実在の人物(編集者・作家) — DONALD WANDREI

ドナルド・ワンドレイ

1908年生まれ、1987年没のアメリカの作家・詩人・編集者。1927年に単身ラヴクラフトを訪ねて親交を結び、いったんは拒絶された「クトゥルフの呼び声」の掲載をファーンズワース・ライトに翻意させた当人。ラヴクラフトの死後、オーガスト・ダーレスとともにアーカム・ハウスを興し、その作品を単行本の形で残した。1984年、世界幻想文学大賞の生涯功労賞を、トロフィーの造形を理由に受け取らなかった。

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ドナルド・ワンドレイ
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概要

ドナルド・アルバート・ワンドレイは、1908年4月20日にミネソタ州セントポールに生まれ、1987年10月15日に同州メンドータハイツで79歳で没したアメリカの作家・詩人・編集者です[1]。

ファーンズワース・ライトの記事で触れたとおり、彼は「クトゥルフの呼び声」の掲載をめぐる経緯に登場する人物です。しかし彼の役割はそれだけにとどまりません。ラヴクラフトの死後、その作品を単行本として世に残す仕事の共同創業者でもありました。

ミネソタ大学と、16歳で書いた短編

ワンドレイはセントポールのセントラル高校を1921年から24年まで通い、1928年にミネソタ大学を英文学の学士号で卒業したとされます[2]。在学中は学生新聞『ミネソタ・デイリー』の学生編集者、定期コラム担当を務めたと伝えられています[2](この節の学歴・年齢の詳細は当サイトでは一次資料を確認できていません)。

短編「赤い脳(The Red Brain)」を書き上げたのは16歳のときだとされています[2]。作家としての活動は1926年に始まり、1932年ごろから本格化しました。1928年、20歳で最初の詩集『Ecstasy & Other Poems』を出しています[2]。

『ウィアード・テイルズ』誌には生涯で14本の短編を発表し、『アスタウンディング・ストーリーズ』誌にも16本を寄稿しました。ほかに『エスクァイア』誌などにも作品があります[1]。

ヒッチハイクで訪ねた、1927年の秋

1927年後半、ワンドレイはミネソタからロードアイランドまでヒッチハイクでラヴクラフトを訪ねたとされています[2]。ラヴクラフトが同年11月24日付でワンドレイに宛てた手紙を書いていたことは、公式アーカイブ掲載の資料で確認できます[2]。ラヴクラフトは彼をプロヴィデンス、ボストン、セイラム、マーブルヘッドへの古物趣味の旅に連れ回したと伝えられています[2]。

とりわけ記録に残っているとされるのが、ロードアイランド州ウォーレンでの出来事です。2人はマックスフィールズ・アイスクリーム店で28種類ものフレーバーを試食したという逸話が伝わっていますが、当サイトでは一次資料を確認できていません[2]。

拒絶をひっくり返した男

「クトゥルフの呼び声」は、ファーンズワース・ライトに「不明瞭すぎる」として一度拒絶されました。公式アーカイブが紹介するヒッポキャンパス・プレスの書簡集は、この経緯を「[ワンドレイが]『ウィアード・テイルズ』のファーンズワース・ライトを説得し、ラヴクラフトの記念碑的な物語『クトゥルフの呼び声』を受理させた」と記しています[3]。

書き手一人の力では、この小説は世に出なかったかもしれません。編集者を説得する友人という役回りを、ワンドレイが担っていました。

遺稿を、雑誌の1号ぶんで終わらせない

1937年3月にラヴクラフトが没したあと、ワンドレイとオーガスト・ダーレスは、友人が遺した怪奇小説の傑作選をハードカバーの記念本として出そうと動いたとされます[4]。複数の大手出版社へ持ち込んだものの、興味を示す版元は現れなかったと伝えられています[4]。

版元が見つからないなら、自分たちで作るしかない。2人はそう判断し、1939年にアーカム・ハウスを興しました。ウィスコンシン州ソーク・シティで設立されたこの出版社の目的は、パルプ雑誌にしか載っていなかったラヴクラフトの作品をハードカバーで残すことにあったとされますが、設立の目的や持ち込みの経緯そのものについて、当サイトでは一次資料を確認できていません[4]。

大手出版社が誰一人として乗らなかったとされる企画を、2人が自分たちの手で成立させた——この経緯を知ってからアーカム・ハウスの書棚を眺めると、一冊一冊の重みが変わって見えます。

ワンドレイの考えは、ダーレスよりもさらに徹底していたと伝えられています。小説だけを集めるのでは足りない。書簡を含め、すべての仕事がいずれ集められ、出版されるべきだ——これが彼の立場だったとされていますが、当サイトでは一次資料を確認できていません[4]。実際、彼はダーレスとともに『ラヴクラフト書簡選集』全3巻を編纂しています[1]。書簡もまた小説と同じ資格で保存され、読まれるべきだという考えが、そこに表れています。

拒絶から掲載まで

年表として並べておきます。「クトゥルフの呼び声」の執筆は1926年の夏[5]。ワンドレイがヒッチハイクでプロヴィデンスを訪れ、ラヴクラフトと親交を深めたのは1927年後半[2]。小説が『ウィアード・テイルズ』誌に実際に載ったのは1928年2月です[5]。拒絶が正確にいつ起きたのかは、当サイトが確認できた資料からは特定できませんでした。

執筆から掲載まで1年半近くが経っています。その間のどこかで、ライトの拒絶とワンドレイの説得の両方が起きたことになります。ワンドレイとラヴクラフトの交友が1927年後半に生まれていたことを踏まえると、説得という行動は、その交友を土台にして初めて起きえたものだったと考えられます。友人としての関係が先になければ、説得そのものが成立しなかったかもしれません。神話の第1層(原典)がいまの形で残っているのは、書き手の筆力だけでなく、こうした個人的な交友関係にも支えられていたことになります。

大戦を挟んで、書き手から退く

ワンドレイはアーカム・ハウス設立からわずか3年後の1942年に第二次世界大戦へ召集され、足かけ4年、パットン将軍麾下の第3軍で技術軍曹として従軍したと伝えられています。ラインラント方面戦役と中央ヨーロッパ方面戦役、ドイツからオーストリアへの最終進撃にも加わったとされていますが、従軍の詳細について当サイトでは一次資料を確認できていません[2]。

軍務は執筆の時間をほとんど奪ったとされ、戦後、彼の新作の発表数は大きく落ち込んだと伝えられています[2]。アーカム・ハウスの創業者でありながら、戦後は経営から退き、新しい小説を書くこともほぼなくなりました。未発表の原稿は死後になって、ようやくまとまった形で世に出ています[1]。

代表作とされるのは1948年の長編『イースター島の蜘蛛の巣(The Web of Easter Island)』で、彼の最高到達点と評されています[1]。死後には『Colossus: The Collected Science Fiction』と『Don’t Dream: The Collected Horror and Fantasy』の2冊が1989年に編まれました[1]。

ダーレスの死後、経営には戻らなかった

1971年にダーレスが没したあと、ワンドレイは一時的に編集主幹を務めましたが、恒久的に経営へ関わることは拒んだと伝えられています。1939年の共同設立から32年、名目上の創業者でありながら実務からは退いていた関係が、そこで完全に終わったことになりますが、この経緯について当サイトでは一次資料を確認できていません[2]。

胸像を理由に、生涯功労賞を辞退した

もっとも象徴的なのが、最晩年の一件です。1984年、ワンドレイは世界幻想文学大賞の生涯功労賞を受けたとされます。しかし彼はこの賞を受け取らなかったと伝えられています。理由は、その賞のトロフィーがラヴクラフトの胸像であり、それが品位を欠いた戯画的な造形だと感じたからだとされていますが、当サイトでは一次資料を確認できていません[2]。

この胸像は、1975年から漫画家ゲイハン・ウィルソンのデザインで授与されてきたものです。のちの2015年、今度はラヴクラフトの人種差別的な言動を理由にした別の運動によって廃止されることになりました。ワンドレイの1984年の辞退は、その約30年前に、まったく別の理由から同じ像を拒んだ記録として残っています。

いずれにせよ、ラヴクラフトの作品を後世に残すために出版社まで興した当人が、その作家を象った像を突き返した——この一件は、崇敬と批評的距離が同じ一人の中に同居しうることを示しています。生涯功労賞という、本来なら誇るべき栄誉さえも、受け取り方は本人が決めることでした。功績を認められることと、その認められ方に納得できるかどうかは、別の話だったのでしょう。

弟ハワードとの共作

ワンドレイには弟がいます。SF作家・イラストレーターのハワード・ワンドレイです[1]。

1931年に出た詩集『Dark Odyssey』は、ドナルドにとって2冊目の詩集で、400部限定の挿絵入り版として刊行されました[6]。挿絵5点を手がけたのがハワードでした[6]。兄弟で一冊を作り上げた例です。

詩人としてのワンドレイは、1928年の処女詩集からこの『Dark Odyssey』まで、怪奇小説の書き手としての顔とは別に、独自の作品系列を持っていました。ライトを説得した交渉役、小説とSFの両方を書く作家、詩人、そして出版者——一人の中に複数の顔が同居しています。

SFとホラーの両輪を書いた作家

ワンドレイは編集者・友人としてだけでなく、書き手としても独自の位置を占めています。『ウィアード・テイルズ』の怪奇小説と『アスタウンディング・ストーリーズ』のSFの両方に作品を発表し続けた点が、彼の特徴です[1]。

権威あるSF百科事典は、彼の代表作『イースター島の蜘蛛の巣』(1948年)を「彼の最高到達点」と評価しています[1]。死後にまとめられた2冊の作品集——SF編『Colossus』とホラー・ファンタジー編『Don’t Dream』(いずれも1989年)——のタイトルが分かれていること自体、彼が2つのジャンルを並行して書き続けていたことを示しています[1]。

当サイトでの位置づけ

当サイトが「クトゥルフ神話という呼称の成立と体系化」や「クトゥルフ神話は誰のものになったのか」で扱ってきた過程は、雑誌の1号として消費されるはずだった短編が、単行本として読み直される作品へと変わっていく歩みでした。その入口に立っていたのが、ファーンズワース・ライトを説得した文通仲間であり、のちに友の全集を出す出版社を興した当人だった、というのがこの記事の要点です。

書き手でありながら編集者を動かし、出版社を興しながら経営には固執せず、崇敬する作家の胸像を賞として突き返す——ワンドレイの経歴を追うと、「クトゥルフ神話に関わった人物」の役割が、作家・編集者・出版者という単純な区分に収まらないことが見えてきます。

当サイトの人物記事は、これまでラヴクラフト本人と、彼が影響を受けた先行者(エドガー・アラン・ポーら)、そして彼の作品を採否した編集者(ファーンズワース・ライト)を扱ってきました。ワンドレイは、その両方の性質を併せ持つ、めずらしい立ち位置の人物です。原典を書いた人と、原典を選び残した人の、ちょうど中間にいたことになります。

出典

  • [1] The Encyclopedia of Science Fiction “Wandrei, Donald”(2026年8月25日確認)。生没年、代表作、死後の刊行物、『ラヴクラフト書簡選集』の編纂は同項目によるhttps://sf-encyclopedia.com/entry/wandrei_donald
  • [2] 学歴、初期の執筆歴、1927年のラヴクラフト訪問の逸話、従軍経験、戦後の状況、ダーレス没後の対応、1984年の受賞辞退の経緯について、当サイトでは一次資料を確認できていない。ラヴクラフトが1927年11月24日付でワンドレイ宛の手紙を書いていたことは、H・P・ラヴクラフト公式アーカイブ「”The Thing in the Moonlight”」解説ページで確認できる(2026年8月25日確認) https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/tm.aspx
  • [3] H・P・ラヴクラフト公式アーカイブ掲載、ヒッポキャンパス・プレス刊”H. P. Lovecraft: Letters with Donald and Howard Wandrei and to Emil Petaja”紹介文(2026年8月25日確認) https://www.hplovecraft.com/writings/sources/ldhwep.aspx
  • [4] 大手出版社への持ち込みに失敗した経緯、アーカム・ハウス設立の目的、ワンドレイの書簡出版への考えについて、当サイトでは一次資料を確認できていない
  • [5] H・P・ラヴクラフト公式アーカイブ「The Call of Cthulhu」ページ(2026年8月25日確認)。執筆1926年夏、発表1928年2月(『ウィアード・テイルズ』誌)は同ページによる。拒絶の正確な月日は当サイトでも特定できなかったhttps://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/cc.aspx
  • [6] 古書販売サイトAbeBooks・Biblioの書誌情報(2026年8月25日確認)。『Dark Odyssey』(1931年、400部限定、ハワード・ワンドレイによる挿絵5点)の刊行事実による
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