編集部注: 本記事は「クトゥルフ神話」という呼称そのものの成立を扱う、文学史の記事です。個々の小説からの引用ではなく、百科事典・研究書・版元の公式資料で確認できる事実で構成しています。
概要
私たちが当たり前のように使う「クトゥルフ神話(Cthulhu Mythos)」という呼び名は、H・P・ラヴクラフト自身が自分の作品世界に付けた名前ではない。
SF Encyclopediaのラヴクラフト項は、彼の後期作品を論じる箇所で、この語について 「a term he did not himself invent(彼自身が作ったのではない語)」 と明記している[1]。呼称は後から付いた。そして、その後から付いた呼称のもとで、神話は半世紀以上にわたって書かれ続けてきた。
基本プロフィール
- 分類: 概念(呼称・文学史)
- 欧文表記: Cthulhu Mythos
- ラヴクラフト自身との関係: 彼が作った語ではない[1]
- 呼称が書名になった最初期の例: オーガスト・ダーレス編のアンソロジー *Tales of the Cthulhu Mythos*(1969年)[2][3]
- 現在の扱い: ケイオシアムが2023年に発表した事典の第4版に、ダン・ハームズによる書き下ろし論考「What is the Cthulhu Mythos?」が収録される[4]
初出作品での描かれ方
架空の存在ではないため、ここでは呼称が定着していく過程を記す。
ラヴクラフト自身が何をしたか
SF Encyclopediaによれば、ラヴクラフト(1890-1937)の後期作品——とりわけクトゥルフ神話に属する最後の一群——は、「宇宙的恐怖(cosmic horror)」という独自の恐怖を、SFの前提を用いて作ろうとしたものだった[1]。他の次元、「旧支配者(Great Old Ones)」と呼ばれる異星的存在による侵略、人類の文化と身体の進化への干渉——こうした道具立てである[1]。
同項は、これらの物語が伝える全体の感触を、宇宙が本質的に恐ろしく、人類に敵対的であるという感覚だと要約する[1]。
ダーレスが何をしたか
ラヴクラフトの死後、その作品を本にして残したのがオーガスト・ダーレスである。SF Encyclopediaのアーカム・ハウス項によれば、同社はダーレスとドナルド・ワンドレイが、ラヴクラフトの作品集『The Outsider and Others』(1939年)を出すために創設した出版社だった[5]。
ダーレスがしたのは、本を出すことだけではない。SF Encyclopediaのクトゥルフ神話項は、アザトース、クトゥルフ、ハスター、ニャルラトテップ、シュブ=ニグラス、ヨグ=ソトースといった存在群について、こう書いている[3]。
「これらの存在は、ダーレスによってホラーの枠組みで体系化されたが、ラヴクラフト自身は興味深いことに、理解を絶するほど異なる次元から来た異星的存在として提示している」[3]
つまり——
| 存在をどう位置づけたか | |
|---|---|
| ラヴクラフト | 理解を絶する次元から来た異星的存在[3] |
| ダーレス | ホラーの枠組みで体系化された神々[3] |
同じ存在群を、二人は別の枠で扱った。「クトゥルフ神話」という呼称は、後者の枠のもとで広まった。
そして1969年、ダーレスは *Tales of the Cthulhu Mythos* というアンソロジーを編む[2][3]。SF Encyclopediaはこれを、初期の神話作品を集めた回顧的な選集と説明する[3]。1971年には2分冊版が出た[2]。書名に「クトゥルフ神話」が入った本が世に出たことで、呼称は動かせないものになった。
ラヴクラフト作品での言及
ラヴクラフト自身が「クトゥルフ神話」と書いた例はない。 前掲のとおり、SF Encyclopediaは彼が作った語ではないと明記している[1]。
ここが当サイトの神話の三層の出発点になっている。呼称そのものが第2層(ダーレス以降)に属する。私たちは、後から付いた名前で第1層を呼んでいることになる。
この事情は、サイトの記事を読むときの前提として押さえておきたい。「クトゥルフ神話に登場する」という言い方は、それだけでは原典か拡張かを区別しない。だから当サイトは記事ごとに層を記録している。
性質と影響
「クトゥルフ神話とは何か」を問い続けてきた人たち
呼称が定着したあと、ではその中身は何なのかを定義しようとする仕事が続いた。
リン・カーター『Lovecraft: A Look Behind the “Cthulhu Mythos”』(1972年)。日本語版は東京創元社『クトゥルー神話全書』(2011年1月31日、四六判並製290ページ、ISBN 978-4-488-01529-9、朝松健監訳・竹岡啓訳)[6]。版元が引くカーターの「序」の言葉は、この本の狙いをそのまま述べている[6]。
本書において私はクトゥルー神話の解明を試みた――クトゥルー神話とは何なのか、それはどのようにして発展してきたのか、それがこれほどまでに輝かしく成功を収めたのはなぜなのか。
