地名(実在都市を題材にした架空化) — RED HOOK

レッド・フック

原典

ニューヨーク市ブルックリンに実在する港湾地区。多様な出自の移民が入り混じる「混沌の坩堝」として描かれ、老学者ロバート・サイダムを取り巻く秘密結社の暗躍地となる。

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レッド・フック

「レッド・フックは、ガバナーズ島の対岸に広がる古い波止場近くにある、雑多な人種の混じり合った不潔さの迷路である。波止場から丘を登る薄汚れた大通りが、荒廃したクリントン通りとコート通りの続く高台へと通じている」

— H・P・ラヴクラフト「レッド・フックの恐怖」(1927年発表)
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概要

ニューヨーク市ブルックリンに実在する港湾地区[1]。老朽化した煉瓦造りの建物群と、シリア・スペイン・イタリア・アフリカ系など多様な出自の移民が入り混じる「混沌の坩堝」として描かれる[2]。刑事トマス・F・マローンが老学者ロバート・サイダムを取り巻く秘密結社を追う「レッド・フックの恐怖」の主舞台となる。

基本プロフィール

  • 分類: 地名(実在都市を題材にした架空化)
  • 欧文表記: RED HOOK
  • 初出・出典: 「レッド・フックの恐怖」(1925年8月執筆、Weird Tales誌1927年1月号発表)
  • モデル: ニューヨーク市ブルックリン区、実在する同名の港湾地区
  • 地理設定: ガヴァナーズ島の対岸、古い波止場に近い一帯[1]

原典での描写

地区の姿と住民の描写

地区の家々は十九世紀前半から半ばにかけて建てられた煉瓦造りが中心をなすと描かれる[5]。波止場から丘を這い上るように延びる大通りの先で、荒廃したクリントン街・コート街がボロー・ホールへと続くという地理も示されている[1]。犯罪は酒類や不法入国者の密輸から殺傷沙汰まで幅広く、「レッド・フックに入る者は出て行く者より多い」とされる[6]。地区に暮らす移民たちについて、語り手は疑いと敵意を込めた視線で描いている。

マローンの捜査と警察の見立て

刑事トマス・F・マローンは、ブルックリンのバトラー街警察署に配属されていたときにレッド・フックの案件を担当することになったという[7]。事件後、彼が専門家に語った内容の大半は信じられず、最終的にはレッド・フック地区の老朽な煉瓦家屋の崩落と多くの警官の死によって神経の均衡を失ったという説明で片付けられたと記される[8]。捜査にあたってマローンは、さりげない散策や世間話、時機を見た酒の提供、怯えた被疑者との対話といった手を尽くして情報を集めたという[9]。この捜査には、地区に流入する集団の人数や出身を把握し、「然るべき移民当局へ引き渡す」道を探る目的もあったと記されている[10]。

サイダムと地下の儀式

事件の中心人物ロバート・サイダムは、オランダ系の旧家に生まれた学識ある隠遁者で、祖父がフラットブッシュに建てた屋敷に独り住んでいたとされる[11]。彼はロンドンやパリから怪しげな書物を取り寄せる一方、レッド・フック地区に粗末な地下室を構えてほぼ毎晩そこへ入り浸り、「セフィロト」「アシュモダイ」「サマエル」といった神秘めいた名を口にしていたという[12]。誘拐事件の捜査でパーカー・プレイスの家屋に強制捜査が入った際には、壁の絵や書き込み、屋根裏の簡易な化学実験室が見つかり、マローンはこれを「途方もない何か」の手がかりと受け止めたと記される[13]。事件の終盤、警察はサイダムの潜伏先から近隣の「ダンスホール教会」地下へ通じる隧道を発見し、その先には軋むオルガンと祭壇を備えた広大な礼拝堂があったとされる[3]。

