読書ガイド

クトゥルフ神話に「公式設定」は存在するのか

「これって公式設定?」という疑問には、実は3つの別々の質問が混ざっている。原典・ダーレス系拡張・TRPG設定という三層に分けて、その混同がどこから生まれるかを解説する。

公開更新作成AI支援で作成

誤りの指摘・訂正依頼と編集方針は運営者情報へ。

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

「公式ですか」という問いに潜む3つの質問

クトゥルフ神話に触れ始めた人が高い確率で口にする質問がある。「これって公式設定ですか?」。神格解説、TRPGのシナリオ、二次創作のSSを行き来しているうちに、どの記述を信じればいいのか分からなくなって出てくる問いだ。

「クトゥルフ神話——よくある誤解Q&A」のQ3では、この疑問に「完全な『公式設定』は存在しません」と短く答えている。その答えは正しい。ただし正しいだけでは、なぜこの質問がこれほど繰り返されるのかまでは説明できない。実際には1つの質問の中に、性質の違う3つの問いが折りたたまれている。「ラヴクラフト自身が書いたか」「後続作家の拡張として広く受け入れられているか」「版元がライセンスした製品に載っているか」——この3つを分けずに「公式か」とだけ尋ねると、答えようがなくなる。

(a) ラヴクラフト自身が書いたか

もっとも狭い意味の「公式」は、H・P・ラヴクラフト本人の筆による記述かどうかを指す。この意味であれば線引きは比較的明快で、「原典/ダーレス系拡張/TRPG設定」が整理する第1層がそれにあたる。

ただしこの層にも落とし穴がある。ラヴクラフトの短編群には体系だった神格分類も、力の数値も、系譜図も存在しない。1つの神格がどんな姿でどんな力を持つか、他の神格とどう関係するかを一望できる統一設定資料集は、原典には一冊もない。「ラヴクラフトが書いたことだけが公式」という基準を採用しても、その「公式」自体が断片的で、矛盾を含んでいることが珍しくない。

(b) 後続作家の拡張は「公式」なのか

ラヴクラフトの死後(1937年)、友人作家オーガスト・ダーレスが散らばった神格たちを整理し、四大元素説や「旧神が悪しき者たちを封印した」という善悪二元論の構図を持ち込んだ[1]。この体系化はラヴクラフト自身の作品には一度も明記されたことがない。ダーレスが持ち込んだこの善悪二元論に否定的な読者の間では、ダーレス関与後の設定群を「ダーレス神話」と呼び、ラヴクラフト自身の「原神話」と区別する説明が広く流布している。

ここで「公式か」と問うと、立場によって答えが割れる。ダーレスはラヴクラフトの遺稿を整理・出版した実務上の後継者であり、その意味では神話の存続に欠かせない存在だった。一方で、彼が導入した対立構図が原典の意図と異なる、という指摘も根強い。「ハスターとクトゥルフはなぜ『敵同士』になったのか」で辿った通り、「クトゥルフ陣営とハスター陣営が対立する」という今では定番の設定さえ、原典には一度も描かれていない。ダーレスの体系化は「公式」と呼べるほど一枚岩ではなく、受け止め方が分かれ続けている拡張なのである。

(c) 版元がライセンスした製品の「公式」

3つめは、著作権・商標を持つ版元が出す製品に載っているかという意味の「公式」だ。1981年、ケイオシアム社がサンディ・ピーターセンの設計でTRPG『クトゥルフの呼び声』を発売して以降、この会社が出す製品群には「公式ライセンス」という言葉が確かに当てはまる[2]。神格のステータス、SAN値減少表、資料集の類は、この意味では正真正銘の公式製品だ。

ただしこれは「TRPGとしての公式」であって、「クトゥルフ神話全体の公式」ではない。TRPGはゲームとして遊べる必要があるため、原典にもダーレス系拡張にも存在しなかった数値化・体系化を独自に行っている。版元のライセンスは、その版元が扱う製品群の範囲でしか及ばない。神話全体を統括する著作権者は存在せず、存在しようがない。ラヴクラフトの存命中から、交流のあった同時代の作家たちがこの世界観を共有して書いており、単一の管理者を置く発想と最初から相容れないからだ。

