短編小説(合作) — THE CRAWLING CHAOS

這い寄る混沌

阿片の過量投与で意識を失った語り手が、崩れゆく岬の大理石の家で目を覚ます。黒い海が陸を食い尽くそうとする岬から内陸へ逃れ、巨大な椰子の下で光輪を戴いた子供と歌い手の一対に出会い、天の川の彼方の都テロエへ誘われる。「決して振り返るな」という禁令を破った語り手が見たのは、海に呑まれ、亀裂に落ち、最後には消えてしまう地球だった。H・P・ラヴクラフトとウィニフレッド・V・ジャクソンの合作で1920/21年執筆、1921年4月『ザ・ユナイテッド・コーオペラティヴ』誌に発表された、原文約2,997語の短編。

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這い寄る混沌

「そして煙が晴れ、地球を見ようとしたとき、私が目にしたのは、冷たく可笑しげな星々を背にした、死にかけの太陽と、姉妹を探す蒼ざめて物悲しい惑星たちだけだった。」

— H・P・ラヴクラフト&ウィニフレッド・V・ジャクソン「這い寄る混沌」(1920/21年執筆)結末の一文
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概要

「這い寄る混沌」は、H・P・ラヴクラフトがウィニフレッド・V・ジャクソンとの合作で書いた短編です[1]。阿片の過量投与で意識を失った語り手が、崩れゆく岬の家で目を覚まし、内陸へ逃れ、星の彼方の楽土へ誘われ、そして振り返って地球の最期を見る。約3,000語の作品は、それだけで閉じます。

冒頭で語り手は、阿片の夢を書いた先人としてド・クインシーとボードレールを名指しします。

Of the pleasures and pains of opium much has been written. The ecstasies and horrors of De Quincey and the paradis artificiels of Baudelaire are preserved and interpreted with an art which makes them immortal(訳: 阿片の快楽と苦痛については、多くが書かれてきた。ド・クインシーの恍惚と恐怖、ボードレールの『人工楽園』は、それらを不滅にする技術によって保存され、解釈されている)[1]

題名に「這い寄る混沌」とありますが、本文にニャルラトホテプは登場しません。それどころか chaos(混沌)という語が一度も出てきません。この点は「読みどころと注目テーマ」の節で扱います。

作品情報

  • 執筆: 1920/21年、ウィニフレッド・V・ジャクソンとの合作[2]
  • 発表: 1921年4月、『ザ・ユナイテッド・コーオペラティヴ』誌 vol.1 no.3、1–6頁[3]。アマチュア・ジャーナリズムの機関誌
  • 邦題: 「這い寄る混沌」(東京創元社刊『ラヴクラフト全集 別巻〈上〉』大瀧啓裕訳)。同書の目次は本作を イリザベス・バークリイ「這い寄る混沌」として立てています4
  • 分量: 本文約2,997語(2026年9月13日、公式アーカイブの公開テキストを実測)[1]
  • 舞台: 名を与えられない海辺の岬とその内陸、そして天の川の彼方の都テロエ[1]
  • 形式: 一度きりの阿片体験を後から語る一人称の回想[1]
  • 主題タグ: 阿片、夢、敵意を持つ海、地球の終末

登場神格・用語

原典本文を通読しても、クトゥルフ神話の神格・魔道書・地名は一つも登場しません[1]。名前を与えられているのは、星の彼方の土地だけです。

  • テロエ(Teloe) — 天の川とアリニュリアンの流れの彼方にある都。琥珀と玉髄でできた都市、奇妙で美しい星々の像が輝く多面体の丸屋根、象牙の橋の下を流れる黄金の川。若さと美と快楽だけがあり、笑いと歌とリュートの音のほかは何も聞こえないとされます。住むのは神々だけです[1]
  • キュタリオン(Cytharion) — 「七つの太陽のキュタリオン」。テロエの黄金の川を下る遊覧船の行き先で、テロエと並べて語られます[1]
  • アリニュリアンの流れ(Arinurian streams) — テロエの手前に置かれた境界。二度言及されますが、どんな流れなのかは書かれません[1]
  • 子供 — 椰子の枝から降りてくる。襤褸をまとって埃にまみれながら、牧神か半神の顔立ちをして、薄闇の中で頭に光輪を戴いています。名前はありません[1]
  • 神と女神 — 空から聞こえた歌の主。その美しさは人のものではないとして、語り手は二人を神と女神だと判断します。やはり名前はありません[1]
  • 地中の暗い神々 — 終末の場面で一度だけ触れられます。「水の邪神より偉大な」存在として、打ち続ける海さえこれを恐れているように見えた、と語られるだけで、名も姿も与えられません[1]

