概要
驚異を失った灰色の都市に生きる一人の男が、来る夜も来る夜も窓辺から星々を見上げるうちに、ついには夢とうつつの境界を越え、彼方の宇宙的な光景へと誘われていく——書き継がれることのなかった長編小説の冒頭部分にあたる断章。原文はわずか3段落・500語に満たない分量で、ラヴクラフトの現存作品の中でも際立って短い部類に入る。
作品情報
- 執筆・発表年: 1922年6月執筆/1938年、同人誌「リーヴズ」に断章として発表(ラヴクラフト没後)
- 主題タグ: 未完の断章、星々への憧憬、夢を通じた宇宙への越境、失われた驚異
登場神格・用語
- アザトース
本断章は表題こそ「アザトース」だが、本文中にはこの名は一度も登場せず、神格としての描写や設定も語られていない。深淵書架では、アザトースの正式な初出典は「未知なるカダスを夢に求めて」としており、本断章には(初出典)を付与しない。
あらすじ
美と驚異が失われ、詩人でさえ歪んだ幻影しか歌わなくなった灰色の時代——高い壁に囲まれた都市の一室に暮らす、名も知られぬ一人の男がいた。原文はこの男について「彼の名も住まいもほとんど書き残されていない、しかしいずれも取るに足らぬものだったと言われている。彼が、荒涼とした薄闇の支配する高い壁の街に暮らし、影と喧騒の中で一日じゅう働いていたことさえ分かれば十分だ」とだけ素っ気なく紹介する[1]。彼は日々の労働の後、他人の部屋の窓ばかりが見える陰気な中庭に面した部屋へ帰り、狂気を避けるためだけに夜ごと窓から星々を見上げ続けた。やがて彼は流れゆく星々に名を付け、その行方を心の中で追うようになり、ついに常人には知られない秘密の眺望へと視界を開いていく。そしてある夜、巨大な裂け目が架け渡され、夢に満ちた空が彼の部屋の淀んだ空気と混ざり合う。「金の塵をきらめかせる紫の真夜中の奔流、極限の空間から渦巻き出て、この世ならぬ香気を重く帯びた塵と炎の渦」が押し寄せ[2]、名もなき太陽に照らされたアヘンのような大洋がそれらに続く。それらが音もなく彼の周りに渦巻き、窓辺に立ち尽くす肉体には触れぬまま、彼自身を遠くへと運び去っていく。物語は、彼が幾星霜を経て、蓮の花香る緑の岸辺へとやさしく降ろされたところで途切れている。
読みどころと注目テーマ
未完成であるがゆえに、かえって宇宙的な茫漠とした恐怖と憧憬を強く漂わせる断章。表題の「アザトース」という名が本文中に一切現れないという事実自体が、この作品の成立過程――ラヴクラフトが着想を得ながら長編として発展させられなかった経緯を物語っている。
執筆背景と影響
1922年、長編小説として構想されながら数百語で執筆が止まってしまった断章で、ラヴクラフトの生前には発表されなかった。表題「アザトース」はのちに「未知なるカダスを夢に求めて」で描かれる盲目にして愚かな宇宙の中心的存在の名と同一だが、本断章自体はその設定に直接言及しておらず、両者の関係はラヴクラフトの創作ノートの再利用として理解されている。この断章は、ラヴクラフトが前年の1921年に読んだウィリアム・ベックフォードの東方幻想譚『ヴァテック』(1786年)に触発され、自ら「18世紀風の東方奇譚」「ヴァテック風の奇怪な長編」と呼んだ構想の一部として着手されたと伝えられる[3]。ラヴクラフトはこの断章を仕上げることなく手元に留め置いたが、没後の1938年、若き文通相手R・H・バーロウの手により同人誌「リーヴズ」に遺稿として収録され、初めて読者の目に触れることとなった[4]。
出典
- [1] “Of the name and abode of this man but little is written, for they were of the waking world only; yet it is said that both were obscure. It is enough to know that he dwelt in a city of high walls where sterile twilight reigned, and that he toiled all day among shadow and turmoil.”(訳: 「彼の名も住まいもほとんど書き残されていない、しかしいずれも取るに足らぬものだったと言われている。彼が、荒涼とした薄闇の支配する高い壁の街に暮らし、影と喧騒の中で一日じゅう働いていたことさえ分かれば十分だ」) — H. P. Lovecraft, “Azathoth”(1922年執筆/1938年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “There came to that room wild streams of violet midnight glittering with dust of gold; vortices of dust and fire, swirling out of the ultimate spaces and heavy with perfumes from beyond the worlds.”(訳: 「金の塵をきらめかせる紫の真夜中の奔流、極限の空間から渦巻き出て、この世ならぬ香気を重く帯びた塵と炎の渦」が、その部屋へと押し寄せた) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [3] ラヴクラフトは1921年にウィリアム・ベックフォード『ヴァテック』(1786年)を読み、これに触発された「18世紀風の東方奇譚」「ヴァテック風の奇怪な長編」の構想を語っていたとされ、本断章はその一部として書き始められたと伝えられる。— 出典: Wikipedia「Azathoth (short story)」, 該当ページ ↩
- [4] 1922年6月執筆、生前未発表。没後の1938年、文通相手だったR・H・バーロウの手により同人誌「リーヴズ」に遺稿として初掲載された。— 出典: Wikipedia「Azathoth (short story)」, 該当ページ ↩





