概要
Fantasy Flight Games(FFG)は2026年9月3日、公式ニュース「Gone Without a Trace」で、協力型LCG『Arkham Horror: The Card Game』向けの新シナリオパック『Traces to Nowhere』を発表した[1]。同社の製品ページによれば発売はカードゲーム本体『Arkham Horror: The Card Game』のコアセットのみでプレイでき、拡張という位置づけでありながら追加の拡張を要求しない設計になっている[2]。
価格・発売日・プレイ人数・プレイ時間は、Asmodeeの公式オンラインストアの商品仕様欄で確認できた。価格は米ドル23.99ドル(米国ストア表示)[3]、発売日は2026年10月16日[3]、プレイ人数は1〜4人[3]、対象年齢は14歳以上[3]、平均プレイ時間は90分とされている[3]。製品コードはAHC107[2]。日本国内での正規販売・日本語版の予定は、本稿で参照した公式資料の範囲では確認できていない。
FFG公式ニュースの書き出しはこうだ。「The investigators of Arkham are used to dealing with monsters. From eldritch abominations to unspeakable horrors, they’ve run the gamut on just about every supernatural threat you can think of. But not every monster has multiple eyes or gnashing teeth, and when people start disappearing, the Mythos is rarely the only thing to blame.(アーカムの探索者たちは怪物の扱いに慣れている。異形の忌まわしきものから名状しがたき恐怖まで、思いつく限りの超自然的な脅威をひととおり経験してきた。だが、すべての怪物が複数の目や牙を持っているわけではない。そして人が姿を消し始めたとき、悪いのはたいてい神話だけとは限らない)」[1]。この一文が、本作の性格をそのまま言い表している。
どんな作品か
FFG公式ニュースによれば、物語はこう始まる。名の知れた私立探偵アジザ・スティア(Aziza Steer)が調査員たちに連絡を取り、頭を悩ませる事件の解決を頼み込む。依頼人はジョセフィン・ハッサール(Josephine Husserl)——アーカムで醜聞と裏取引にまみれた資産家一族の女家長——で、行方をくらませた夫エリアス・ハッサール(Elias Husserl)の捜索をアジザに依頼していた。数週間、有力な手がかりは何一つ見つからず、そのうえ調査員たちが助力に駆けつけた時点で、アジザ自身も行方不明になっていることが判明する[1]。手がかりを求めて調査員たちは、アジザが残した拠点「Steer’s Office(スティア探偵事務所)」から捜査を引き継ぐ[1]。
捜査は「leads deck(手がかりの山札)」というカード束をめくる形で進む。事務所でアジザのメモを漁ると街のあちこちに追加の手がかりが配置され、それを消費して山札の一番上をめくると、ジョセフィン・ハッサール本人のような証人が現れる。証人には追加の手がかりを支払って尋問(Parley)の難度を下げることができ、尋問に成功するたびに、6人の容疑者のうち誰が真犯人かを絞り込む手がかりが得られる。FFG公式ニュースはこの仕組みの核心を次のように説明している。「Successful parleys will provide key insight into which of six suspects might be the culprit, and the identity of that culprit will change depending on which witnesses you reveal from the lead deck.(尋問に成功すれば、6人の容疑者のうち誰が真犯人かを知る重要な手がかりが得られる。そして真犯人の正体は、手がかりの山札からどの証人がめくられたかによって変わる)」[1]。
捜査を難しくしているのが、「Abductor(誘拐者)」という存在だ。公式ニュースはこう記す。「This thing can’t be defeated, stopped, or even properly identified (at first, at least), and the best you can do is temporarily ward it off before it spirits away your key witnesses.(この存在は倒すことも止めることも、少なくとも最初のうちは正体を特定することさえできない。できるのはせいぜい一時的に追い払うことだけで、そうしなければ重要な証人をさらっていってしまう)」[1]。ゲームメカニクスとしては、遭遇カード「Over Your Shoulder」のような効果が調査員の所持品を「誘拐」状態にしてシナリオ参照カードの下へ押し込み、救出するまで使えなくする。アジェンダカードの強制効果はストーリー上重要な資産をも同じように誘拐できるため、「no matter who you meet during your investigation, no one is truly safe(誰と出会おうと、捜査の途中で本当に安全な者はいない)」状態が続く[1]。加えて「Bruisers」「Hired Enforcers」という雇われの妨害者、不意打ちしてくる「Approaching Shadow」、手がかりを溜め込みすぎると発生する「Back at Square One」という手がかりカードが、捜査の停滞を防ぐ仕掛けとして配置されている[1]。