あらすじ

阿片。 語り手が阿片を用いたのは、生涯に一度だけでした。

I took opium but once—in the year of the plague, when doctors sought to deaden the agonies they could not cure. There was an overdose(訳: 私は一度だけ阿片を用いた——疫病の年、医師たちが治せない苦痛を麻痺させようとしたときだ。過量投与だった)[1]

落下の感覚が続き、やがて頭の中で鳴っていた鼓動が外側の音へ、嵐のあと荒涼とした岸を打ち砕く巨大な海の音へと置き換わります[1]。

部屋。 目を開けると、多くの窓のある見知らぬ美しい部屋に一人でいました。色とりどりの敷物と帳、凝った造りの卓と長椅子、繊細な花瓶。東洋風ではあるが異界のものではない、と語り手は書きます[1]。落ち着かないのは調度ではなく、止まない鼓動のほうでした。

Slowly but inexorably crawling upon my consciousness, and rising above every other impression, came a dizzying fear of the unknown(訳: ゆっくりと、しかし容赦なく私の意識へ這い上がり、ほかのあらゆる印象の上へ立ち上がってきたのは、未知への眩暈のような恐怖だった)[1]

岬。 鎧戸を閉めて蝋燭を灯しても音は消えず、語り手はついに出窓へ歩みます。家は海面から300フィートの細い岬の先に建ち、両側の赤土の崖は削られ続け、沖には50フィートの砕け波、水平線には禿鷹のように蹲る黒雲がありました[1]。

I could not but feel that some noxious marine mind had declared a war of extermination upon all the solid ground, perhaps abetted by the angry sky.(訳: どこか有害な海の知性が、怒れる空の加勢を得て、すべての固い大地に対し絶滅の戦争を宣言したのだと、感じずにはいられなかった)[1]

家の反対側へ回った語り手は、岬の左右で条件が食い違っていることに気づきます。左は輝く太陽の下の緑の海、右は暗い空の下の青く穏やかな海。噛みついてくる黒紫の海は、正面だけでした[1]。残していく家は大理石の小家で、隅にコリント式の柱を持ちながら屋根は中国の塔のような赤瓦という、東西の混ざった造りをしています[1]。

内陸。 白い砂の道を内陸へ逃げた語り手は、背丈より高い熱帯の草に覆われた谷と、視界の果てに立つ巨大な椰子の木を見ます。草の擦れる音に怯えて「虎か。虎か。獣か。私が恐れているのは獣なのか」と口走り、その連想からキプリングの虎の話を思い出しました[1]。恐怖よりも椰子の誘引が勝り、語り手は道を外れ、蛇を恐れながら四つん這いで斜面を這い下ります[1]。

子供。 椰子の下へ這い込むと、枝から子供が降りてきました[1]。上空に歌が響き、子供は銀の声で告げます。

It is the end. They have come down through the gloaming from the stars. Now all is over, and beyond the Arinurian streams we shall dwell blissfully in Teloe.(訳: 終わりだ。彼らは黄昏を抜けて星々から降りてきた。もうすべては終わり、アリニュリアンの流れの彼方、テロエで我らは幸いに暮らすのだ)[1]

歌い手の一対が姿を見せ、テロエとキュタリオンの豊かさを並べて、語り手をそこへ誘います[1]。

上昇。 気づくと椰子は下方にあり、語り手は蔓草の冠をかぶった若者と乙女の群れとともに昇っていました。子供は耳元で、ひとつだけ禁令を残します。

the child whispered in my ear that I must look always upward to the pathways of light, and never backward to the sphere I had just left(訳: 子供は私の耳元で囁いた。常に光の道を見上げていなければならず、いま離れたばかりの天体を決して振り返ってはならない、と)[1]

振り返り。 歌とリュートの調べを貫いて、下方の深淵からあの海の鼓動が届きます。語り手は子供の言葉を忘れ、振り返りました[1]。

見えたのは、荒れ狂う海に削られ続ける地球でした。北極には毒気の沼が湧き、砂漠の只中に亀裂が開いて広がっていきます。海はついに陸の最後の一片を呑み、亀裂へ流れ込み、それまで征服したすべてを手放します。引いた海底からは、忘れられていたものが現れます。

