」ことを知り、それを主題にした記録映画を思い立った。卒業後、大学の友人2人と3人でアメリカへ渡り、1か月かけて撮れる相手を撮った——資金は銀行融資とクレジットカードで、監督自身が「この方法は勧めません」と書いています[1]。

33分の暫定版が、1990年8月のH・P・ラヴクラフト生誕100年記念会議で上映されました。そこで資金が尽き、企画は棚上げになった[1]。

つまりこのフィルムは、生誕100年の年に一度だけ人前に出て、次の生誕136年まで表に出てこなかったことになります。

なぜ、いま動き出したのか

監督のショーン・マーティン氏は、今月のNecronomiCon Providence 2026で登壇しています。アーミテージ・シンポジウム第5セッション「Filming the Unnameable: Adapting Cosmic Horror for the Screen」で、発表題目は「Uncanny Wallops and Weirdly Perfect Embodiments: Archive, Memory and the Self in the First Lovecraft Documentary」[2]。最初のラヴクラフト・ドキュメンタリーにおけるアーカイブ・記憶・自己、というそのままの題です。

学会でこの未完成フィルムを論じ、その直後にクラウドファンディングを始めた、という順序になります。会期は8月13〜16日、公開が始まったのは8月です。プログラム全体の分析は「2026年のNecronomiConは何を論じたか」にまとめました。あの71件のパネルと37本の研究発表が並ぶ場所は、こういう企画が動き出す場所でもあります。

土地を探しに行った映画だった

制作者の説明を読むと、この作品はいわゆる評論家が並んで語る形式ではなかったようです。

監督は、ラヴクラフトが実在の土地を作品に使っていることに関心を持ち、まずその場所を探しに行きました[1]。ニューイングランドへ飛んで車を借りて回ればいい、と考えていたが、そう簡単ではなかった——と本人が書いています。撮影中に見つけたのは、風景よりもむしろ「何十年もラヴクラフトの作品を忘却から守ってきた、熱心なファンと研究者の共同体」だった、とも[1]。

参考にした作品として挙がっているのは、ロス・マケルウィーの『Sherman’s March』とマイケル・ムーアの『Roger and Me』[1]。どちらも作り手自身が画面に入り、探しに行く過程そのものを映す種類の記録映画です。つまりこのフィルムは、ラヴクラフトを解説する映画としてではなく、ラヴクラフトの土地とファンを探して回る旅として撮られています。

1989年という時期を考えると、この設計には意味があります。当時、ラヴクラフトの読者共同体は、いまのように可視化されていませんでした。会議に集まる人、同人誌を出す人、絶版を復刻する人——その姿を撮ったフィルムは、作家の記録であると同時に、1980年代末のファンダムの記録でもあります。

1990年と2026年のあいだ

プロジェクトページは、この35年でラヴクラフトの位置がどう変わったかを短くまとめています。かつてカルト的な存在だったものが文化現象になり、彼の怪物はビデオゲームとロールプレイングゲームを動かし、映画はロジャー・コーマンからスチュアート・ゴードンまで作られ、その影は『TRUE DETECTIVE』にも『ラヴクラフトカントリー』にも、『サウスパーク』にすら落ちている。アメリカ文学の正典叢書ライブラリー・オブ・アメリカにも入った[1]。

1990年に33分版を上映した時点では、このどれもまだ起きていません。TRPG『クトゥルフの呼び声』は9年目、『Re-Animator』は5年前の映画でした。フィルムが眠っているあいだに、被写体だった作家のほうが大きくなったことになります。

当サイトが原典/ダーレス系拡張/TRPG設定という三層で神話を整理しているのも、この35年で第3層が厚くなりすぎて、原典との区別が難しくなったからです。1989年に撮られた映像は、その区別がまだ自明だった時期の記録でもあります。

書簡とは別種の資料になる

ラヴクラフト研究は、書簡を土台に積み上がってきました。本人が残した手紙は膨大で、生涯の大半がそこから再構成できます。回想録も、友人たちが後年に書いたものが残っています。

映像はそのどちらとも性質が違います。書かれたものは推敲を経ますが、カメラの前の受け答えは推敲されません。1901年生まれのフランク・ベルナップ・ロングが、80代後半になってから、60年以上前の友人について何をどう語ったか——言い淀みも含めて残っているとすれば、それ自体が独立した一次資料になります。手紙には書かなかったことが口から出ているかもしれませんし、手紙にある話が別の言葉で語り直されているかもしれません。どちらであっても、書簡と突き合わせる価値があります。

なお制作者ページ[1]は、この企画の背景として「2026年6月に “Lovecraftian” という語がオックスフォード英語辞典に収録された」とも書いています。OEDの当該項目は購読者向けのため本文を直接確認できませんでした。ここでは制作者の記述として扱います。

当サイトのフランク・ベルナップ・ロングの記事は、現時点で1,500字ほどしかありません。彼がラヴクラフトの晩年に何を見ていたかは、書簡の引用でしか書けていない状態です。映像が出てくれば、そこに本人の言葉が加わります。

完成すれば、照合すべき材料が増えます。映像の中の証言を、既存の書簡や回想録と一つずつ突き合わせる作業です。誰が何を語り、それが手紙の記述と合うのか食い違うのか——当サイトが原典の細部を扱うときと同じやり方が、そのまま使えます。ただしそれは公開後の仕事になります。

いまの時点で確かなのは、1989年に大学を出たばかりの3人が銀行融資とクレジットカードで撮ったフィルムに、もう二度と撮れないものが入っている、ということです。デジタル化が済んでいるのは90分で、残りは約8時間あります。ラヴクラフトを知る最後の世代が話している時間が、そこに含まれています。1901年生まれのロングがカメラの前に座ったのは、ラヴクラフトが死んでから52年が過ぎたあとのことです。1921年に文通を始めた相手について、彼がそこで何を話したのかは、まだ誰も見ていません。90分のデジタル化済み素材の先に、それが残っています。

出典

  • [1] Greenlit「Lovecraft: When the Stars are Right」プロジェクトページ(制作者ショーン・マーティン氏による公式説明)。撮影年、支援状況(2,595ポンド/2万ポンド、支援者49人、残り36日)、出演者の一覧と生没年、グレース・モーランと『チャールズ・ウォードの症例』の関係、1990年8月の上映、制作経緯、OEDに関する記述はいずれも同ページより(2026年8月25日確認) https://www.greenlit.com/project/lovecraftdocumentary
  • [2] NecronomiCon Providence 公式サイト “Core Programming”、アーミテージ・シンポジウム第5セッションの発表一覧(2026年8月24日取得) https://necronomicon-providence.com/core-programming

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