一行で言うと
クトゥルフ神話とは、H・P・ラヴクラフト(1890-1937)と彼の友人たちが、互いの作品で固有名詞と設定を貸し借りしながら育てた、共有された架空の神話体系である。
ここで先に、いちばん多い誤解を解いておきたい。
- 「クトゥルフ神話」という名前を、ラヴクラフト自身は使っていない。後世の命名である
- 公式設定は存在しない。誰かが決めた「正しい設定」という中心がない
- クトゥルフは最強の存在でも、最上位の神でもない。数ある存在の一柱で、作中の肩書きは「大いなる祭司」である
この三つを押さえるだけで、ネット上の情報の見え方がかなり変わる。以下、順に説明する。
なぜ「クトゥルフ」神話と呼ばれるのか
ラヴクラフトは、自分の作品群にまとまった名前を付けなかった。彼が手紙などで使ったのは「ヨグ=ソトース譚」といった呼び方で、体系の名前としては定着していない。
「クトゥルフ神話(Cthulhu Mythos)」という呼称を広めたのは、彼の死後に作品を出版し続けたオーガスト・ダーレスである。経緯は「クトゥルフ神話」という呼称の成立にまとめてある。
なぜ「クトゥルフ」が選ばれたのかというと、1928年に発表された「クトゥルフの呼び声」が代表作として広く読まれたからである。作品の知名度が、体系の名前になった。
つまり呼び名の時点で、すでに後世の手が入っている。
三つの層に分けて考える
クトゥルフ神話を調べていて混乱するのは、時代の違う情報が同じ平面に並んでいるからである。当サイトは次の三層に分けて記録している。詳しくは三層で読み解くクトゥルフ神話を参照。
| 層 | 時期 | 誰が作ったか | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 原典 | 1917-1937 | ラヴクラフトと同時代の文通仲間 | 体系が整っていない。分類も上下関係も曖昧なまま |
| ダーレス以降の拡張 | 1939- | オーガスト・ダーレスと後続作家 | 分類と善悪が整理された。旧神という対抗勢力が導入された |
| TRPG | 1981- | ゲームデザイナー | 数値と一覧が与えられた。遭遇表、能力値、正気度 |
「クトゥルフ神話ではこうなっている」と書かれている情報の多くは、二層目か三層目の話である。それが悪いのではない。どの層の話なのかが分かっていないと、原典を読んだときに食い違うのが問題になる。
原典
ラヴクラフトが書いたのは、体系ではなく個々の物語だった。神格の分類表もなければ、勢力図もない。存在同士の上下関係すら定めていない。
たとえば「クトゥルフの呼び声」でクトゥルフに与えられている肩書きは「大いなる祭司」である。祭司は仕える者を指す語だが、誰に仕えているのかは書かれていない。
この空白の多さが、後の書き手たちに余地を残した。成立の過程はクトゥルフ神話はどう形成されたかとラヴクラフト・サークルと後続作家による神話拡張で扱っている。
ダーレス以降
ラヴクラフトの死後、彼の作品を世に出し続けたのがオーガスト・ダーレスである。彼は遺された多様な存在群を整理し直し、旧支配者対旧神という善悪の対立構造を導入した。
原典に、善なる神はいない。この枠組みは後付けである。ただしこの整理によって神話は物語として扱いやすくなり、後の作品群に広く採用された。評価が分かれる論点でもある。
分類用語の整理は旧支配者・外なる神・旧神——神格の分類用語を整理するにある。
TRPG
1981年、テーブルトークRPG『クトゥルフの呼び声』が発売される。ゲームには遭遇表が要り、モンスターには数値が要る。こうして神話の存在は、比較可能な項目を持つ対象になった。
日本で「クトゥルフ神話」という語に触れる入口は、今日ではこのTRPGであることが多い。小説とTRPGの違いはクトゥルフ神話とクトゥルフ神話TRPG——何が違うのかで扱っている。両者は別物である。たとえば小説側に「技能」も「SAN値」も存在しない。
中心にある考え方——宇宙的恐怖
神格の名前を覚えるより先に押さえておきたいのが、この神話が何を怖がっているかである。
宇宙的恐怖(コズミックホラー)とは、怖いものが出てくることではない。幽霊や怪物に襲われる恐怖とは種類が違う。
中心にあるのは「人間は宇宙の中で特別ではない」と知ってしまうことである。宇宙には人間より遥かに古く大きな存在がいて、しかもこちらに関心がない。憎まれてすらいない。敵意すら向けられないという事実が、この恐怖の核にある。