The moon laid pale lilies of light on dead London, and Paris stood up from its damp grave to be sanctified with star-dust.(訳: 月は死せるロンドンに蒼ざめた光の百合を敷き、パリは湿った墓から立ち上がって星屑に浄められた)[1]

そのあとに、人が陸だと知らなかった土地の尖塔と方尖柱が続きます[1]。

終幕。 亀裂から噴く煙は蒸気に変わり、世界を覆い、語り手の顔と手を灼きます。連れの姿はいつの間にか消えていました。閃光と轟音がひとつになって月を溶かし、そして残ったものだけが語られます。

And when the smoke cleared away, and I sought to look upon the earth, I beheld against the background of cold, humorous stars only the dying sun and the pale mournful planets searching for their sister.(訳: そして煙が晴れ、地球を見ようとしたとき、私が目にしたのは、冷たく可笑しげな星々を背にした、死にかけの太陽と、姉妹を探す蒼ざめて物悲しい惑星たちだけだった)[1]

物語はここで終わります。語り手が快癒の床で目覚めたことは終盤に一度だけ触れられますが、見たものの説明は最後まで与えられません[1]。

読みどころと注目テーマ

題名は本文の何も指していない。 当サイトの実測では、本文2,997語のうち chaos という語は一度も現れず、Nyarlathotep の名も出てきません[1]。crawl 系の語が使われるのは3箇所——恐怖が意識へ這い上がる場面、語り手が谷を這い下りる場面、椰子の下へ這い込む場面——で、いずれも神格とは関わりません[1]。「這い寄る混沌」がニャルラトホテプの異名として現れるのは別の作品、散文詩「ナイアーラソテップ」の冒頭です。

Nyarlathotep . . . the crawling chaos . . . I am the last . . . I will tell the audient void. . . .(訳: ニャルラトホテプ……這い寄る混沌……私が最後の一人だ……私は聞き耳を立てる虚空に語ろう……)[5]

公式アーカイブの年譜は、その散文詩を1920年12月初頭、本作を1920/21年と記録します[2]。どちらが先に書かれたのかは、この記述からは確定できません。題名がどちらから来たのかについても、当サイトは確認できる一次資料に当たっていないので書きません。異名としての「這い寄る混沌」を追う読者は、ニャルラトホテプの項と、その名乗りの場面がある「未知なるカダスを夢に求めて」へ進むことになります。本作は、その系譜の外に置かれた作品です。

意志を持って攻めてくる海。 本作の海は、背景としての自然ではありません。語り手は、有害な海の知性が陸地への絶滅戦争を宣言したのだと感じ[1]、終盤では海さえも地中の神々を恐れているように見えたと書きます[1]。それでも海は止まらず、征服した陸ごと亀裂へ落ちていきます。破壊の主体がはっきりせず、恐れる側と恐れられる側が何段にも重なる構造は、名前のある神格を一つも出さないまま、規模だけを膨らませていきます。

振り返るなという禁令。 楽土へ昇る途中で子供が与える指示は「常に上を見ていろ、振り返るな」の一つだけで[1]、語り手はそれを破ります。破らせるのは誘惑ではなく、下から届く海の音でした[1]。上昇の讃歌と下方の鼓動がひとつの場面で重なり、語り手は自分を救おうとした側ではなく、自分を追ってきた側のほうへ耳を貸します。

二重写しの風景。 岬の左右で、海の色も空の明るさも食い違っています[1]。大理石の家はコリント式の柱と中国風の瓦屋根を同時に持ちます[1]。語り手は草の音に怯えて虎の名を呼び、その作者がキプリングだと思い出しながら、彼を古代の作家と見なしている自分の奇妙さには気づきません[1]。夢の中の辻褄の合わなさが、そのまま書き留められています。

固有名詞の置き方。 実在の人名(ド・クインシー、ボードレール、キプリング)と実在の都市(ロンドン、パリ)は出てきますが、語り手の名も故郷の名も最後まで出ません[1]。代わりに名を持つのは、テロエ、キュタリオン、アリニュリアンの流れという、本作以外で使われない三つの言葉だけです[1]。当サイトにはこれらの記事がまだありません。

執筆背景と影響

公式アーカイブの年譜は、本作を「ウィニフレッド・V・ジャクソンとの合作、1920/21年」と記録しています[2]。発表は1921年4月、『ザ・ユナイテッド・コーオペラティヴ』誌 vol.1 no.3 の1–6頁[3]。同誌はアマチュア・ジャーナリズムの機関誌で、商業誌ではありません。