事件後のレッドフック

収監されていたサイダムが解放されると、彼のもとを訪れた人々は、好奇心からであれ義務感からであれ、この元隠遁者に芽生えた「上品さと優雅さ」にたちまち魅了されたと記される[14]。ほどなく婚約と結婚が伝えられるが、彼の死後、事件との法的な関わりは立証されないまま終わったという[15]。遺骨は「奇妙にも解き放たれた」状態で葬られ、親族は事件が速やかに忘れ去られたことに安堵したと記される[16]。物語の末尾では、サイダムの一件が去ってもレッド・フックの様子は変わらず、「相変わらず、レッド・フックへ入る者は陸路から出て行く者より多く」、酒や得体の知れぬものを運ぶ新たな地下水路の噂もすでに流れていると結ばれる[17]。

由来・モデル

レッド・フックは実在するブルックリンの地区名であり、ラヴクラフト自身が1924年から1926年にかけてニューヨークで暮らした際に実際に目にした光景がモデルになっているとされる。作中では「波止場からより高台へと丘を這い上るように延びる汚れた大通り」と描写され、その先にはクリントン街・コート街の荒廃した一角がボロー・ホールへと続くとされる[1]。ラヴクラフト自身のニューヨーク生活は不遇なもので、この時期に体験した都市生活への幻滅と、移民が密集する下町地区への強い異物感が、そのまま作品の恐怖の質感に反映されているという評が一般的である。

歴史・年表

物語の舞台となる1925年前後、レッド・フックは「絶望的にもつれた謎」と呼ばれる人種の坩堝と化していたとされ、シリア系・スペイン系・イタリア系・アフリカ系の要素が互いに接触し合い、遠からぬところにスカンジナビア系・アメリカ系の一帯も存在するという[2]。パーカー・プレイス(作中では既に改名済みとされる)には、アラビア文字を用いながらも周辺のシリア人コミュニティからさえ異質と見なされる正体不明の集団が住み着いているとされ、この集団を率いる老学者ロバート・サイダムが、荒廃した建物の一つを隠れ家として使っていたことが刑事マローンの捜査によって判明する。

事件の終盤、警察の強制捜査により、サイダムの潜伏先から近隣の「ダンスホール教会」地下へ通じる秘密の隧道が発見される。その先には北壁の狭い隠し通路を通じてのみ到達できる地下納骨堂があり、軋む音を立てるオルガンと、木製の長椅子・奇怪な意匠の祭壇を備えた広大なアーチ状の礼拝堂が広がっていたとされる[3]。この地下祭儀場の発見と崩壊をもって、事件は幕を閉じる。

性質・特徴

超自然の脅威そのものよりも、都市の底辺に堆積する人間の悪意と退廃を恐怖の源泉とする点で、ラヴクラフト作品の中でも特異な一篇の舞台となっている。「奇怪な音と汚穢のバベル」であり、埠頭に打ち寄せる脂ぎった波のさざめきと、港の汽笛が奏でる怪物じみたオルガンの連禱に応えるように、街そのものが異様な叫びを上げているとされる描写[4]は、都市そのものを一個の生き物のように扱うラヴクラフトの筆致を象徴する。なお、本作における移民集団への描写は今日では強く排外主義的だと批判されており、作品を読む・紹介する際にはその歴史的文脈への留意が必要である。

関連する人物・存在・出来事

秘密結社を率いる老学者ロバート・サイダムと、彼を追う刑事トマス・F・マローンが物語の中心人物。サイダムの結社が信奉する存在の正体は作中で明言されないが、地下納骨堂の祭壇の描写から、何らかの旧支配者級の存在への儀式が行われていたことが示唆される。ラヴクラフト作品世界の他の都市部の暗部(インスマスの秘密教団など)と並び、「表向きは平穏な近代都市の裏に古い信仰が潜む」という構図を共有する。

主要登場作と読みどころ

  • 「レッド・フックの恐怖」(1925年執筆/1927年発表): 唯一の登場作にして中心となる原典。刑事トマス・F・マローンが謎の失踪事件を追う中で、老学者ロバート・サイダムの秘密結社に行き着く過程が、都市の下層に潜む集合的な悪意として描かれる。地下納骨堂の発見・崩壊に至る終盤の展開が読みどころ。

