固有名詞のないラヴクラフト——『Ritual Tides』はなぜ”Lovecraftian”なのか
公式が「Lovecraftian」と名乗り、神話の名前を一つも出さないゲーム
2026年8月27日、gamescom に合わせた発表番組「Future Games Show: gamescom 2026」で、Vertpaint Games がホラーアドベンチャー『Ritual Tides』の新しいゲームプレイ映像を公開した[1]。
公式ストアページは、この作品をこう説明している。「fight for survival against Lovecraftian horrors」——ラヴクラフト的な恐怖と戦って生き延びろ[2]。ユーザーが付けたタグにも “Lovecraftian” が並ぶ[2]。
ところが、公開されている情報のどこを見ても、クトゥルフの名前は出てこない。アーカムもインスマスも、ネクロノミコンも、旧支配者も外なる神も出てこない。代わりに置かれているのは、次の三つの固有名詞だけである[2]。
- Hortus — 英国沖にある、ヴィクトリア朝風の孤島
- The Fallow Parish — その島のカルト
- Mother Hortus — 島に関わる存在
いずれもクトゥルフ神話の語彙ではない。この作品のために作られた名前である。
ここに、深淵書架がずっと扱ってきた問いが、きれいな形で現れている。神話の固有名詞を一つも使わずに「ラヴクラフト的」と名乗ることは、なぜ成立するのか。
映像で確認できること、まだ確認できないこと
先に事実を分けておく。新しい映像から確認できるのは、強い造形のクリーチャー、島の異様な住人、旧式の火器を使った戦闘、崖を使ったステルスといった要素である[1]。舞台はカルトの住む英国の島で、開発はPC(Steam)向けに進んでいる[1]。日本語はインターフェイスと字幕の両方に対応予定と公式ストアページに記載がある[2]。
発売日は「近日公開」の表示にとどまり、確定していない[2]。したがってここでは内容の評価はしない。できるのは、公開されている素材から「何をラヴクラフト的と呼んでいるのか」を読むところまでである。
「ラヴクラフトらしさ」を測る三つの物差し
深淵書架では以前、映画を対象に同じ問いを扱った。ラヴクラフトらしい映画とは何かで整理したのは、判定に使われている物差しが実際には三種類ある、という点だった。
1. 見た目で決める — 触手、粘液、名状しがたい造形があるか2. 出典で決める — ラヴクラフトの作品を原作にしているか3. 効果で決める — 読者・観客の側で何が壊れるか
『Ritual Tides』は、この三つのうち二つを最初から捨てている。原作は無いので②では測れない。①の見た目についても、公開されている範囲では「強烈なビジュアルのクリーチャー」がいると分かるだけで、それが神話的な造形かどうかは判定材料が足りない[1]。
残るのは③だけである。そして公式が “Lovecraftian” と名乗るとき、指しているのはほぼ確実にこの③だ。
ラヴクラフト自身は、何を条件にしたか
では③の中身は何か。これはラヴクラフト本人が書き残している。評論『文学における超自然の恐怖』(1927年)の一節である。
“A certain atmosphere of breathless and unexplainable dread of outer, unknown forces must be present; and there must be a hint, expressed with a seriousness and portentousness becoming its subject, of that most terrible conception of the human brain—a malign and particular suspension or defeat of those fixed laws of Nature which are our only safeguard against the assaults of chaos and the daemons of unplumbed space.” (訳: 外部の未知の力に対する、息を詰めるような、説明のつかない怖れの空気が無ければならない。そして、題材にふさわしい真剣さと重々しさをもって、人間の頭脳が抱きうる最も恐ろしい観念——測り知れぬ空間の混沌と魔物の襲撃から我々を守る唯一の盾である自然法則が、悪意をもって、特定の形で停止され、あるいは破られること——が示されなければならない)[3]
この定義に、固有名詞は一つも出てこない。 神格の名前も、書物の名前も、町の名前も条件になっていない。条件は「未知の外部への怖れ」と「自然法則が破られる示唆」の二つだけである。
同じ評論の冒頭で、ラヴクラフトはこうも書いている。「人類最古にして最強の感情は恐怖であり、最古にして最強の恐怖は未知への恐怖である」[4]。ここでも名前は要らない。むしろ名前が付いた瞬間、それは「未知」ではなくなる。
固有名詞なしで組み立てられる四つの部品
そう考えると、『Ritual Tides』が公開しているだけの情報でも、③の条件を満たす部品が揃っていることが分かる。
孤立した土地。 Hortus は英国沖の島で、外部から切り離されている[2]。ラヴクラフトが繰り返し使った装置——インスマス、ダンウィッチ、ニューイングランドの奥地——と同じ位置にある。助けが来ない場所では、自然法則が破られても外の世界は気づかない。
閉じた共同体とカルト。 The Fallow Parish[2]。土地の住人が何かを知っていて、訪問者だけが知らない、という非対称は、ラヴクラフト作品の基本構造である。
理解を拒む存在。 Mother Hortus[2]。名前は与えられているが、それは分類ではなく呼び名である。神話の階層表(旧支配者/外なる神/旧神)に入れられる名前とは働きが違う。この違いは神話の三層構造で扱った「分類は原典に無い」という話と地続きで、名前を与えて整理する行為そのものが、ラヴクラフト以後に足されたものだった。
知るほど問いが増える構造。 これは映像だけでは断定できないので、確認できたら追記する。
ゲームでは、三つ目の物差しが変質する
ここまでは映画の議論をそのまま持ち込んだが、ゲームには一点だけ事情が違うところがある。遊ぶ側が手を出せるという点である。
