概要
「トゥズーン・スーンの鏡」は、ロバート・E・ハワードが1929年9月号の『ウィアード・テイルズ』誌に発表した短編である[1]。ヴァルーシア王クルを主人公とする連作の第2作にあたり、前作「影の王国」からわずか1か月後の掲載だった。
前作の派手な陰謀劇に対し、本作は内省的で幻想味が強い。剣を振るう場面はほとんどなく、王が鏡の前に座り続ける——それが物語の大半を占める。
本作は米国でパブリックドメインである。1929年の発表から95年が経過しており、本記事では初出誌の本文から直接引用する[1]。
作品情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 原題 | The Mirrors of Tuzun Thune |
| 著者 | ロバート・E・ハワード |
| 初出 | 『ウィアード・テイルズ』第14巻第3号(1929年9月)、367ページ[1] |
| 連作 | ヴァルーシア王クルもの 第2作 |
| 著作権 | 米国でパブリックドメイン(1929年発表)。本記事は原文を引用している |
| 電子テキスト | Project Gutenberg でも公開されている[2] |
同号の目次に添えられた紹介文は、前作との関係をそのまま示している。
Another weird tale of Kull the King and Brule the Spear-slayer — by the author of “The Shadow Kingdom.”
前号の誌面には、すでにこの作品の予告が載っていた[3]。連作として売り出す構えが、最初から取られていたことが分かる。
登場神格・用語
- クル(Kull) — ヴァルーシアの王。前作に続く主人公
- トゥズーン・スーン(Tuzun Thune) — 「エルダー・レース(Elder Race)」の魔道士。千の鏡の館の主[1]
- 千の鏡の館(House of a Thousand Mirrors) — 幻視の湖(Lake of Visions)のほとりに建つ館。壁一面が鏡の大広間を持つ[1]
- ブルール(Brule) — 槍殺しの異名を持つピクト人。前作に続いて登場し、終盤で鍵を握る[1]
- カーヌーブ(Kaanuub of Blaal) — 王の排除を企てる人物[1]
当サイトが扱う神格・用語そのものは登場しない。ハワード独自の先史世界を舞台とする一編である。
なお「エルダー・レース」という語は、本作では魔道士と発端の娘の出自を指す言い方として使われている[1]。のちのクトゥルフ神話で「旧神(Elder Gods)」が指すものとは別の概念なので、混同しないようにしたい。分類用語の整理は旧支配者・外なる神・旧神——神格の分類用語を整理するにまとめている。
あらすじ
発端は、宮廷の女がクルにささやく一言である。
“Great king, seek Tuzun Thune, the wizard. The secrets of life and death are his, and the stars in the sky and the lands beneath the seas.”
(偉大なる王よ、魔道士トゥズーン・スーンを訪ねなさいませ。生と死の秘密は彼のもの、空の星々も海の下の大地も)[1]
クルが「何者だ」と問うと、女は答える。エルダー・レースの魔道士で、ヴァルーシアの幻視の湖のほとり、千の鏡の館に住む。あらゆることが彼には知られている。死者と語らい、失われた地の悪魔たちと言葉を交わす——と[1]。
クルは出向くことにする。ただし誰にも告げるなと女に命じる。女はうやうやしくひざまずくが、王が背を向けたその口元には狡猾な笑みが浮かんでいた[1]。読者だけが、これが罠だと最初に知らされる。
館は湖のほとりにあった。青く広い水面には白鳥の翼を持つ遊覧の舟が漂い、岸には壮麗な館が並び、絶えず柔らかな楽の音が聞こえている。その中にあって、千の鏡の館は高く広いが飾り気がない。大扉は開いており、クルは名乗りもせずに階段を上って入っていく[1]。
壁がすべて鏡でできた大広間で、彼は魔道士と出会う。ザルガラの丘々と同じほど古く、皺の寄った革のような肌をした男である[1]。以後クルは日ごと通い、鏡の前に座り続けることになる。
日ごとの対面で、クルの内側に問いが生まれていく。鏡の向こうの像は、自分が鏡の前を離れたときどこにいるのか。人が命と存在の影をこれほど軽々と作り、また消せるものなのか。自分が鏡から退いたとき、あれは無へ消えるのか——[1]。
“Nay, by Valka, am I the man or is he? Which of us is the ghost of the other? Mayhap these mirrors are but windows through which we look into another world.”
