概要
語り手は、鉄灰色の顎鬚をたくわえた初老の男に、ある古い屋敷の屋根裏部屋へ案内されます。男は、部屋の元の住人だった「彼」がかつて何かをしでかしたこと、遺体の埋葬場所すら分からないこと、そして机の上に置かれたマッチ箱のような小さな装置には手を触れないでほしいことを告げ、暗くなる前に立ち去るよう念を押して姿を消します。残された語り手が目にするのは、神学書とともにパラケルススやヘルメス・トリスメギストスといった魔術書が並ぶ書架、床の開口部からしか出入りできない急な階段、牛眼窓と黒オーク材の梁が古さを物語る部屋です。
好奇心を抑えられなくなった語り手は、懐中電灯に似た道具を取り出し、紫色の光線を机上の装置へ向けます。すると部屋は音のない静寂に包まれ、痩せて浅黒い、アングリカン教会の聖職者の装束をまとった三十歳前後の男が姿を現します。男は自分の魔術書を暖炉へ投げ込み、後から現れた司教を含む聖職者たちに詰め寄られたのち、天井の梁の鉤に縄をかけて縊死を図ろうとします。語り手が押しとどめようとすると、男は勝ち誇った笑みを浮かべて迫ってきました。
身の危険を感じた語り手は、手にしていた光線の道具を武器代わりに男の顔へ向けます。男は恐怖の表情を浮かべながら後ずさりし、開いたままの階段の穴から転落して姿を消しました。駆けつけた村人たちは語り手の姿を見るなり悲鳴を上げて逃げ去りますが、最初に案内をした鬚の男だけは残り、語り手の外見にすでに変化が起きていることを告げます。鏡の前に連れて行かれた語り手が見たのは、階段から消えたはずの牧師の顔でした。自分の顔はそこにありませんでした。
作品情報
- 原題: The Evil Clergyman(公式アーカイブ本文題)。初出時の題は The Wicked Clergyman[3]
- 執筆: 1933年10月[2]
- 初出: 『ウィアード・テイルズ』第33巻第4号、1939年4月、135–137ページ[3]
- 分量: 約1,700語(公式アーカイブ本文を機械集計)。章分けなし
- 語り: 一人称。名前の明かされない語り手が終始視点人物を務めます
- 舞台: ロンドンではないと語り手が感じる、小さな港町らしい土地の古い屋敷の屋根裏部屋
- 主題: 机上の小さな装置と紫色の光線がもたらす禁じられた交信、外見の入れ替わり、物音の消えた空間で進む出来事
登場神格・用語
- 神格は登場しません。作中に固有の魔導書名も明示されず、蔵書の著者として実在した歴史上の人物名(パラケルスス、アルベルトゥス・マグヌス、トリテミウス、ヘルメス・トリスメギストス、ボレルスほか)が列挙されるのみです[1]
- マッチ箱のような小さな装置:机の上に置かれた、正体不明の器具。語り手も案内役の男も、何であるか分からないと語ります[1]
- 紫色の光線を放つ道具:語り手が懐中電灯に似た形で携帯していた器具。ふつうの懐中電灯とは別に、もう一つ別のポケットに入れていたと語られます[1]
- 邪悪な牧師(第一の来訪者):名前は明かされない、アングリカン教会の聖職者姿の男。自分の魔術書を焼き、縊死を図ろうとします。物語の最後、語り手自身の外見がこの男に置き換わります[1]
- 司教:名前は明かされない聖職者。襟元に垂れる白い布(バンド)と膝丈のズボン(ニー・ブリーチズ)を身につけ、他の聖職者たちとともに第一の来訪者を問い詰めます[1]
- 鉄灰色の顎鬚の男:語り手を屋根裏へ案内し、事件のあとも唯一逃げずに残って事情を説明する人物。名前は明かされません[1]
あらすじ
屋根裏部屋への案内
語り手は、地味な身なりに鉄灰色の顎鬚をたくわえた、真面目そうで聡明な顔つきの男に屋根裏部屋へ案内されます。男は「ここに彼は住んでいた――だが、あなたには何もしないよう勧める」と切り出し、「あの忌まわしい結社が最後にはすべてを引き取り、彼がどこに埋葬されたのか私たちには分からない」と続けます。さらに「テーブルの上にあるもの――マッチ箱のように見えるもの――には手を触れないでいただきたい」と念を押し、暗くなる前に立ち去るよう告げて部屋を去りました[1]。
残された屋根裏部屋は薄汚れて埃っぽいものの、荒れた住まいではないことを示す整頓がなされていました。神学書と古典の並ぶ書架の隣には、パラケルスス、アルベルトゥス・マグヌス、トリテミウス、ヘルメス・トリスメギストス、ボレルスといった名の魔術書を収めた書棚があり、判読できない文字で書かれた書物も混じっています。部屋の扉は物置に通じるだけで、唯一の出入り口は床の開口部から続く急な階段でした。牛眼窓と黒オーク材の梁が、この家の途方もない古さを物語っています。語り手はロンドンではないと感じ、小さな港町らしいという印象だけを覚えていました[1]。
紫の光と最初の来訪者
机上の小さな装置に強く心を引かれた語り手は、懐中電灯に似た道具を取り出します。ただし普通の懐中電灯は別のポケットに入れており、これはそれとは違う道具だと自覚していました。放たれた光は紫色で、「真の光というより、放射性の何かを浴びせているかのよう」でした。装置に光を当てると、粒子がぶつかる音とともに表面が薄紅色に光り、中心に白いかたちがぼんやりと浮かび上がります[1]。
