この記事の役割
クトゥルフ神話に触れてみようとすると、まずどこから手を付けるかで止まる。100年ぶんの作品があり、作者も一人ではなく、小説とTRPGとゲームが同じ名前で並んでいるからだ。
この記事は入口の地図にあたる。4つの入口を並べ、それぞれがどんな人に向くかを示すのが役目で、詳しい中身はそれぞれの専用記事に譲る。まず自分に合う入口を決めてから、そちらへ進んでほしい。
その前に、一つだけ
クトゥルフ神話は、アメリカの作家H・P・ラヴクラフト(1890-1937)を中心に、複数の作家が書き継いだ短編群である。特徴は怪物の造形ではなく、恐怖の置き方にある。ラヴクラフト自身が1927年の評論で、本物の怪奇小説の条件をこう書いた。
“A certain atmosphere of breathless and unexplainable dread of outer, unknown forces must be present…”(訳: 「息詰まるような、説明のつかない、外部の未知なる力への恐怖の雰囲気が存在せねばならない」)[1]
怖いのは怪物ではなく、世界の前提が崩れること。 これを踏まえておくと、「なぜ主人公は勝たないのか」「なぜ話が解決しないのか」で戸惑わずに済む。詳しくは「「宇宙的恐怖」とは何か」を先に読んでもいい。
4つの入口
入口1: とにかく短時間で全体像をつかむ
向く人: 時間がない。まず「何の話なのか」だけ知りたい。
「クトゥルフ神話入門——最初の3ステップ」が最短ルートになる。読み物を1本も読まないまま、全体の見取り図だけを先に持てる。TRPGのほうが目的なら「クトゥルフ神話TRPG入門」が対になっている。
入口2: 解説本から入る
向く人: 前提知識のないまま小説を読んで、置いていかれるのが不安。
世界観をまとめた本を先に1冊通すやり方である。全体像の中に個別の作品を置きながら読み進められるので、後の理解が早い。どの本を選ぶかは目的によって変わるので、「クトゥルフ神話の本の選び方——新訳・全集・図解、目的別ガイド」に判断基準と対応表をまとめてある。新訳か全集か図解か、あの作品はどの本に入っているか、といった実務的な話はそちらで扱う。
入口3: 代表短編から入る
向く人: 解説より先に、実際の作品を読みたい。
短編なので1本1時間ほどで読める。読み終えてから解説や事典で補うほうが、頭に残りやすい人も多い。どの3本から入るかは次の節に書いた。
入口4: 好みのタイプから選ぶ
向く人: ホラーやSFの好みがはっきりしている。
ラヴクラフト作品は、大きく宇宙SF系・怪奇伝奇系・幻夢境系の三つに分かれる。同じ作者でも読み心地がかなり違うので、好みから入ると外れにくい。「テーマ別に選ぶ原典の読み方」で三つの系統と代表作を並べている。
作品を発表順に辿りたい場合は「原典読解カテゴリーの楽しみ方——年代順で辿るラヴクラフトとその周辺」へ。神話がどう作られていったかが見える読み方になる。
入口5: TRPGから来た人へ
向く人: 卓に誘われた。動画やリプレイで名前を知った。小説は読んでいない。
日本では、この経路で神話に触れる人が多い。原典を読む文化より先に、シナリオを書いて遊ぶ文化として広がってきた経緯があるからで、事情は「日本のクトゥルフはなぜ「書く文化」になったのか」にまとめた。
この入口の人が最初に確認しておくと良いのは、卓で使っている用語のどれが原典由来で、どれがTRPG側の発明かという切り分けである。SAN値(正気度)は後者で、ラヴクラフトの小説に数値としての正気度は無い。原典の登場人物も狂気に陥るが、それは判定の結果ではなく、知ってしまった事実の帰結として書かれる。この違いは「SAN値の「発狂」は原典にあったのか」で扱っている。
切り分けができると、原典を読んだときの発見が増える。「これは卓で見たやつだ」と「これは知らなかった」が分かれるからだ。
順番の例
どの入口を選んでも、そのあと迷うことがある。参考までに、短編から入る場合のモデルを一つ置く。この通りに読む必要はない。
- インスマスの影 — 物語として掴みやすい。恐怖が自分に折り返す形を知る
- 宇宙からの色 — 理解も表現もできないものが、どう書かれるかを見る
- ダニッチの怪 — 人間の側が対抗する例。1と2との違いが分かる
- クトゥルフの呼び声 — ここで起点へ戻る。1〜3で見た型が、最初にどう置かれたかが分かる