シナリオを解決してアジザ・スティアを救出できれば、報酬カードとして彼女自身を今後のデッキに加えられるようになる。公式ニュースの説明では、「Though she costs 3 experience to add to your deck, Aziza’s abilities are more than worth it. […] whenever you play an event during your turn, you can exhaust Aziza to gain an extra benefit depending on the event’s trait, potentially doubling up on your actions or letting you cover two bases at once!(デッキに加えるには経験値3点かかるが、アジザの能力はそれに見合う以上の価値がある。[中略]自分の手番でイベントカードをプレイするたび、アジザを行動不能にすることで、そのイベントの持つ特性に応じた追加の恩恵を得られる。行動を二重取りしたり、一度に二つの用件を片づけたりできる可能性がある)」とされている[1]。この報酬カードは『Traces to Nowhere』一本に留まらず、以後別のシナリオやキャンペーンでも使い続けられる[1]。
怪物退治からノワール捜査へ――探偵という設計
『Arkham Horror: The Card Game』の既存記事で確認できる通り、このゲームはもともと「手掛かりを集めて事件を解決する」調査プロセスをカードゲームの手番構造に落とし込んだ作品だ。『Traces to Nowhere』はその調査という骨格を、怪物との戦闘からいったん切り離し、失踪事件の捜査そのものへ寄せている。FFG公式ニュースが「But not every monster has multiple eyes or gnashing teeth(すべての怪物が複数の目や牙を持っているわけではない)」と書く通り、このシナリオの主眼は、私立探偵アジザ・スティアという固有名を持つ案内役のもとで容疑者を尋問し、証拠を積み上げていく作業に置かれている[1]。
この「断片的な証言や記録を突き合わせて真相へ近づく」という構図は、当サイトの「クトゥルフの呼び声」の記事で確認した原典の骨格と重なる。同作の語り手フランシス・サーストンは、大叔父の遺した研究ノート、彫刻家の見た悪夢、警官の摘発報告、航海士の手記という、互いに面識のない人物が残した資料を一つずつ照合していくことで真実にたどり着く。原典の冒頭に置かれた一節はこうだ。「The most merciful thing in the world, I think, is the inability of the human mind to correlate all its contents.(この世で最も慈悲深いことは、人間の心があらゆる内容を関連づける能力を持たないという事実だと私は思う)」[4]。原典が恐れているのは、無関係に見える断片が結びついてしまうことそのものだった。
『Traces to Nowhere』の「leads deck」から証人をめくり、尋問を重ねて6人の容疑者を絞り込んでいく手順は、この「断片を照合する」という原典の構造を、探偵小説的な尋問劇として再演したものと読める。ただし両者の力点は違う。原典の語り手は関連づけを恐れながらも関連づけずにいられない受動的な立場に置かれているのに対し、このシナリオの調査員は「私立探偵アジザ・スティア」という具体的な役割モデルのもとで、能動的に証人を選び、尋問の難度を自ら操作する立場に置かれている。原典が描いた「知ってしまうことの恐怖」は、ここでは「解き明かすゲーム上の手順」へと組み替えられている。
「倒せない」という共通項――夢見るクトゥルフとAbductor
原典の「クトゥルフの呼び声」には、もう一つ確認しておきたい構造がある。作中で英訳される教団の呪文は、クトゥルフを「In his house at R’lyeh dead Cthulhu waits dreaming.(ルルイエの館にて、死せるクトゥルフは夢見ながら待つ)」と記す[5]。ヨハンセンが船で体当たりして得たのは時間稼ぎにとどまり、彼自身も帰国後まもなく死ぬ。原典のクトゥルフは、最初から「倒す」対象として設計されていない。
『Traces to Nowhere』のAbductorも同じ位置に立つ存在として説明されている。「can’t be defeated, stopped, or even properly identified(倒すことも止めることも、正体を特定することさえできない)」という一文は、原典が確立した「倒せない脅威」というモチーフの延長線上にある[1]。ただし両者の役回りは異なる。クトゥルフは物語の背景に沈んで人類の運命そのものを左右する存在として描かれるのに対し、Abductorは目の前の証人や所持品を一つずつさらっていく、シナリオ進行を妨げる実務的な障害として設計されている。宇宙的な決着のなさを描いた原典のモチーフが、ここではゲームバランス上の緊張を作る仕掛けへと縮小・具体化されている。
原典との距離(神話の三層のどこに立つか)
『Traces to Nowhere』が捜査の舞台とするアーカムという街、そして「倒せない怪異」というモチーフの土台には、当サイトの区分で言う第1層(原典)がある。だが、私立探偵アジザ・スティア、依頼人ジョセフィン・ハッサールとその夫エリアス、そしてAbductorという固有の存在は、いずれも原典の小説には登場しない。これらは『Arkham Horror: The Card Game』というTRPG設定に連なるカードゲーム作品が独自に生み出した、第3層(TRPGによる拡張)の創作である。