同書の目次には、第8章「旧支配者の落とし子」、第9章「旧神」といった章が並び、巻末には「クトゥルー神話固有名詞表記比較表」と「クトゥルー神話作品目録」が付く[6]。呼称の中身を、系譜と目録の両面から押さえようとした本である。
ロバート・M・プライス。SF Encyclopediaによれば、1981年から2022年まで雑誌『Crypt of Cthulhu』を編集し、ケイオシアムのために多くの神話アンソロジーを編んだ人物で、研究書に『H.P. Lovecraft and the Cthulhu Mythos』(1990年)がある[7]。最初の自作神話小説の題が「The Derleth Horror」(1982年)であることも、この分野の内輪の事情をよく表している[7]。
S・T・ジョシ。SF Encyclopediaによれば1958年生まれ、ラヴクラフトの書誌・批評研究で知られる[8]。1979年から学術誌『Lovecraft Studies』を編集し、1976年から77年の冬にかけてラヴクラフトの小説・詩・エッセイを草稿および初出と照合する作業を始め、アーカム・ハウスのために校訂版の作品集を編んだ(『The Dunwich Horror and Others』1984年ほか)[8]。2005年には専門研究部門の世界幻想文学大賞を受けている[8]。
原文を草稿と突き合わせて校訂する——ダーレスの時代には無かったこの作業が、原典と後年の付け足しを分けて考える土台を作った。
版元がいまも同じ問いを立てている
呼称の中身をめぐる問いは、過去の話ではない。ケイオシアムは2023年11月、ダニエル・ハームズの事典『エンサイクロペディア・クトゥルヒアナ』の第4版を発表した[9]。その内容として同社が挙げる項目のひとつが、ハームズによる書き下ろし論考「What is the Cthulhu Mythos?(クトゥルフ神話とは何か)」である[4]。
初版から30年、ダーレスのアンソロジーから半世紀以上が経っても、版元は同じ問いを立て直している。
なぜ呼称が問題になるのか
SF Encyclopediaのクトゥルフ神話項は、この作品群を 「Shared-World background(共有世界の背景設定)」 と位置づける[3]。ラヴクラフトの作品に由来し、ロバート・ブロック、ダーレス、ロバート・E・ハワード、フランク・ベルナップ・ロング、クラーク・アシュトン・スミスら仲間たちによって拡張された、と説明する[3]。
複数の書き手が同じ名前のもとで書き足していく構造である以上、「どこまでが誰の仕事か」は放っておくと分からなくなる。呼称が一つしかないことは、この曖昧さを助ける方向に働く。
当サイトが層を分けて記録しているのは、この一点に対処するためである。詳しくは神話の三層、宇宙的恐怖、旧神の各記事を参照してほしい。
関連する用語
- 旧神 — ダーレスの体系化でもっとも議論を呼んだ分類
- 宇宙的恐怖 — ラヴクラフト自身が目指した効果
- エンサイクロペディア・クトゥルヒアナ — 「クトゥルフ神話とは何か」を現在も問い直している事典
- 神話の三層 — 原典・拡張・TRPGの層の分け方
出典
- [1] SF Encyclopedia「Lovecraft, H P」(2026年6月22日更新、該当ページ)。後期作品を論じる箇所の「the last stories belonging to the Cthulhu Mythos, a term he did not himself invent」、および「cosmic horror」を目指したこと、他の次元・「Great Old Ones」と呼ばれる異星的存在による侵略・人類の文化と身体の進化への干渉といったSF的前提を用いたこと、作品全体が宇宙は本質的に恐ろしく人類に敵対的だという感触を伝えることを確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [2] SF Encyclopedia「Derleth, August」(2026年6月2日更新、該当ページ)。ダーレス(1909-1971)がラヴクラフトの記憶を残すための事業に多くを費やしたこと、ドナルド・ワンドレイとともにアーカム・ハウスを創設したこと、アンソロジー『Tales of the Cthulhu Mythos』(anth 1969)を編み、1971年に2分冊版が出たことを確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [3] SF Encyclopedia「Cthulhu Mythos」(2026年9月7日更新、該当ページ)。