(いや、ヴァルカにかけて、人間は私なのか、それとも彼なのか。どちらがどちらの幽霊なのだ? この鏡は、別の世界を覗きこむ窓にすぎぬのかもしれぬ)[1]
問いはさらに進む。向こうの彼も同じことを考えているのではないか。自分のほうこそ影、彼にとっての反射にすぎないのではないか。もし自分が幽霊なのだとしたら、鏡の向こうにはどんな世界があり、どんな軍勢が駆け、どんな王が統べているのか——[1]。剣で王座を得た男が、自分の実在そのものを疑いはじめる。
結末で仕掛けが明かされる。ブルールの説明によれば、ブラールのカーヌーブがこの魔道士と共謀し、エルダー・レースの娘に命じて王の心へその考えを植えつけさせたのだった[1]。
“Kull, do you not now see how he spun and flung over you a web of magic?”
(クル、この者がいかにして魔法の網を織り、そなたに投げかけたか、いまなら分かるだろう?)[1]
鏡はクルの魂を虜にし、その肉体をあやうく霧へ変えるところだったという[1]。
読みどころと注目テーマ
剣で解決しない物語。前作の脅威は、斬れば正体を現す蛇人間だった。本作の脅威は鏡である。クルは戦っていることにさえ気づかない。罠にかかったまま、自分から毎日そこへ通うという構造が、この短編をシリーズの中で際立たせている。
見る者が見られる。鏡の前に座り続けたクルが向き合うのは、結局のところ自分自身である。どちらが実像でどちらが像なのか——その問いが王の輪郭をほどいていく。前作が「隣の人間が人間か」を疑わせたのに対し、本作は自分が自分かを疑わせる。疑いの向き先が、外から内へ反転している。
問いの立て方が反転している。引用した独白の後半は、視点を向こう側へ移してしまう点で危うい。「彼も同じことを考えているのではないか」と想像した瞬間、鏡の像は単なる反射ではなく、こちらを観察する誰かになる。見る側と見られる側の非対称が崩れたところで、クルの輪郭もほどける。魔道士は何も強いていない。座って眺めよと言うだけで、あとは王が自分で考えていく。罠の実体は、王自身の思考である。
助かり方。クルを引き戻すのはブルールである。前作で誓いを交わした盟友が、ここでも王を連れ戻す役を担う。二作を続けて読むと、この人物が連作の重心の一つだと分かる。
執筆背景と影響
連作としての進み方。前作の掲載号(1929年8月)には、すでに本作の予告が載っていた[3]。1か月おきに同じ主人公の物語を出す——パルプ誌の連作がどう設計されていたかを、この二号は端的に示している。
同号の誌面も見ておきたい。本作の前後には、エドモンド・ハミルトンの連載「Outside the Universe」第3回や、B・ウォリスの「Winged Vengeance」などが並ぶ[1]。怪奇と初期SFが同じ目次に同居していた時代であり、ハワードの先史ファンタジーもその一角にあった。
娘の役どころ。発端でささやく宮廷の女は、本文で「エルダー・レースの娘」と明かされる[1]。魔道士と同じ古い種族の者が、王の心に考えを植えつける役を担っていたことになる。前作「影の王国」で宮廷に紛れていたのは蛇人間だったが、本作で紛れているのは人の姿をした古い種族である。宮廷の内側は信用できない、という連作共通の枠組みが、形を変えて反復されている。
そして本作の罠は、前作より一段たちが悪い。蛇人間は剣で倒せたが、鏡は倒す相手ですらない。王が自分の足で通い、自分の頭で考え、自分から溶けていく。ブルールが駆けつけなければ、クルは霧になっていたと本文は書く[1]。外からの襲撃ではなく、内側からの解体として恐怖が設計されている。
クル連作のその後。クルは1930年11月号の「Kings of the Night」にも登場する。同号の紹介文は「ヴァルーシアの王クルが、その影の王国の霧の中から現れ、ローマ軍団との戦いを率いる」と書いており[4]、第1作の題が主人公の出自を指す語として定着していたことが分かる。