そこで語り手は、自分がもう一人ではないことに気づきます。現れたのは、痩せて浅黒く、アングリカン教会の聖職者の装束をまとった、三十歳ほどの男でした。異様なまでに秀でた額を持ち、丸縁の鉄製眼鏡をかけたその顔は、他の聖職者たちに似ていながらも、巧妙に隠された邪悪さを漂わせています。物音は一切聞こえず、すべてが遠くの幕越しに見る無言劇のように進みました。男はランプを灯すと、震える手で自分の魔術書を次々と暖炉へ投げ込み、書物は異様な色の炎と嫌な臭いを上げて燃え尽きます。やがて、襟元に白い布を垂らし膝丈のズボンを穿いた司教を含む聖職者たちが現れ、空になった書棚と暖炉を指し示しながら、憎悪と恐怖の入り混じった態度で男を問い詰めました。聖職者たちが階段を下りて立ち去ると、男は戸棚から縄を取り出し、椅子に乗って黒オーク材の梁の鉤に一端を結び、もう一端で輪を作り始めます[1]。
光線での抵抗と鏡の中の顔
縊死を止めようと語り手が進み出ると、男はふいに動きを止め、勝ち誇ったような表情で見返してきました。男は椅子を降り、狼のような笑みを浮かべて語り手のほうへ滑るように近づいてきます。身の危険を感じた語り手は、とっさに例の光線の道具を取り出し、男の顔に向けて照射しました。浅黒い顔が紫色に、続いて薄紅色に光ると、男の勝ち誇った表情に恐怖の色が混じり始めます。男はよろめきながら後ずさり、開いたままの階段の穴へと近づいていき、ついに転落して姿を消しました[1]。
階段の下を覗いても、潰れた死体はどこにもありません。代わりに、提灯を手にした人々が階下から駆け上がってきました。沈黙の呪縛が解けたのか、物音と立体感のある姿が戻っています。先頭の村人たちは語り手を見るなり凍りつき、一人が「ああっ……旦那様、あんたですかい? またですかい?」と叫んで、全員が逃げ去りました。ただ一人、最初に語り手を案内した鬚の男だけが提灯を手に残り、「やはり、手を触れずにはいられなかったのですね」と語りかけます。男は「これは以前にも一度起きたことで、そのときの男は怖くなって自ら命を絶った」こと、「あの――ものに、二度と手出しをしてはいけない、もう元には戻せない」ことを告げ、語り手にはこの土地を離れ、アメリカへ渡ることを勧めました。そのうえで「あなたの外見には、ある変化が起きている。彼はいつもそれを引き起こす」と告げ、部屋の奥にある鏡へと連れていきます。鏡に映っていたのは、痩せて浅黒く、丸縁の鉄製眼鏡をかけた、異様に秀でた額を持つ、あの第一の来訪者の顔でした。語り手は、残りの生涯を通じて、外見の上ではその男として生きていくことになります[1]。
読みどころと注目テーマ
音の消えた部屋
牧師が現れて以降、語り手は物音を一切聞かなかったと繰り返し記します。すべてが「幕越しに見る無言劇」のようで、近くにいる人物も遠くにいる人物も同じように「近くもあり遠くもある」奇妙な遠近感の中に置かれていました。この音のない空間は、事件の異常さを、怪物や超常現象の外見描写に頼らず、感覚そのものの狂いを通じて読者に伝えます。村人たちが階下から駆け上がってきた瞬間に物音と立体感がいっぺんに戻る構成は、語り手が置かれていた時間が現実の時間とは別のものだったことを際立たせています[1]。
二つの懐中電灯
語り手は紫色の光線を放つ道具を取り出す際、もう一つの、ふつうの懐中電灯は別のポケットに入っていると、わざわざ書き添えます。見慣れない道具の使い方は「なぜか分かっていた」とも述べており、この一節だけで、語り手と屋根裏部屋の元の住人との間に、本人も自覚していない結びつきがあったことがうかがえます。装置の正体は最後まで説明されず、案内役の鬚の男も「何なのか分からない」と繰り返すだけでした[1]。
鏡に映る自分ではない顔
最初の来訪者は自分の魔術書を焼き、縊死を図ろうとしていました。語り手が光線でその企てを止めた結果、来訪者は階段の穴から消え、語り手自身の外見がその男に置き換わります。鬚の男は「心と人格までは損なわれずに済んだ」と語り手を安心させますが、「もう元には戻せない」とも告げ、外見の変化だけは取り消せない事実として残りました。何が起きたのかという説明は最後まで与えられず、鬚の男の言葉を通じて事後的に輪郭が示されるにとどまります[1]。
執筆背景と影響
本作は1933年10月に執筆されたと、公式アーカイブの作品年譜に記録されています[2]。発表は執筆から6年後の1939年4月、『ウィアード・テイルズ』第33巻第4号(135–137ページ)で、掲載時の題名は “The Wicked Clergyman” でした[3]。なぜ執筆から発表までに時間が空いたのか、なぜ題名が変わったのか、当時の読者の反応がどうだったのかについては、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Evil Clergyman” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ec.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆時期(1933年10月)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘The Evil Clergyman'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/ec.aspx初出『ウィアード・テイルズ』第33巻第4号(1939年4月)135–137ページ、掲載題 “The Wicked Clergyman” の出典。

