書籍(英語原著・中編小説。2016年初版/2026年9月17日PENGUIN新版ペーパーバック・日本語版は2019年刊) — The Ballad of Black Tom

The Ballad of Black Tom

H・P・ラヴクラフト「レッド・フックの恐怖」に巻き込まれる黒人青年トミー・テスターの視点から、同じ事件を書き直したヴィクター・ラヴァルの中編。2016年にTor.comから刊行され、Penguinが2026年9月17日に英国で新ペーパーバック版を出す。原典が実際に何を「恐怖」として書いたかを、確認できた原文と公式紹介文で突き合わせる。

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概要

ヴィクター・ラヴァル『The Ballad of Black Tom』の英国新版が、2026年9月17日に紙・電子・音声の3形式で発売された。ペーパーバックはPenguin、160ページ、197mm×11mm×126mm、108g、£9.99、ISBNは9781804999899[1]。電子版はTransworld Digital、160ページ、£5.99、ISBNは9781529986457[11]。音声版も同じTransworld Digitalから、朗読はKevin R. Free、190分、£14.00、ISBNは9781529994179である[2]。

本作は新作ではない。初版は2016年、米国のTor.comから中編小説として刊行されている。Publishers Weeklyの書誌情報によれば、初版の仕様はトレードペーパーバック、155ページ、価格12.99ドル、ISBNは978-0-7653-8786-8だ[3]。今回のPenguin版は、10年を経てのペーパーバック再刊にあたる。日本語版もすでに存在する。東宣出版の公式ページによれば、藤井光訳『ブラック・トムのバラード』が2019年12月2日に刊行されており、定価1800円(税抜)、四六判変形・並製・169頁、ISBNは978-4-88588-099-5である[8]。

Penguinはこの作品を「an atmospheric historical horror which reimagines and reclaims the Lovecraftian Mythos(雰囲気濃厚な歴史ホラーであり、ラヴクラフト神話を再想像し、取り戻す作品)」と紹介している[1]。「取り戻す(reclaims)」という一語が、この作品の立ち位置を言い当てている。土台にあるのは、H・P・ラヴクラフトが1925年に書いた短編「レッド・フックの恐怖」だ。当サイトが同作の記事で確認した通り、この短編はラヴクラフトの中でも移民街への偏見がもっとも露骨に出た一篇であり、ブルックリンの港湾地区レッド・フックの住民を「暗い、微妙な顔の海」と、パーカー・プレイスに集う人々を「エリス島が賢明にも送り返した、名もなく分類もされないアジアの澱」と地の文で書いている。ラヴァルの中編は、この原典の91年後に書かれ、同じ事件を、脅威として描かれた側の青年の視点から語り直す。

どんな作品か

Penguin公式ページのあらすじは次の通りだ。「In New York City, at the height of the Harlem Renaissance, Charles Thomas Tester hustles to put food on the table and keep a roof over his father’s head.(ハーレム・ルネサンス最盛期のニューヨーク。チャールズ・トーマス・テスターは、食い扶持を稼ぎ父の頭上に屋根を保つため、あくせく立ち回っている)」[1]。テスターはギターケースを小道具に、白人富裕層とその手先の警官の目を欺きながら日銭を稼ぐ青年として紹介される。「But when he delivers an occult tome to a reclusive sorceress in the heart of Queens, Tom opens a door to a deeper realm of magic and earns the attention of things best left alone.(だが、クイーンズの奥にひきこもる女魔術師にオカルトの古書を届けたとき、トムはより深い魔術の領域への扉を開き、放っておくべきものたちの注意を引いてしまう)」[1]。

日本語版元の東宣出版が公開しているあらすじは、これをもう一段具体的に伝えている。「1924年、ニューヨーク ハーレムに住むアフリカ系の若者トミー・テスターは、根強い社会的差別のなか自分なりに稼ぐ手段として、街角でギターの弾き語りをするふりをし、その実怪しげな仕事を引き受けている」。「ある日、ブルックリンにある墓地の前で歌うトミーのもとに、ロバート・サイダムと名乗る白人の老人が、自宅で開くパーティで演奏してくれたら高額な報酬を払うと声をかけてきた」[8]。ロバート・サイダムという名は、原典「レッド・フックの恐怖」の中心人物と同じである。同ページはさらに、トーマス・マロウン刑事、私立探偵ハワード、父親の死、霊を呼び出す歌、「海原の底に眠る王」、「〈至上のアルファベット〉」という語を挙げ、これらが物語を動かす要素だとしている[8]。