映画や小説では、③の「自然法則が破られる」は語り手の認識の中で起きればよい。読者は見ているだけだからだ。ところがゲームでは、プレイヤーは操作できてしまう。撃てる、走れる、隠れられる。操作できるということは、対処できるということでもある。 対処できる相手は、定義上「測り知れぬ空間の魔物」ではなくなる。
だからラヴクラフト的を名乗るゲームは、たいていプレイヤーの手を意図的に弱くする。ここに、映像で確認できた要素が効いてくる。
『Ritual Tides』で見えているのは、旧式の火器と、崖を使ったステルスだった[1]。旧式の火器は連射が効かず、装填に時間がかかる。ステルスが用意されているということは、正面から戦って勝つ設計になっていない可能性が高い。「戦って倒す」から「見つからずにやり過ごす」へ重心が移るほど、プレイヤーは事態を制御する側から観察する側へ押し戻される。
これは演出の好みの問題ではなく、③の条件を満たすための構造的な要請である。プレイヤーが強すぎるゲームは、どれだけ神話の固有名詞を並べても宇宙的恐怖にならない。逆に、名前を一つも借りなくても、手の届かなさを設計できていれば条件は満たされる。公式が “Lovecraftian” と名乗るとき賭けているのは、おそらくこの部分である。
逆は成り立たない——名前があっても、ラヴクラフト的とは限らない
ここまでの裏返しも言っておきたい。神話の固有名詞が出てくることは、ラヴクラフト的であることの保証にならない。
クトゥルフの名を出し、ネクロノミコンを小道具に使い、触手を生やしても、上の定義に照らせば足りないものがある。自然法則が破られず、未知が最後まで未知のままでなければ、それは怪物の出てくる冒険譚であって、宇宙的恐怖ではない。深淵書架が神格記事で「原典では」「後世の設定では」と層を分けて書いているのも、名前の有無と恐怖の質が別々に動くからである。
固有名詞は、ラヴクラフトの語彙であって、条件ではない。語彙を借りずに条件だけを満たす作品があり、語彙だけを借りて条件を満たさない作品もある。『Ritual Tides』は前者を名乗っている、というのが現時点で言えることである。
この作品をどう追うか
発売日が決まっていない以上、深淵書架として今できるのは、公開情報の範囲で位置づけを記録しておくことだけである。発売後に確認したいのは一点、「知るほど問いが増える」構造が実装されているかである。
その一点が、②の物差し(原作があるか)を持たない作品にとって、”Lovecraftian” を名乗り続けられるかどうかの分かれ目になる。
関連記事
- ラヴクラフトらしい映画とは何か — 同じ問いを映画で扱った。三つの物差しの初出はこちら
- 宇宙的恐怖とは何か — ラヴクラフト自身の定義を原文で確認する
- クトゥルフ神話とは — 固有名詞の側から入る場合はこちら
- 神話の三層構造 — 「分類」がいつ誰の手で足されたか
出典
- [1] 「Vertpaint Gamesは、2026年8月27日に行われた新作ゲーム情報発表イベント『Future Games Show: gamescom 2026』配信にて、ホラーADV『Ritual Tides』のゲームプレイトレイラーを公開しました」。映像では強烈なビジュアルのクリーチャー、島の住人、崖を使ったステルス、旧式火器による戦闘が確認できる。「『Ritual Tides』は、PC(Steam)向けに開発中です」 — Game*Spark(2026年8月27日、2026年8月27日確認), 該当記事 ↩
- [2] 開発・販売はいずれも Vertpaint。ストアページの説明文に “fight for survival against Lovecraftian horrors.” とあり、ユーザータグにも “Lovecraftian” が含まれる。舞台は “remote Victorian island off the British coast” である Hortus 島、カルトは The Fallow Parish、存在の呼称は Mother Hortus。日本語はインターフェイス・字幕ともに対応と記載。発売日は “Coming soon” — Steam 公式ストアページ(2026年8月27日確認), Ritual Tides on Steam ↩
- [3] “A certain atmosphere of breathless and unexplainable dread of outer, unknown forces must be present; and there must be a hint, expressed with a seriousness and portentousness becoming its subject, of that most terrible conception of the human brain—a malign and particular suspension or defeat of those fixed laws of Nature which are our only safeguard against the assaults of chaos and the daemons of unplumbed space.” — H. P. Lovecraft, “Supernatural Horror in Literature”(1927年), hplovecraft.com ↩
- [4] “The oldest and strongest emotion of mankind is fear, and the oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown.”(訳: 「人類最古にして最強の感情は恐怖であり、最古にして最強の恐怖は未知への恐怖である」) — 同上(1927年、冒頭の一文), hplovecraft.com ↩
- [5] 本記事は発売前の作品を扱っており、内容の評価はしていない。公開されている映像とストアページの記載から読み取れる範囲にとどめ、確認できていない事項(「知るほど問いが増える」構造の実装、弾薬管理の仕様、クリーチャーの由来)は断定していない ↩
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