なぜ混乱するのか

この混乱には理由がある。単一の権利者が正史を管理する現代のフランチャイズ作品に慣れていると、「公式」という言葉は自然と「唯一の正解」を意味するようになる。だがクトゥルフ神話は、最初期からその発想の外側で育ってきた。一人の作家が書き始め、死後に複数の作家が引き継ぎ、さらに別の媒体であるゲームが独自の必然性から新しい設定を積み増していった、共有された創作の集積なのだ。

「公式」という言葉を、単一の権利者が管理する体系を前提に使う限り、この神話には当てはまらない。当てはめようとするからこそ、質問が空回りする。

実用的な答え: 「公式か」ではなく「どの層か」

この混乱を解く実用的な方法は、「公式ですか」という問いをいったん脇に置き、「これはどの層の記述ですか」と問い直すことだ。原典(第1層)か、ダーレス系拡張(第2層)か、TRPG設定(第3層)か。層が分かれば、その記述がどこから来て、どんな必然性で生まれたかが見えてくる。

深淵書架では、この区別を記事ごとの層バッジで示している。神格の記事で「原典では〜」「後世の設定では〜」「TRPG設定では〜」と書き分けているのも、同じ理由からだ。「公式か非公式か」の二択ではなく、由来を辿れる形で記述を積み重ねること。それがこのサイトの基本方針であり、「原典/ダーレス系拡張/TRPG設定」ではその運用を詳しく説明している。層ごとの分類方法そのものについては「神格・存在の分類ガイド」も参考になる。

まとめ: 誰の設定かを辿れることが面白さの本体

「公式設定はあるか」という問いへの一番正直な答えは、「ない、そして原理的にありえない」だ。ラヴクラフトが遺した断片、ダーレスたちが積み増した体系、TRPGが必要とした数値。これらは同じ土台の上に立ちながら、別々の必然性から生まれた別々の創作である。

「コズミックホラーはラヴクラフトの発明か」が確かめた通り、ラヴクラフト自身も何もない場所から一人で神話を作り出したわけではなく、先行する文学的系譜を土台に自分の立ち位置を定めていった。クトゥルフ神話は最初から、一人の権利者が管理する完成品ではなく、誰かが引き継いでいくことを前提にした未完成の設計図だったのかもしれない。「これは誰の設定か」を辿れること自体が、この神話が今も読み継がれ、書き継がれている理由である。

出典

  • [1] ダーレスは短編「ハスターの帰還」で “the Old or Ancient Ones, the Elder Gods, of cosmic good, and those of cosmic evil”(訳: 「古き者たち、すなわち旧神たちは宇宙的な善であり、他方には宇宙的な悪の者たちがいる」)と述べ、続けて “the Old Ones banished from the cosmic places all the Evil Ones, imprisoning them in many places”(訳: 「旧神たちは、悪しき者たちすべてを宇宙の座から追放し、各所へ封印した」)と記している — August Derleth, “The Return of Hastur,” Weird Tales vol.33 no.3(1939年3月号)、archive.org識別子 Weird_Tales_v33n03_1939-03, https://archive.org/download/Weird_Tales_v33n03_1939-03/weird_tales_v33n03_1939-03_djvu.txt ↩
  • [2] 『クトゥルフの呼び声』は1981年、米ケイオシアム社よりサンディ・ピーターセンの設計で刊行された — 本サイト内「原典/ダーレス系拡張/TRPG設定」参照 ↩
この記事だけでは物足りない方へ
この記事だけでは物足りない方へ
初めての方への紹介書籍 表紙
初めての方へ

固有名詞を覚えるのがまだ大変なら、神格・怪物をイラストと生息地図でやさしく紹介するこちらから。

『クトゥルフ神話生物解剖図鑑』をAmazonで見る ↗
もっと詳しく知りたい方への紹介書籍 表紙
もっと詳しく知りたい方へ

神格・用語を横断的に調べたいなら、東雅夫による定番の事典が一冊で頼りになります。

『クトゥルー神話大事典』をAmazonで見る ↗

※上記は広告リンク(アフィリエイト)です。

続きを辿る

隣の棚

記事URLをコピーしました