本作が扱う「6人の容疑者から真犯人が毎回変わる」というリプレイ性の高い仕組みも、ラヴクラフト自身の小説には存在しない発想だ。原典の「クトゥルフの呼び声」は一度きりの確定した真相を語る作品であり、読み返すたびに犯人が変わるという構造は持たない。この可変性は、TRPG・カードゲームというメディアが持つリプレイ前提の設計から生まれたものであり、原典の持つ一回性の恐怖とは異なる論理で作られている。
関連して読むなら
- Arkham Horror: The Card Game — 本作の土台になっている協力型LCG本体の記事
- アーカムホラー 第3版 — 同じ世界観を共有するボードゲーム版
- アーカム — 本シナリオの舞台となる架空の街についての記事
- クトゥルフ神話TRPGとボードゲームの違い — 進行役の有無という観点から本シリーズの立ち位置を整理した記事
- クトゥルフの呼び声 — 本稿で対比した「断片を照合する調査」と「倒せない脅威」の原典
- Mansions of Madness: Second Edition — 公式アプリが進行役を務める、別方式のクトゥルフ神話ボードゲーム
出典
- [1] 発表日2026年9月3日、シナリオパック名「Traces to Nowhere」、1〜4人プレイ、単独プレイまたはキャンペーンのサイドストーリーとして遊べること、探偵アジザ・スティアが依頼人ジョセフィン・ハッサールから夫エリアス・ハッサールの捜索を頼まれる導入、調査員が「Steer’s Office」から捜査を引き継ぐこと、「leads deck」から証人をめくり尋問(Parley)で容疑者を絞り込む仕組み、「Successful parleys will provide key insight into which of six suspects might be the culprit, and the identity of that culprit will change depending on which witnesses you reveal from the lead deck.」、Abductorが「can’t be defeated, stopped, or even properly identified (at first, at least)」であること、「Bruisers」「Hired Enforcers」「Approaching Shadow」「Back at Square One」の存在、報酬カード「Aziza Steer」が経験値3点でデッキに加えられ「whenever you play an event during your turn, you can exhaust Aziza to gain an extra benefit depending on the event’s trait」という能力を持つこと、執筆者Peter Schumacherの記載を確認 — Fantasy Flight Games, “Gone Without a Trace”(2026年9月9日取得), https://www.fantasyflightgames.com/en/news/2026/9/3/gone-without-a-trace/ ↩
- [2] 製品コード「AHC107」、「Players only need a copy of the Arkham Horror: The Card Game core set to dive into this scenario.」の記載を確認 — Fantasy Flight Games公式商品ページ「Traces to Nowhere」(2026年9月9日取得), https://www.fantasyflightgames.com/en/products/arkham-horror-the-card-game/products/traces-nowhere ↩
- [3] 価格「$23.99」、発売日「This product releases on October 16, 2026」、プレイ人数「Players (Minimum) 1」「Players (Maximum) 4」、対象年齢「Minimum Recommended Age 14」、プレイ時間「Average Play Time 90 Minutes」、発行元「Fantasy Flight Games」の記載を確認(米国ストア表示) — Asmodee公式オンラインストア商品ページ(2026年9月9日取得), https://store.asmodee.com/products/arkham-horror-the-card-game-traces-to-nowhere-scenario-pack ↩
- [4] “The most merciful thing in the world, I think, is the inability of the human mind to correlate all its contents.”(訳: 「この世で最も慈悲深いことは、人間の心があらゆる内容を関連づける能力を持たないという事実だと私は思う」)の記載を、当サイト「クトゥルフの呼び声」記事で確認済み — H. P. Lovecraft, “The Call of Cthulhu”(1926年執筆/1928年発表), The H. P. Lovecraft Archive ↩
- [5] “In his house at R’lyeh dead Cthulhu waits dreaming.”(訳: 「ルルイエの館にて、死せるクトゥルフは夢見ながら待つ」)の記載を、当サイト「クトゥルフの呼び声」記事で確認済み — 同上 ↩