だから原典の物語は、たいてい「戦って勝つ」形にならない。逃げるか、壊れるか、記録を残して終わるかである。詳しくは「宇宙的恐怖」とは何かを参照。
名前を知っておくと読みやすくなるもの
体系を暗記する必要はない。ただ、よく出てくる名前をいくつか知っていると、どの作品を読んでも迷いにくくなる。代表的なものを挙げる。各項目は当サイトの個別記事へつながっている。
存在
| 名前 | どういう存在か | 初出の主な作品 |
|---|---|---|
| クトゥルフ | 海底都市ルルイエで眠り続ける。星の位置が正しくなると目覚めるとされる | クトゥルフの呼び声(1928) |
| ニャルラトホテプ | 這い寄る混沌。人間の姿で人間の前に現れる唯一の存在 | ニャルラトホテプ(1920、散文詩) |
| アザトース | 宇宙の中心で盲目のまま蠢くとされる。後世の整理では最上位に置かれる | 書簡・断片ほか |
| ヨグ=ソトース | 「門であり、鍵であり、門の守護者」と描写される | ダニッチの怪(1929) |
| シュブ=ニグラス | 異名は「千匹の仔を孕みし森の黒山羊」。姿の描写はほぼ無い | 呪文の中の名として |
| ハスター | 三人の作家の手を経て現在の姿になった。クトゥルフと対立する設定は後付け | ハスターの記事参照 |
| 深きものども | 海に棲む種族。人間と交わり、混血の子孫を残す | インスマスを覆う影(1936) |
| ショゴス | 決まった形を持たない原形質。作られた奉仕種族が反逆した | 狂気の山脈にて(1936) |
この表を見るだけでも、「初出の主な作品」がばらばらであることが分かる。体系が先にあって神格が配置されたのではなく、別々の物語に出てきたものが後から並べられたという順序である。
魔道書
作中に登場する架空の書物。いずれも実在しない。
- ネクロノミコン — 最も有名。成立年代・著者・翻訳の系譜まで書き込まれている
- 無名祭祀書 — ロバート・E・ハワードの創造。ラヴクラフトではない
- エイボンの書 — クラーク・アシュトン・スミスの創造
- ルルイエ異本
魔道書が複数あることには意味がある。一冊だけなら単なる小道具だが、別々の著者・別々の言語・別々の時代の書物が矛盾しながら並んでいると、そこに研究すべき分野が存在することになる。
場所
- ルルイエ — 海底に沈む都市。角度が人間の常識どおりに働かない構造として書かれる
- アーカム — 物語の舞台になる架空の町。ミスカトニック大学がある
- インスマス — 寂れた港町。住民は世代を重ねるごとに姿を変える
- ダニッチ — 丘に囲まれた寒村
- カダス — 夢の国にあるとされる場所
原典の代表作5本
最初に読むならこのあたり、という作品を挙げる。どれも短編か中編で、単独で読める。
| 作品 | 年 | 何が書かれているか |
|---|---|---|
| クトゥルフの呼び声 | 1928 | 遺品整理から始まり、世界各地の記録が一つに繋がる。この神話の代表作 |
| インスマスを覆う影 | 1936 | 寂れた港町を訪れた男が、自分の血統に行き着く |
| ダニッチの怪 | 1929 | 田舎の一族と、生まれてきたもの |
| 狂気の山脈にて | 1936 | 南極探検隊が氷の下に見つけた都市の跡 |
| 宇宙からの色 | 1927 | 隕石から滲み出た、人間が色と呼ぶことしかできなかったもの |
「クトゥルフの呼び声」から入るのが定番だが、恐怖の質でいえば「宇宙からの色」のほうが純度が高いという読み方もある。読む順の考え方はどこから始めるかで扱っている。
公式設定は存在しない
「公式設定ではこうなっている」という言い方は、この神話に関しては成り立たない。
ラヴクラフト自身が体系を定めなかったうえ、彼は友人たちに自分の固有名詞を自由に使わせた。その結果、同じ神格について互いに矛盾する設定が並立している。系譜だけでも、リン・カーター系、クラーク・アシュトン・スミス系、ブライアン・ラムレイ系など複数が並んでいる。
この論点はクトゥルフ神話に「公式設定」は存在するのかで扱った。神話が誰のものになったのかという話はクトゥルフ神話は誰のものになったのかにある。
よくある誤解
Q. クトゥルフが一番強い神ですか。A. いいえ。作中の肩書きは「大いなる祭司」で、最上位ではありません。「最強」という発想自体が後世の整理によるものです。他の誤解はクトゥルフ神話——よくある誤解Q&Aにまとめてあります。