ジャクソンとの合作は本作が二つめで、先行するのは1918/19年執筆の「The Green Meadow」です[2]。こちらは『ザ・ヴェイグラント』誌 no.15(1927年春)188–195頁に発表されました[7]。注目したいのは、その本文に置かれた署名です。

Translated by Elizabeth Neville Berkeley and Lewis Theobald, Jun.(訳: イリザベス・ネヴィル・バークリイおよびルーイス・シーオボールド・ジュニア訳)[6]

東京創元社版『ラヴクラフト全集 別巻〈上〉』の目次は、本作をイリザベス・バークリイ名義で立てています[4]。ただし、この署名行が在るのは「緑の草原」の本文ページのほうで、しかもそこでは作中の架空の訳者として出てきます(本作は隕石から出たギリシア語の書物を訳した体裁を取っています)[6]。本作の本文ページに同様の署名行はありません[1]。イリザベス・バークリイがジャクソン、ルーイス・シーオボールドがラヴクラフトを指すという対応関係は、当サイトが参照できた一次資料では確認できていません。初出誌『ザ・ユナイテッド・コーオペラティヴ』1921年4月号の誌面も未確認で、初出時の署名が筆名だったかどうかは断定しません。

どこまでがラヴクラフトの筆かも、確認できる一次資料がありません。公式アーカイブは本文にも年譜にも “with Winifred V. Jackson” と記すだけで、分担には触れていません[1][2]。当サイトは、二人の名前の並び以上のことを書きません。

単行本への収録は、Ballantine Books 版『The Doom That Came to Sarnath』(1971年)を皮切りに、Arkham House 版『The Horror in the Museum and Other Revisions』(1989年)、Hippocampus Press 版『Collected Fiction, A Variorum Edition』第4巻(2024年)などが公式アーカイブのデータページに列挙されています[3]。合作・代作を集めた巻に収められ続けてきた作品です。

当サイトに収録した同時期の作品では、同じく1920/21年執筆の「忘却より」[2]が、薬と夢のさきにある消滅を扱います。合作としては、ソニア・H・グリーンと組んだ「マーティン浜辺の恐怖」が海の怪異を、ケネス・スターリングと組んだ「エリュクスの壁のなかで」が異星の迷路を描いています。著者については「H・P・ラヴクラフト」の項を参照してください。

出典

[1] H. P. Lovecraft & Winifred V. Jackson 「The Crawling Chaos」(本文。署名は “By H. P. Lovecraft with Winifred V. Jackson”)。冒頭の阿片の枠組み、疫病の年の過量投与、目覚めた部屋、岬と三つの海、大理石の小家、虎の連想、椰子と子供、テロエとキュタリオン、振り返りの禁令、地球の終末、結末の一文は、いずれも公式アーカイブの公開テキストによる。語数と語の出現回数は同テキストを2026年9月13日に数えた。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/crc.aspx [2] 「Lovecraft’s Fiction」(作品年譜。”The Crawling Chaos (with Winifred V. Jackson; 1920/21)”、”Nyarlathotep (early December 1920)”、”The Green Meadow (with Winifred V. Jackson; 1918/19)”、”Ex Oblivione (1920/21)” を記録)。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/ [3] 「The Crawling Chaos」データページ(Publication History: “The United Co-operative vol. 1, no. 3 (April 1921): 1–6.” に続けて Ballantine 1971年版・Arkham House 1989年版・Hippocampus Press 2024年版などを列挙)。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/crc.aspx [4] 「ラヴクラフト全集 別巻〈上〉」書誌ページ(目次の筆頭に イリザベス・バークリイ「這い寄る混沌」と表記。創元推理文庫、大瀧啓裕訳、初版2007年9月28日、ISBN978-4-488-52308-4)。東京創元社. http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488523084 [5] H. P. Lovecraft 「Nyarlathotep」(散文詩の本文。冒頭は “Nyarlathotep . . . the crawling chaos . . . I am the last . . . I will tell the audient void. . . .”)。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/n.aspx [6] H. P. Lovecraft & Winifred V. Jackson 「The Green Meadow」(本文。題名の下に “Translated by Elizabeth Neville Berkeley and Lewis Theobald, Jun.” の署名)。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/gm.aspx [7] 「The Green Meadow」データページ(Publication History: “The Vagrant no. 15 (Spring 1927): 188–195.”)。The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/gm.aspx

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