ラヴクラフトを受け継ぎ、何を拒んだのか——「インスマス」「レッド・フック」を語り直した5作
何が出たのか——新刊の発売告知ではない
2026年9月15日、Reactorがライターのローナ・ウォレスによる記事を公開した。挿絵はアレン・ウィリアムズ[1]。取り上げているのは5冊の既刊で、いずれも今回新しく出た本ではない。もっとも古いものは2014年、もっとも新しいものでも2020年前後の刊行になる。つまりこれは告知記事ではなく、既存の5作を一つの観点で並べ直す批評記事である。
その観点をローナ・ウォレスは記事の冒頭で明言している。ラヴクラフトの作品には触手の怪物や宇宙的な無関心が満ちており、それがコズミックホラーというジャンルの型を作った。だが同時に、ラヴクラフトの生涯と作品を掘り下げれば、そこには人種差別・性差別・偏見がたびたび混じっていることも分かる、という趣旨だ。記事の見出し脇に置かれた要約文には、「Cleverly inventing new and horrifying ways to expand and explore the Cthulhu Mythos…」(訳: クトゥルフ神話を拡張し探るための、新しく恐ろしいやり方を巧みに発明して)という一文が添えられている[1]。この記事が選んだ5作は、この神話を「拡張」する作品でありながら、ラヴクラフト本人が背負っていた偏見を引き継がずに書かれている、というのが記事全体の主張である。
「設定を借りる」と「視点を書き換える」は別の作業
クトゥルフ神話を土台にした作品は無数にある。ダーレス以降の作家もTRPGの制作者も、原典に無かった神格や設定を積み増してきた。この積み増しは、原典の視点そのものには手を触れない。旧支配者の系譜を増やしても、外なる神を新しく作っても、語り手が誰で何を恐れるべき対象として描かれているかという構造は変わらないままである。
Reactorが選んだ5作がやっているのは、これとは別の作業だ。設定を足すのではなく、誰の視点から書くかを入れ替えている。原典で「恐怖の対象」として脇に置かれていた側——インスマスの住民、レッド・フックの移民街の人々——を主語に据え直し、同じ出来事をもう一度語り直す。この違いは、後で確認する2作(原典を「インスマスの影」に取る2作)を並べるとはっきり見えてくる。
インスマスの影を語り直す二つの方向
Reactorの記事によれば、5作のうち2作が同じ原典、「インスマスの影」(The Shadow over Innsmouth)を土台にしている。だが、この2作は同じ場所から出発しながら、まったく違う方向へ進んでいる。
The Litany of Earth(ルーサナ・エムリス)
Reactorは本作を「flips the script on Lovecraft’s The Shadow Over Innsmouth」(訳: ラヴクラフトの「インスマスの影」を裏返す)と紹介している[2]。2014年5月にTor.comで無料公開された中編で、日本語訳は当サイトが確認した範囲では存在しない[3]。
主人公はアフラ・マーシュ。原典の舞台であるインスマスの出身者だが、政府による強制捜査で1928年に父を失い、日系アメリカ人と同じ収容所に母とともに送られ、そこで母を亡くしたという設定が与えられている[3]。物語は数十年後、彼女がサンフランシスコでコトウ一家と暮らしているところにFBI捜査官が訪ねてくる場面から始まる[3]。原典では「深きものども」との混血が政府に摘発される異常事態として描かれていたのに対し、この作品は同じ摘発を、少数派の信仰共同体が国家によって強制収容された歴史として——第二次大戦下の日系人収容と重ねる形で——書き直している[3]。
A Plagued Sea(キム・ボヨン、翻訳ソフィー・バウマン)
Reactorはこの作品についても「another take on The Shadow over Innsmouth」(訳: 「インスマスの影」のもう一つの語り直し)と書いている[4]。舞台は韓国沿岸の小さな村に移され、地震によって海底から解き放たれた奇病が住民を魚のような姿へ変えていく、という設定になっている。隔離生活を三年間送る人物としてムヨンの名が挙がっている[4]。
同じ「インスマスの影」を土台にしながら、エムリスは血筋の告発から少数派の受容へという軸で書き直し、キム・ボヨンは舞台と言語そのものを韓国へ移すという軸で書き直している。片方は原典の国(アメリカ)に留まって視点だけを反転させ、もう片方は原典の場所そのものを離れる。同じ入口から入って、まったく別の出口へ抜けた2作だと言える。
レッド・フックの恐怖を反転させる——The Ballad of Black Tom
Reactorは本作を「Victor LaValle’s retelling of “The Horror at Red Hook.”」(訳: ヴィクター・ラヴァルによる「レッド・フックの恐怖」の語り直し)と紹介し、全体としては「a loving rebuttal of Lovecraft’s xenophobic views in the original short story」(訳: 原作短編にあるラヴクラフトの排外的な見方への、愛情のこもった反論)のように読める作品だと書いている[5]。