よくある誤解・設定の食い違い

Q. レッド・フックは完全な架空の地名ですか?A. いいえ。ニューヨーク市ブルックリン区に実在する港湾地区の地名がそのまま使われています。ラヴクラフトが実際に見聞きした光景を基に、恐怖小説の舞台として脚色したものです。

Q. サイダムの結社が信仰する神格は何ですか?A. 作中では具体的な神格名は明言されません。地下祭儀場の描写から旧支配者級の存在への信仰が示唆されるのみで、断定的な設定はありません。

出典

  • [1] “Red Hook is a maze of hybrid squalor near the ancient waterfront opposite Governor’s Island, with dirty highways climbing the hill from the wharves to that higher ground where the decayed lengths of Clinton and Court Streets lead off toward the Borough Hall.”(訳: 「レッド・フックはガヴァナーズ島の対岸、古い波止場近くに広がる雑種的な不潔の迷路であり、波止場から高台へと汚れた大通りが這い上り、その先ではクリントン街・コート街の荒廃した一角がボロー・ホールへと延びている」) — H. P. Lovecraft, “The Horror at Red Hook”(1925年執筆/1927年発表), 公式アーカイブ ↩
  • [2] “The population is a hopeless tangle and enigma; […] fragments of Scandinavian and American belts lying not far distant.”(訳: 「住民は絶望的にもつれ合った謎である。[中略]そこから遠からぬところにスカンジナビア系・アメリカ系の一帯の断片が横たわっている」。中略部は出身地ごとの住民を列挙する箇所で、現在は蔑称とされる語を含むため引用しない) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [3] “There was a tunnel from this house to a crypt beneath the dance-hall church; a crypt accessible from the church only through a narrow secret passage in the north wall, and in whose chambers some singular and terrible things were discovered. The croaking organ was there, as well as a vast arched chapel with wooden benches and a strangely figured altar.”(訳: 「この家からダンスホール教会の地下納骨堂へ通じる隧道があった。その納骨堂は教会側からは北壁の狭い秘密通路を通じてのみ到達可能であり、その各室では単数・恐るべきものが発見された。軋むオルガンがそこにあり、木製の長椅子と奇怪な意匠の祭壇を備えた広大なアーチ状の礼拝堂もあった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [4] “It is a babel of sound and filth, and sends out strange cries to answer the lapping of oily waves at its grimy piers and the monstrous organ litanies of the harbour whistles.”(訳: 「それは物音と汚穢のバベルであり、脂ぎった波が薄汚れた埠頭に打ち寄せる音と、港の汽笛が奏でる怪物じみたオルガンの連禱に応えて、奇怪な叫びを送り出している」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [5] “Its houses are mostly of brick, dating from the first quarter to the middle of the nineteenth century.”(訳: 「地区の家々は大半が煉瓦造りで、十九世紀の最初の四半期から半ばにかけて建てられたものである」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [6] “Visible offences are as varied as the local dialects, and run the gamut from the smuggling of rum and prohibited aliens through diverse stages of lawlessness and obscure vice to murder and mutilation in their most abhorrent guises. More people enter Red Hook than leave it—or at least, than leave it by the landward side.”(訳: 「表沙汰になる犯罪は土地の方言と同じくらい多様であり、酒や禁制の入国者の密輸から、様々な段階の無法と得体の知れぬ悪徳を経て、最も忌まわしい形の殺人・傷害にまで及ぶ。レッド・フックに入る者は、そこを出て行く者よりも多い——少なくとも、陸路を通って出て行く者よりは」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [7] “He had for some time been detailed to the Butler Street station in Brooklyn when the Red Hook matter came to his notice.”(訳: 「彼はしばらく前からブルックリンのバトラー街警察署に配属されており、そこでレッド・フックの一件が彼の注意を引くこととなった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [8] “…the collapse of certain squalid brick houses in the Red Hook section of Brooklyn, and the consequent death of many brave officers, had unseated his nervous equilibrium.”(訳: 「ブルックリンのレッド・フック地区にあるむさ苦しい煉瓦家屋が崩落し、その結果多くの勇敢な警官が死亡したことで、彼は神経の均衡を失った」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [9] “Police methods are varied and ingenious. Malone, through unostentatious rambles, carefully casual conversations, well-timed offers of hip-pocket liquor, and judicious dialogues with frightened prisoners, learned many isolated facts about the movement whose aspect had become so menacing.”