当サイトはラヴァルの中編そのものを読んでおらず、この筋書きの先——サイダムの真の目的、テスターがどう選択するか、「眠る王」の正体が本文でどう扱われるか——を独自に語ることはしない。ここで確認できるのは、公式に開示された範囲の設定だけである。

原典が「暗い、微妙な顔の海」と書いた場所に、実際に住んでいた作家

原典との対比を進める前に、押さえておくべき事実がある。ラヴクラフト自身が、レッド・フックのすぐそばに実際に住んでいたという事実だ。公式アーカイブの伝記ページによれば、ラヴクラフトは1924年3月、結婚したソニア・グリーンのブルックリンの部屋に移り住んだ。1925年1月1日にソニアが仕事のためクリーブランドへ発つと、ラヴクラフトは「レッド・フックと呼ばれるうらぶれたブルックリン地区の近くの、単身用のアパート」に移った[9]。「レッド・フックの恐怖」が書かれたのは、その年の8月1〜2日である[10]。つまりこの短編は、ラヴクラフト自身がレッド・フックのすぐそばに一人で暮らしていた時期に、その暮らしの中から書かれている。プロビデンスへ帰郷したのは1926年4月17日で、ブルックリン滞在はおよそ2年に及んだ[9]。

その2年間に何を見て何を書いたかは、原典の記事で確認した通りだ。刑事マローンの視点を借りて語られるパーカー・プレイスの集団についての記述——出自を「ペルシャの悪魔崇拝者の最後の生き残り、ヤジディの土地」ではないかと推測する箇所も含め——は、本文が「彼は推測した(he conjectured)」と刑事の内心として書いている。だが、地の文の「暗い、微妙な顔の海」という形容そのものは、刑事の内心にとどまらない。当サイトは既存記事で、この点を作品の欠点として明記している。ラヴァルの中編は、この地の文の側に立って書かれた原典の91年後、その視線が向けられていた側の人物を主人公に据えて書かれている。

出版形態でたどる、この作品の9年

『The Ballad of Black Tom』がどう読まれてきたかは、版の重なりからも見える。2016年のTor.com版は155ページのペーパーバック(12.99ドル)としてまず流通した[3]。Publishers Weeklyは刊行前レビューで、この作品を「LaValle…cleverly retcons H.P. Lovecraft’s infamous story ‘The Horror at Red Hook,’ retelling it with a new protagonist (the titular Charles Thomas Tester, a splendidly Lovecraftian name)(ラヴァルは、H・P・ラヴクラフトの悪名高い短編『レッド・フックの恐怖』を巧みに読み替え、新しい主人公——表題にもなっているチャールズ・トーマス・テスターという、いかにもラヴクラフト風の名を持つ人物——によって語り直している)」と評した。同レビューは「Those familiar with Lovecraft’s (weaker) story might get a little more from this novella, but it stands well on its own.(ラヴクラフトの、出来としては劣る原作を知っている読者はこの中編からより多くを受け取れるかもしれないが、本作は単独でも十分に成立している)」と結んでいる[3]。原典を読んでいなくても読める作品だという評は、当サイトが今回原典との対比記事として書いているこの記事の立て付けとも噛み合う。

2019年には日本語版が東宣出版から刊行された。シリーズ名は「はじめて出逢う世界のおはなし アメリカ編」で、四六判変形・並製・169頁、定価1800円(税抜)である[8]。そして2026年9月17日、Penguinが英国でペーパーバック・電子・音声の3形式を同日に出した[1][2][11]。英語原著だけで見ても、トレードペーパーバック→(日本語訳を挟み)→新装ペーパーバック+電子+オーディオという流通の広がりを、2016年から2026年の10年でたどってきたことになる。日本語で読むなら、2019年の東宣出版版がある。

書く側が変わったことを示す、三つの賞

この作品を語るうえで欠かせないのが受賞歴だ。シャーリイ・ジャクスン賞公式サイトによれば、『The Ballad of Black Tom』(Victor LaValle、Tor.com)は2016年のノヴェラ部門で受賞している[4]。英国幻想協会(British Fantasy Society)の公式受賞作一覧でも、2017年のノヴェラ部門受賞作として同作が明記されている[5]。