クトゥルフ神話との距離。本作に当サイトが扱う神格・用語は出てこない。ハワードの神話への関与は「黒の碑」など別の系列で行われており、クル連作はそれとは独立している。ただし「自我とは何か」「目に映るものは現実か」という問いの立て方は、のちにクトゥルフ神話が扱う人間の認識の限界という主題と重なる。ハワードとラヴクラフトの関係についてはハワードの記事にまとめた。
シリーズの中での異色さ。クル連作は、蛮族出身の王が古い王国を統べるという設定を土台にしている。第1作は宮廷の陰謀、第3作にあたる「Kings of the Night」は戦場での指揮を描いた。その間に挟まる本作だけが、戦いも陰謀も表に出てこない。王は館へ通い、座り、考える。連作の中で一編だけ趣が違うことは、掲載当時の読者にも意識されたはずである。
もっとも、目次の紹介文は前作と同じ枠で本作を売っている——「王クルと槍殺しのブルールを描くもう一つの怪奇譚」[1]。中身の異質さは、誌面の売り文句には表れていない。パルプ誌の連作が、主人公と作者の名前で読者をつなぎとめていたことがうかがえる。読者は「クルの新作」として手に取り、まったく毛色の違う一編に出会ったことになる。
本記事での引用について。本作は1929年の発表で、米国では発表から95年を経てパブリックドメインとなっている。当サイトは著作権の存続する作品では原文引用を行わない方針だが、本作にはその制約がかからない。上の引用はすべて初出誌のスキャンで直接確認したものである[1]。
出典
- [1] Robert E. Howard「The Mirrors of Tuzun Thune」『Weird Tales』第14巻第3号(1929年9月)、367ページ。初出誌のスキャン(archive.org、識別子 Weird_Tales_v14n03_1929-09_sas)の全文テキストで、目次の掲載ページと編集部紹介文、宮廷の女の台詞、トゥズーン・スーンの紹介(「エルダー・レースの魔道士」「幻視の湖のほとりの千の鏡の館」「死者と語らい、失われた地の悪魔と言葉を交わす」)、女が背後で見せる狡猾な笑み、湖畔と館の描写、魔道士の外見、終盤でブルールが明かすカーヌーブとの共謀、および魔法の網と霧をめぐる台詞を確認した(2026年9月15日確認)。本作は1929年の発表で米国ではパブリックドメインにあたるため、原文からの引用を行っている。 ↩
- [2] Project Gutenberg「The Mirrors of Tuzun Thune」電子テキスト(該当ページ)。パブリックドメイン作品の電子化テキストとして公開されている。 ↩
- [3] 『Weird Tales』第14巻第2号(1929年8月)の翌月号予告(archive.org、識別子 Weird_Tales_v14n02_1929-08_sas)。本作を「王クルと槍殺しのブルール、そして古代王国ヴァルーシアを描くもう一つの怪奇譚。『影の王国』の著者による、魅惑的で不気味な物語」として予告している。 ↩
- [4] Robert E. Howard「Kings of the Night」『Weird Tales』第16巻第5号(1930年11月)。初出誌のスキャン(archive.org、識別子 Weird_Tales_v16n05_1930-11_sas)の目次で、紹介文「Kull, king of Valusia, came from out of the mists of his Shadow Kingdom to lead the fight against the Roman legionaries」を確認した。 ↩