- 狂気の山脈にて — 中編。ここまで来たら長さに耐えられる
4番目に起点を置いているのが要点である。 『クトゥルフの呼び声』は神話の出発点だが、出発点は多くの場合、後から振り返って初めて出発点だと分かる。先に何本か読んでおくと、この作品が何を最初に決めたのかが見えるようになる。
最初の1本をどう選ぶか
入口3を選んだ人向けに、具体的な3本を挙げる。どれも短編で、当サイトに解説記事がある。
| 作品 | 向く人 | 読みどころ |
|---|---|---|
| インスマスの影 | 物語として面白いものが読みたい | 寂れた港町の異様さを追ううちに、恐怖の対象が自分自身へ折り返す |
| 宇宙からの色 | SFが好き | 隕石で運ばれてきた「人間の知る色ではない色」。理解も表現もできないものの描き方 |
| ダニッチの怪 | 怪奇伝奇が好き | 血筋と儀式。人間の側が対抗手段を持つ、数少ない例でもある |
最初の1本に『クトゥルフの呼び声』を選ばなくてよい。 神話の起点として名高く重要な作品だが、断片的な資料を突き合わせていく構成のため、初読では「話が進まない」と感じやすい。何本か読んでから戻ると、この作品が何を最初に置いたのかが分かる。
読む前に知っておくと楽になること
- 名前の表記が本によって違う。 「クトゥルフ/クトゥルー」「ニャルラトホテプ/ナイアルラトホテップ」など、訳者によって揺れる。同じ存在だと分かっていれば混乱しない → 神格名や用語の表記揺れ
- 「公式設定」を探しても見つからない。 複数の作家が書き継いだため、矛盾したまま並存している設定が多い。整合を取ろうとすると行き詰まる → よくある誤解Q&A
- 小説とTRPGは別物として読む。 SAN値のように、TRPG側で作られた仕組みが原典にあると思われていることがある → クトゥルフ神話とクトゥルフ神話TRPG——何が違うのか
この三つは、当サイトが記述を原典/ダーレス以降の拡張/TRPGによる拡張の三層に分けて記録している理由でもある。層の考え方そのものは「三層で読み解くクトゥルフ神話」にまとめた。
つまずいたときは
文章が読みにくい。 ラヴクラフトの文体は形容が多く、翻訳もそれを写している。新しい訳や漫画版に切り替えるのは後退ではない。選択肢は本の選び方にある。
固有名詞が覚えられない。 覚えなくていい。当サイトの用語集と事典は、読みながら引くために置いてある。作者そのものに興味が向いたら「H・P・ラヴクラフト」へ。
そもそも神話の全体像が掴めない。 「クトゥルフ神話」という呼び名自体が後から付いたもので、ラヴクラフト本人はそう呼んでいない。その経緯は「「クトゥルフ神話」という呼称の成立と体系化」で扱っている。
出典
- [1] “A certain atmosphere of breathless and unexplainable dread of outer, unknown forces must be present; and there must be a hint, expressed with a seriousness and portentousness becoming its subject, of that most terrible conception of the human brain—a malign and particular suspension or defeat of those fixed laws of Nature which are our only safeguard against the assaults of chaos and the daemons of unplumbed space.”(訳: 「息詰まるような、説明のつかない、外部の未知なる力への恐怖の雰囲気が存在せねばならない。そしてそこには、人間の頭脳が抱きうる最も恐ろしい観念——すなわち、混沌の襲撃と測り知れぬ宇宙の悪魔とに対する唯一の防壁である、あの不変の自然法則が、悪意をもって特異的に停止ないし打ち破られるという観念——への、その主題にふさわしい真剣さと重々しさで語られる暗示がなければならない」) — H. P. Lovecraft, “Supernatural Horror in Literature”(1927年), The H. P. Lovecraft Archive ↩