一方で、すべての賞を制したわけではない。ヒューゴー賞公式サイトによれば、本作は2017年のベスト・ノヴェラ部門の最終候補6作の一つに残ったが、受賞したのは別の作品(Seanan McGuire『Every Heart a Doorway』)だった[6]。世界幻想文学大賞(World Fantasy Award)の公式サイトでも、本作は2017年のBest Long Fiction部門の最終候補5作の一つとして名を連ねているが、この部門を制したのはKij Johnson『The Dream-Quest of Vellitt Boe』である[7]。この受賞作もまた、ラヴクラフトの『未知なるカダスを夢に求めて』を女性の視点から語り直した作品だ。2017年の同じ授賞式の候補に、ラヴクラフト作品を語り直す中編が複数並んでいたことになる。

当サイトが「クトゥルフ神話は誰のものになったのか」で確認した通り、かつて恐怖の対象として描かれてきた側の作家たちが、自らの言葉でこの神話を書き直す動きは、2026年のNecronomiCon Providenceでも語られていたテーマである。『The Ballad of Black Tom』の受賞歴は、その動きが2017年の段階ですでに主要な文学賞の選考に届いていたことを示す一例として読める。

原典との距離(神話の三層のどこに立つか)

当サイトの区分では、原典(第1層)・ダーレス以降の拡張(第2層)・TRPGによる拡張(第3層)を分けて記録している。この観点で言えば、『The Ballad of Black Tom』はそのどれとも異なる位置に立つ。神格の系譜を追加したダーレス系の拡張でもなければ、数値化・カタログ化を必要としたTRPG設定でもない。土台にしているのは、ラヴクラフト自身が書いた第1層の一篇「レッド・フックの恐怖」そのものであり、同じ事件を別の視点から書き直す、翻案・批評的再解釈の仕事である。

当サイトが「クトゥルフ神話、解釈の4時代」で整理した4つの時代――ラヴクラフト自身の原典、ダーレスによる体系化、リン・カーターらによる新神格の追加、TRPGによる数値化――は、いずれも神話の「中身」を足す作業だった。ラヴァルの仕事はそれらとは別の軸にある。原典が誰の視点で書かれ、誰が「恐怖」の側に置かれていたかという構造そのものを問い直す仕事だ。固有名詞を足さずにラヴクラフト的な雰囲気だけを立ち上げる作品を扱った当サイトの「固有名詞のないラヴクラフト」が、設定を増やさない方向のラヴクラフト受容を扱っているのと同様に、この作品も神話体系の拡張とは別の系譜に属する。

なお、原典に実名で登場するロバート・サイダムやレッド・フックという地区名を、本作がどこまで忠実に引き継ぎ、どこから改変しているかは、当サイトが本文を読んでいないため確認できない。東宣出版の紹介文にある「海原の底に眠る王」が、原典やのちの「クトゥルフの呼び声」の神格を指すのか、本作独自の存在なのかも、公式に開示された範囲では判断がつかない。

関連して読むなら

出典

  • [1] Penguin(英国)公式商品ページ「The Ballad of Black Tom by LaValle, Victor」(2026年9月9日取得)。発売日「17/09/2026」、ページ数「160 pages」、価格「£9.99」、ISBN「9781804999899」、出版社「Penguin」、紹介文冒頭「In New York City, at the height of the Harlem Renaissance, Charles Thomas Tester hustles to put food on the table and keep a roof over his father’s head」、「But when he delivers an occult tome to a reclusive sorceress in the heart of Queens, Tom opens a door to a deeper realm of magic and earns the attention of things best left alone」、キャッチコピー「The Ballad of Black Tom is an atmospheric historical horror which reimagines and reclaims the Lovecraftian Mythos」を確認。https://www.penguin.co.uk/books/480563/the-ballad-of-black-tom-by-lavalle-victor/9781804999899 ↩
  • [2] Penguin New Zealand公式商品ページ(2026年9月9日取得)。オーディオダウンロード版の発売日「17 September 2026」、価格「$28.00」(現地表示額)、H・P・ラヴクラフト「The Horror at Red Hook」の語り直しである旨の紹介文を確認。ナレーター名の記載はなし。https://www.penguin.co.nz/books/the-ballad-of-black-tom-9781529994179 ↩
  • [3] Publishers Weekly「The Ballad of Black Tom by Victor LaValle」書誌ページ(2026年9月9日取得)。出版社「Tor.com」、価格「$12.99」(トレードペーパーバック)、ページ数「155」、ISBN「978-0-7653-8786-8」、レビュー日「2015年12月21日」、レビュー本文「LaValle (The Devil in Silver) cleverly retcons H.P. Lovecraft’s infamous story ‘The Horror at Red Hook,’ retelling it with a new protagonist (the titular Charles Thomas Tester, a splendidly Lovecraftian name)」および「Those familiar with Lovecraft’s (weaker) story might get a little more from this novella, but it stands well on its own」を確認。https://www.publishersweekly.com/978-0-7653-8786-8 ↩
  • [4] The Shirley Jackson Awards公式サイト「2016 Shirley Jackson Award Winners」(2026年9月9日取得)。ノヴェラ部門受賞作として「Winner: The Ballad of Black Tom, Victor LaValle (Tor.com)」の記載がある。https://www.shirleyjacksonawards.org/award-winners/2016-shirley-jackson-award-winners/ ↩
  • [5] The British Fantasy Society公式サイト「BFA Winners」(2026年9月9日取得)。2017年のノヴェラ部門に「Novella: The Ballad of Black Tom (Tor.com Publishing), Victor LaValle」と明記されている。https://britishfantasysociety.org/about-the-bfs/the-british-fantasy-awards/bfa-winners/ ↩
  • [6] The Hugo Awards公式サイト「2017 Hugo Awards」(2026年9月9日取得)。ベスト・ノヴェラ部門の最終候補6作の一つに本作が含まれ、受賞したのは別の作品(Seanan McGuire『Every Heart a Doorway』)だったと分かる。https://www.thehugoawards.org/hugo-history/2017-hugo-awards/ ↩
  • [7] World Fantasy Convention公式サイト「2017 World Fantasy Awards™ Finalists」および「World Fantasy Awards℠」受賞発表ページ(2026年9月9日取得)。Best Long Fiction部門の最終候補5作の一つに本作が含まれること、同部門の受賞作がKij Johnson『The Dream-Quest of Vellitt Boe, Kij Johnson (Tor.com Publishing) (winner)』だったことを、それぞれのページで確認した。https://worldfantasy.org/2017-world-fantasy-awards%E2%84%A0-finalists/ / http://www.worldfantasy.org/awards/most-recent/ ↩
  • [8] 東宣出版公式サイト「ブラック・トムのバラード」書籍ページ(2026年9月9日取得)。訳者「藤井光」、発行「2019年12月2日」、定価「1800円(税抜き)」、仕様「四六判変形/並製/169頁」、ISBN「978-4-88588-099-5」、シリーズ名「はじめて出逢う世界のおはなし アメリカ編」、あらすじ本文(「1924年、ニューヨーク ハーレムに住むアフリカ系の若者トミー・テスターは……」)、著者ヴィクター・ラヴァルの経歴(1972年生、ニューヨーク・クイーンズ出身、コーネル大学卒、コロンビア大学大学院創作科修了、2009年『Big Machine』でシャーリィ・ジャクスン賞長編部門受賞、本作で同賞中編部門受賞、2017年『The Changeling』で世界幻想文学大賞長編部門受賞)が掲載されている。http://tousen.co.jp/1132 ↩
  • [9] H. P. Lovecraft Archive公式サイト「A Brief Biography」(2026年9月9日取得)。ラヴクラフトが1924年3月にソニア・グリーンのブルックリンの部屋に移り住んだこと、1925年1月1日にソニアがクリーブランドへ発った後「レッド・フックと呼ばれるうらぶれたブルックリン地区の近くの単身用アパート」に移ったこと、1926年4月17日にプロビデンスへ帰郷したことが記されている。https://www.hplovecraft.com/life/biograph.aspx ↩
  • [10] 当サイト「レッド・フックの恐怖」記事、および H. P. Lovecraft Archive小説年表。「レッド・フックの恐怖」の執筆時期(1925年8月1〜2日)、原典の地の文「暗い、微妙な顔の海」「エリス島が賢明にも送り返した、名もなく分類もされないアジアの澱」、パーカー・プレイスの集団の出自についてマローンの内心として書かれた推測箇所を、それぞれ確認した。https://shinenshoka.com/lovecraft/the-horror-at-red-hook/ / https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/hrh.aspx ↩
  • [11] Penguin Books UK「The Ballad of Black Tom」電子版 商品ページ(取得日 2026-09-17) — penguin.co.uk ↩

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