この作品については、当サイトにすでに詳しい記事The Ballad of Black Tomがある。前半はハーレム・ルネサンス期のニューヨークを舞台に、日銭を稼ぐ黒人青年チャールズ・トーマス・テスターを追う二部構成で、2016年の刊行から10年を経た2026年9月にPenguinが英国で新版を出している。日本語版は2019年、東宣出版から『ブラック・トムのバラード』として刊行済みだ。ここでは重複を避け、この記事の主題である「視点の入れ替え」に絞って確認する。
原典「レッド・フックの恐怖」は、刑事トマス・マローンの視点でレッド・フックの移民街を描く。地の文は移民の集団を「暗い、微妙な顔の海」と形容し、パーカー・プレイスに集う人々を「エリス島が賢明にも送り返した、名もなく分類もされないアジアの澱」と書く。これは登場人物の内心の推測ではなく、地の文そのものの形容だ。ラヴァルの中編は、この地の文が「恐怖の対象」として扱っていた側の青年を主人公に据え、同じ事件をもう一度、彼の生活と選択の側から語り直す。設定(レッド・フック、サイダムという名、マローン刑事)はほぼそのまま引き継ぎながら、誰の目で見るかだけを入れ替えている。
複数の作品から要素を引く二作
残る2作は、単一の原典を語り直す構造を取っていない。
Lovecraft Country(マット・ラフ)は、当サイトの既存記事によれば、1954年前後のシカゴを舞台に、黒人中流家庭のターナー一族と白人の魔術師一族の対立を描く連作形式の長編で、Harper Voyagerから2016年に刊行された[6]。ジム・クロウ法下の人種差別という現実の恐怖と、神話由来の怪異という架空の恐怖を並べて描く構成で、2020年にHBOがドラマ化している[6]。特定の一篇の語り直しではなく、複数のラヴクラフト作品から要素を引いて再構成する点で、他の4作とは組み立て方が違う。刊行年は『The Ballad of Black Tom』と同じ2016年である。
A Colder War(チャールズ・ストロス)は、Reactorの記事によれば「狂気の山脈にて」で語られる南極探検・古代生物発見の後日談という設定で書かれた短編である[7]。冷戦下を舞台に、各国が宇宙的な脅威を兵器として扱おうとする筋書きで、Reactorはこの作品について、終末が名状しがたい存在によってもたらされるか核兵器によってもたらされるかにかかわらず、恐怖・無力感・自分がちっぽけだという感覚は変わらない、という趣旨を書いている[7]。原典の設定(南極、古代の知性体)を引き継ぎながら、それを冷戦という別の歴史の文脈に接続する作品で、視点の入れ替えというより「設定の応用」に近い。
原典を確認する
ここまでの整理が成り立つには、原典の側で何が起きているかを確認しておく必要がある。
インスマスの影——語り手が発見したもの、たどり着いた結末
当サイトの既存記事インスマスの影が、H. P. Lovecraft Archiveの本文に基づいて確認している通り、この中編は一人称の語り手が、廃れた港町インスマスに日帰りで立ち寄るところから始まる。老いた大酒飲みゼイドック・アレンの独白を通じて、住民が「深きものども」という半魚半蛙の種族と契約を交わし、人身御供と引き換えに豊漁と黄金を得てきたという秘史が明かされる[8]。深夜、宿泊先のホテルで襲われた語り手は屋根伝いに脱出し、暗礁から続々と上陸する怪物の群れを目撃する[8]。
物語はここで終わらない。故郷に戻った語り手は、自分の母方の血筋に「マーシュ」という出自不明の姓が混じっていたことを知り、自らの顔つきに「インスマス面」の兆候が現れていることに気づく。結末で彼が選ぶのは、絶望からの自死ではない。同じ血を引く従弟を療養所から連れ出し、ともに暗礁の下の都市へ泳ぎ去る決意を固める場面で幕が閉じる[8]。恐怖の対象だったはずの「異形の血」が、実は語り手自身の内側にも流れていたという反転が、原典そのものにすでに組み込まれている。エムリスとキム・ボヨンが受け継いでいるのは、まさにこの「内側にいた側から語る」という構造であり、原典が用意していた反転を、語り手一人の内面から共同体全体の物語へ広げ直した仕事だと言える。
レッド・フックの恐怖——マローンが追った事件
「レッド・フックの恐怖」は、心身の回復のため療養中だった刑事トマス・マローンが、ブルックリンの港湾地区レッド・フックで起きた失踪事件を調べる話である。捜査の先にいるのは、古い家系の学者ロバート・サイダム。彼は密入国者を組織し、地下室で悪魔崇拝の儀式を行っていた。サイダムは結婚を機に劇的に若返るが、新婚旅行中に妻が殺害される。警察がレッド・フックの建物を急襲した夜、マローンは地下の深淵で、サイダムの遺体が超自然の力で動き出し、儀式が進行する光景を目撃する。H. P. