概要
2026年8月、H・P・ラヴクラフトの故郷プロヴィデンスに、NecronomiCon Providence 2026を目当てに1,500人超が集まった[1]。「クトゥルフの呼び声」執筆から100年という節目である。パネル討論、演劇、コンサート、映画上映、アート販売——会場を埋めた催しの多くは、この一篇と、それが育てた神話への祝福だった。
だが集まった人々がしていたのは礼賛だけではなかった。ラヴクラフトの手紙をどう読むか、その手紙が運んだ偏見をどう扱うか、そして今この神話を誰が書いているのか。会場のあちこちで、そうした問いも交わされていた。この記事は現地報道が伝えたそれらの声を手がかりに、100年という時間軸で「誰がこの神話を作ってきたのか」を辿る。
始まりから「共有」だった——ラヴクラフト・サークル
ラヴクラフトは寡作な作家だった一方、膨大な数の手紙を書いた人物でもある。プロヴィデンスの地元メディアThe Providence Eyeは、その文通についてこう伝えている。
“His correspondence with multiple authors created the Lovecraft Circle, in which he encouraged his friends to share stories and even build on each other’s writing.” (訳: 「複数の作家との文通は『ラヴクラフト・サークル』を生み、そこで彼は友人たちに物語を共有し、互いの作品の上に積み上げることさえ奨励した」)[2]
ラヴクラフト自身が、自分の創った世界を独占する発想を持っていなかった。これは些細な逸話ではない。当サイトが「クトゥルフ神話に『公式設定』は存在するのか」で述べた通り、この神話に単一の権利者が存在しないのは後から生じた事情ではなく、始まり方そのものに由来する。パネル「A People’s History of The Cthulhu Mythos」に登壇したエリック・ウィリアムズ氏も、これらの書簡からはラヴクラフトとそのサークルが絶えず政治的な議論を交わしていたことがうかがえる、という趣旨を語っている[3]。神話は最初から一人の作家の完成品ではなく、書簡でやり取りされる進行中の共同作業だった。
同じ書簡が運んだもの
その書簡は、創作の共有だけを運んだわけではなかった。ラヴクラフトが遺した推定10万通の手紙には、反ユダヤ的・人種差別的な見解が繰り返し記されている[4]。1909年、地元紙Providence Journalへの投書でクー・クラックス・クランを称賛したことも、同紙に発表した最初の商業出版作が反移民的な内容の詩だったことも、現地報道が伝える事実である[4]。歴史家エドワード・ギモント氏は、その詩が西暦2000年のプロヴィデンスを、移民コミュニティに「乗っ取られた」姿として描いていたと指摘する[5]。妻ソニア・グリーンは、ニューヨークで人種の入り混じった雑踏に置かれた夫が”would become livid with rage”(怒りで蒼白になった)状態になったと書き残している[6]。
漫画原作者デヴィッド・キロズJr氏は、この神話について次のように語っている。
“The main threat in Cthulhu isn’t the Cthulhu, it’s the cult,” (訳: 「クトゥルフにおける主たる脅威は、クトゥルフそのものではなく、カルトの方だ」)[7]
“Lovecraft reveals himself on the page. Ultimately, the fear is the people on the periphery of his vision.” (訳: 「ラヴクラフトはページの上に自分自身をさらけ出している。突き詰めれば、恐怖の対象は彼の視界の周縁にいる人々なのだ」)[7]
ラヴクラフトの恐怖が何を対象にしていたかという問いは、文学批評だけでは終わらない。彼が誰を「恐れるべきもの」として描いたか、その線引きの背後に何があったかという問いでもある。キロズ氏の言葉は、その問いへの一つの答えでもある。
100年後、書く側が変わった
NecronomiCon代表ニールス・ホッブス氏によれば、大会は元々この分野の多様な視点を歓迎してきたが、一部の関係者が「よくてゲートキーパー、悪くすればラヴクラフト本人に近い偏見の持ち主」として立ち現れたことをきっかけに、その姿勢は「一気に加速した」という[8]。100年後の会場では、かつて「恐れられる側」に置かれてきた作家たちが、自らの言葉でこの神話を書き直している。作家トーニャ・モンテフォルテ氏(Lemon Difficult)はこう述べた。
“In modern reinterpretations of the Mythos, we see a lot of our POC protagonists addressing colonialism as the Eldritch [Horror] they are fighting,” (訳: 「神話の現代的な再解釈では、有色人種の主人公たちが、自分たちが戦うエルドリッチ・ホラーとして植民地主義に向き合う例が多く見られる」)[9]
“[It’s] the system as the monster, social permissions for hate and prejudice becoming the thing that is unfathomably large and impossible to defeat, and constantly at risk of awaking in a more fully-punishing, terrifying way. It is this sleeping giant that is affecting their everyday life.” (訳: 「システムそのものが怪物になる。憎悪と偏見への社会的許容が、計り知れないほど巨大で倒しようのない何かとなり、より過酷で恐ろしい形で目覚める危険を常にはらんでいる。彼らの日常に影響を及ぼしているのは、この眠れる巨人なのだ」)[9]
パネル「Horror Noir」に登壇した作家ジン・E・ロックリン氏の発言も、同じ転換を別の角度から映している。
“[Being] the person to be feared made me sad, it made me angry, and now I use it as power,” (訳: 「恐れられる側であることは、悲しく、怒りを覚えることだった。だが今は、それを力として使っている」)[10]
“Understanding how fearful and small [Lovecraft] was, but looking at his imagination and what he did with that fear was interesting to me.” (訳: 「[ラヴクラフトが]いかに怯え、矮小な存在だったかを理解する一方で、彼の想像力と、その恐怖を使って何をしたかに目を向けることは、私にとって興味深いことだった」)[10]
これは「正しい書き方」が新しく確立したという話ではない。恐怖の対象として描かれてきた側が、書く主体としてこの神話に加わったという、系譜上の事実の話である。ホッブス氏も、現代政治を大会の主要な流れにするつもりはないとしながら、必要な主題からは目を背けないと述べ、あらゆる「奇妙で、自由で、異議を唱える声」の避難所でありたいという趣旨を語っている[11]。BIPOC・LGBTQIA+参加者向けの交流会や、黒人作家・クィアの視点を扱うパネルが同じ会場に並んでいたのも、その延長にある[1]。
日本から、書く文化が合流する
この系譜には、日本からの合流もある。ラヴクラフト作品を複数漫画化してきた田辺剛氏が、今回のNecronomiConでguest of honorの一人として紹介された[12]。当サイトが「日本のクトゥルフはなぜ『書く文化』になったのか」で辿った通り、日本のクトゥルフ神話は原典を読む文化より先に、シナリオを自分で書いて遊ぶ文化として広がった。プロヴィデンスの壇上に日本の描き手が立ったことは、100年前に始まった「共有する」神話が、地理的にもどこまで広がってきたかを示している。
まとめ——三層の先に積み上がる層
当サイトは原典/ダーレス系拡張/TRPG設定という三層でこの神話を整理してきた。ラヴクラフト自身の断片的な記述、死後にオーガスト・ダーレスたちが体系化した拡張、1981年以降TRPGが独自に必要とした数値化。今プロヴィデンスの会場で起きていたのは、その先にもう一つの積み重ね——かつて恐怖の対象として描かれた側の作家たちが、自らの経験を踏まえて書き直す動き——だった。
会場で地元作家グループWe Are Providenceの本を売っていたポール・マグナン氏の言葉は、この場に流れていた温度を端的に表している。
“I know that [Lovecraft’s] legacy is tarnished because of the inherent racism in some of his fiction, but there can be no denying that he is essentially the grandfather of weird fiction,” (訳: 「[ラヴクラフトの]遺産が、その作品に内在する人種差別のせいで傷ついていることは分かっている。だが、彼がウィアード・フィクションの生みの親であることは否定しようがない」)[13]
「クトゥルフ神話は誰のものか」という問いに、100年分の歴史が返す答えは一貫している。最初から、誰か一人の所有物ではなかった。書簡で分け合われ、死後に引き継がれ、ゲームとして体系化され、今また新しい書き手たちの手に渡っている。共有されることが、この神話の始まり方そのものだった。100周年の会場が見せていたのは、礼賛でも断罪でもなく、その共有がまだ続いているという事実である。イベント自体の詳しい日程や演目は「NecronomiCon Providence 2026」にまとめている。
出典
- [1] 1,500人超の参加、パネル・演劇・コンサート・映画上映・アート販売等の開催、BIPOC・LGBTQIA+参加者向け交流会や関連パネルの実施 — The Providence Eye, Eric Halvarson (City News Reporter), “Thousands Gather to Celebrate—and Interrogate—Providence’s Famous Weird Fiction Author H.P. Lovecraft 100 Years After The Call of the Cthulhu”, 2026年8月19日, pvdeye.org ↩
- [2] “His correspondence with multiple authors created the Lovecraft Circle, in which he encouraged his friends to share stories and even build on each other’s writing.”(訳: 「複数の作家との文通は『ラヴクラフト・サークル』を生み、そこで彼は友人たちに物語を共有し、互いの作品の上に積み上げることさえ奨励した」) — 同上 ↩
- [3] パネル「A People’s History of The Cthulhu Mythos: Leftist Appraisal and Reinterpretation」登壇者エリック・ウィリアムズ氏の発言(書簡からラヴクラフトとそのサークルが絶えず政治的議論を交わしていたことがうかがえるという趣旨) — 同上 ↩
- [4] 推定10万通の書簡に反ユダヤ的・人種差別的見解が繰り返し表明されていること、1909年のProvidence JournalへのKKK称賛の投書、最初の商業出版作(同紙掲載の詩)が反移民的内容だったこと — 同上 ↩
- [5] 歴史家エドワード・ギモント氏による、当該詩が西暦2000年のプロヴィデンスを移民コミュニティに「乗っ取られた」姿として描いていたという指摘 — 同上 ↩
- [6] 妻ソニア・グリーンによる、ニューヨークの人種が入り混じった群衆の中でラヴクラフトが”would become livid with rage”(怒りで蒼白になった)状態になったという記述の紹介 — 同上 ↩
- [7] “The main threat in Cthulhu isn’t the Cthulhu, it’s the cult,” … “Lovecraft reveals himself on the page. Ultimately, the fear is the people on the periphery of his vision.”(訳: 「クトゥルフにおける主たる脅威は、クトゥルフそのものではなく、カルトの方だ」……「ラヴクラフトはページの上に自分自身をさらけ出している。突き詰めれば、恐怖の対象は彼の視界の周縁にいる人々なのだ」) — 漫画原作者David Quiroz Jr氏の発言、同上 ↩
- [8] NecronomiCon代表ニールス・ホッブス氏による、大会は元々多様な視点を歓迎してきたが、一部の関係者が「よくてゲートキーパー、悪くすればラヴクラフト本人に近い偏見の持ち主」として立ち現れたことで、その姿勢が「一気に加速した」という趣旨の発言 — 同上 ↩
- [9] “In modern reinterpretations of the Mythos, we see a lot of our POC protagonists addressing colonialism as the Eldritch [Horror] they are fighting,” … “[It’s] the system as the monster, social permissions for hate and prejudice becoming the thing that is unfathomably large and impossible to defeat, and constantly at risk of awaking in a more fully-punishing, terrifying way. It is this sleeping giant that is affecting their everyday life.”(訳: 「神話の現代的な再解釈では、有色人種の主人公たちが、自分たちが戦うエルドリッチ・ホラーとして植民地主義に向き合う例が多く見られる」……「システムそのものが怪物になる。憎悪と偏見への社会的許容が、計り知れないほど巨大で倒しようのない何かとなり、より過酷で恐ろしい形で目覚める危険を常にはらんでいる。彼らの日常に影響を及ぼしているのは、この眠れる巨人なのだ」) — 作家Tonya Monteforte氏(Lemon Difficult)の発言、同上 ↩
- [10] “[Being] the person to be feared made me sad, it made me angry, and now I use it as power,” … “Understanding how fearful and small [Lovecraft] was, but looking at his imagination and what he did with that fear was interesting to me.”(訳: 「恐れられる側であることは、悲しく、怒りを覚えることだった。だが今は、それを力として使っている」……「[ラヴクラフトが]いかに怯え、矮小な存在だったかを理解する一方で、彼の想像力と、その恐怖を使って何をしたかに目を向けることは、私にとって興味深いことだった」) — パネル「Horror Noir: the Contributions of Black Authors and Filmmakers in Horror and Weird Fiction」登壇者Zin E. Rocklyn氏の発言、同上 ↩
- [11] NecronomiCon代表ニールス・ホッブス氏による、現代政治を主要な流れにするつもりはないが必要な主題から目を背けない、あらゆる「奇妙で、自由で、異議を唱える声」の避難所でありたいという趣旨の発言 — 同上 ↩
- [12] Gou Tanabe(田辺剛)がguest of honorの一人として紹介されたこと — 同上 ↩
- [13] “I know that [Lovecraft’s] legacy is tarnished because of the inherent racism in some of his fiction, but there can be no denying that he is essentially the grandfather of weird fiction,”(訳: 「[ラヴクラフトの]遺産が、その作品に内在する人種差別のせいで傷ついていることは分かっている。だが、彼がウィアード・フィクションの生みの親であることは否定しようがない」) — 地元作家グループWe Are Providenceのポール・マグナン氏の発言、同上 ↩