「This Shared-World background derives from stories by H P Lovecraft」、拡張した仲間としてRobert Bloch・August Derleth・Robert E Howard・Frank Belknap Long・Clark Ashton Smith を挙げること、「Although these beings – Azathoth, Cthulhu, Hastur, Nyarlathotep, Shub-Niggurath, Yog-Sothoth et al – are systematized by Derleth in terms of Horror, Lovecraft himself interestingly presents them as Aliens from incomprehensibly different Dimensions.」、および「The retrospective Tales of the Cthulhu Mythos (anth 1969; 1975 2vols) edited by August Derleth assembles early Mythos stories.」を確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [4] Chaosium公式ブログ「Releasing in October – The Encyclopedia Cthulhiana, the definitive guide to the Cthulhu Mythos」(該当ページ)。第4版の内容として「An in-depth essay on “What is the Cthulhu Mythos?” by author Dan Harms.」が挙げられていることを確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [5] SF Encyclopedia「Arkham House」(2026年7月13日更新、該当ページ)。ウィスコンシン州ソーク・シティでAugust DerlethとDonald Wandreiが、ラヴクラフトの作品集『The Outsider and Others』(coll 1939)を出すために創設した小出版社であること、1943年にダーレスがワンドレイの持ち分を買い取ったこと、1971年のダーレスの死後に方向が変わっていったことを確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [6] 東京創元社の商品ページ『クトゥルー神話全書』(該当ページ)。リン・カーター著、朝松健監訳、竹岡啓訳。キイ・ライブラリー、四六判並製290ページ、初版2011年1月31日、ISBN 978-4-488-01529-9。同ページが引くカーター「序」の「本書において私はクトゥルー神話の解明を試みた――クトゥルー神話とは何なのか、それはどのようにして発展してきたのか、それがこれほどまでに輝かしく成功を収めたのはなぜなのか」、目次の「8 旧支配者の落とし子」「9 旧神」、巻末の「クトゥルー神話固有名詞表記比較表」「クトゥルー神話作品目録」を確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [7] SF Encyclopedia「Price, Robert M」(2024年7月15日更新、該当ページ)。1954年生まれ、1981年から2022年まで雑誌『Crypt of Cthulhu』を編集したこと、自作の神話小説は1982年の「The Derleth Horror」に始まること、ケイオシアムのために『The Hastur Cycle』(anth 1993)以降の神話アンソロジーを多数編んだこと、研究書『H.P. Lovecraft and the Cthulhu Mythos』(1990年)があることを確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [8] SF Encyclopedia「Joshi, S T」(2026年6月22日更新、該当ページ)。1958年生まれ、ラヴクラフトの書誌・批評研究で知られること、1979年に学術誌『Lovecraft Studies』の編集を始めたこと、1976-1977年の冬からラヴクラフトの小説・詩・エッセイを草稿および初出と照合しはじめアーカム・ハウスのために作品集を編んだこと(『The Dunwich Horror and Others』coll 1984 ほか)、2005年に専門研究部門の世界幻想文学大賞を受けたことを確認した(2026年9月15日確認)。 ↩
- [9] Chaosium公式ブログ「Chaosium announces new edition of Daniel Harms’ Encyclopedia Cthulhiana」(2023年11月10日付、該当ページ)。初版が1994年にケイオシアムから出て翌年オリジンズ賞の特別功労賞を受けたこと、1998年の第2版、2008年のElder Signs Press版に続く第4版を同社が準備していることを確認した(2026年9月15日確認)。 ↩