(訳: 「警察の手法は多様で巧妙である。マローンは、目立たない散策、さりげなさを装った会話、時機を見た酒の提供、怯えた被疑者との思慮深い対話を通じて、次第に不穏さを増していたこの動きについて、断片的な事実を数多く知ることとなった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [10] “…it was deemed necessary to compute their numbers, ascertain their sources and occupations, and find if possible a way to round them up and deliver them to the proper immigration authorities.”(訳: 「彼らの人数を数え、出身や職業を確かめ、可能であれば彼らを取りまとめて然るべき移民当局へ引き渡す方法を見つけることが必要と判断された」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [11] “Suydam was a lettered recluse of ancient Dutch family, possessed originally of barely independent means, and inhabiting the spacious but ill-preserved mansion which his grandfather had built in Flatbush.”(訳: 「サイダムは古いオランダ系の家系に生まれた、書物に通じた隠遁者であり、元々はかろうじて生計を立てられる程度の資産しか持たず、祖父がフラットブッシュに建てた広壮だが手入れの行き届かない屋敷に住んでいた」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [12] “When he spoke it was to babble of unlimited powers almost within his grasp, and to repeat with knowing leers such mystical words or names as ‘Sephiroth’, ‘Ashmodai’, and ‘Samaël’. ……in the maintenance of a squalid basement flat in the Red Hook district where he spent nearly every night, receiving odd delegations of mixed rowdies and foreigners, and apparently conducting some kind of ceremonial service behind the green blinds of secretive windows.”(訳: 「彼が口を開けば、手中にほぼ収めたという無限の力について語り、したり顔で『セフィロト』『アシュモダイ』『サマエル』といった神秘めいた言葉や名を繰り返すのだった。……そして、レッド・フック地区の粗末な地下室を維持することに費やしており、彼はそこにほぼ毎晩入り浸っては、雑多な乱暴者や外国人からなる得体の知れぬ来訪者を迎え入れ、秘密めいた窓の緑色のブラインドの奥で何らかの儀式めいた行為を行っていたようである」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [13] “…the paintings and rough inscriptions on the peeling walls of most of the rooms, and the primitive chemical laboratory in the attic, all helped to convince the detective that he was on the track of something tremendous.”(訳: 「大半の部屋の、剥がれかけた壁に描かれた絵や粗雑な書き込み、そして屋根裏にあった原始的な化学実験室——そのすべてが、自分が途方もない何かの手がかりを掴みつつあるという確信を、この刑事に抱かせた」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [14] “Some attended through curiosity, others through duty; but all were suddenly charmed by the dawning grace and urbanity of the former hermit.”(訳: 「好奇心から訪れる者もいれば、義務感から訪れる者もいたが、いずれもこの元隠遁者に芽生えた上品さと物腰の優雅さに、たちまち魅了された」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [15] “The scholar’s connexion with the Red Hook horrors, indeed, was never emblazoned by legal proof; since his death forestalled the inquiry he would otherwise have faced.”(訳: 「この学者とレッド・フックの怪事件との関わりは、結局のところ法的な証拠によって明らかにされることはなかった。彼の死によって、本来受けるはずだった取り調べが行われずに終わったからである」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [16] “Robert Suydam sleeps beside his bride in Greenwood Cemetery. No funeral was held over the strangely released bones, and relatives are grateful for the swift oblivion which overtook the case as a whole.”(訳: 「ロバート・サイダムは、グリーンウッド墓地で花嫁の傍らに眠っている。奇妙にも解き放たれたその骨に対して葬儀は行われず、親族たちは事件全体が速やかに忘れ去られたことに安堵している」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
  • [17] “As of old, more people enter Red Hook than leave it on the landward side, and there are already rumours of new canals running underground to certain centres of traffic in liquor and less mentionable things.”(訳: 「相変わらず、レッド・フックへ入る者は陸路から出て行く者より多く、酒や、口にするのもはばかられるものを運ぶ新たな地下水路の噂がすでに流れている」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
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