Q. 「クトゥルフ」と「クトゥルー」はどちらが正しいのですか。A. どちらも使われています。日本語への音写は翻訳の経路によって分かれました。TRPG由来の「クトゥルフ」、翻訳書由来の「クトゥルー」などが並立しています。表記揺れの整理は神格名や用語の表記揺れを参照。
Q. ネクロノミコンは実在しますか。A. しません。ラヴクラフトが創作した架空の魔道書です。ただし成立年代や翻訳の系譜まで細かく書き込まれているため、実在すると信じた人が図書館に問い合わせた例があります。ネクロノミコンは実在するのかで扱っています。
Q. 神格は全部で何柱いるのですか。A. 数は定まっていません。誰かが管理している一覧が存在しないためです。後続作家が足し続けてきた結果、資料によって数え方が変わります。当サイトには現時点で84本の神格記事があります。
Q. TRPGを遊ばないと楽しめませんか。A. いいえ。小説だけ読んでも、TRPGだけ遊んでも成立します。ただし両者は別物なので、片方の知識をもう片方に持ち込むと食い違います。そのための整理がクトゥルフ神話とクトゥルフ神話TRPG——何が違うのかです。
Q. どの作品から読めばいいですか。A. 下の「次に読むもの」を参照してください。
クトゥルフ神話は、いまどこにあるか
ラヴクラフトは1937年に46歳で亡くなり、生前は単著の商業出版を見ていない。パルプ誌の一寄稿者として、限られた読者に届く書き手だった。
その名前が、いまや映画・ゲーム・漫画・音楽にまで散っている。なぜそうなったのかには、はっきりした理由がいくつかある。
- 本人が固有名詞の使用を友人たちに許した。囲い込まずに配ったので、書き手が増えた
- 設定に空白が多い。上下関係も善悪も定まっていないぶん、後から足す余地が大きい
- 著作権の状況。主要作品は各国で保護期間を過ぎており、二次的な利用の障壁が低い
この経緯はクトゥルフ神話は誰のものになったのかで扱っている。
日本での広がり方には、さらに固有の事情がある。翻訳書から入った層とTRPGから入った層で、使う表記も知識の順序も違う。同じ「クトゥルフ神話」という語を使いながら、指しているものがずれることがあるのはそのためである。年表は日本におけるクトゥルフ神話の受容史にまとめてある。
当サイトでは、派生作品も記録の対象にしている。原典に忠実な作品だけを並べても、この神話が現在どういう状態にあるかは見えないからである。
- 派生作品総覧の選び方 — ジャンル別に探す
- 原典読解カテゴリーの楽しみ方 — 年代順で辿る
この神話の何が、100年もたせたのか
最後に、入門の締めとして書いておきたいことがある。
この神話には、主人公がいない。シリーズを通した英雄も、倒すべき最終的な敵もいない。語り手は作品ごとに別人で、一度壊れたらもう出てこない。
勝利条件も無い。原典の物語は、逃げるか壊れるか記録を残して終わる。
普通に考えれば、続きにくい構造である。にもかかわらず100年続いたのは、この空白そのものが入り口になっているからだろう。主人公が決まっていないから、誰でも自分の語り手を置ける。体系が定まっていないから、自分の神格を足せる。続けやすいように作られていたのではなく、続けるしかない形をしていたという言い方もできる。
その積み重ねの結果が、いま「クトゥルフ神話」と呼ばれているものである。
次に読むもの
神格どうしのつながりを図で見たい場合はクトゥルフ神話の相関図にまとめてある。どの線がラヴクラフト由来で、どこからがダーレス以降・TRPGの追加なのかを分けて書き出している。
まず神話全体をつかみたい
- 「宇宙的恐怖」とは何か — この神話の中心にある考え方
- 三層で読み解くクトゥルフ神話 — 原典・ダーレス以降・TRPGの分け方
- 旧支配者・外なる神・旧神——神格の分類用語を整理する
原典(小説)を読みたい
- どこから始めるか——初心者向けクトゥルフ神話の読書ルート
- テーマ別に選ぶ原典の読み方 — 宇宙SF系・怪奇伝奇系・幻夢境系
- クトゥルフ神話の本の選び方 — 新訳・全集・図解の違い
TRPGから入りたい
- クトゥルフ神話TRPGとは — SAN値と「知るほど正気を失う」設計
- クトゥルフ神話TRPG 技能一覧 — 全62技能を分類別に引く
- どのクトゥルフ神話TRPGから始める?
歴史をたどりたい
このサイトについて
深淵書架は、クトゥルフ神話を原典・ダーレス以降・TRPGの三層に分けて記録することを方針にしているサイトである。ある記述がどの層から来たのかを、記事ごとに書き分けている。
各コーナーの役割は深淵書架の歩き方にまとめてある。

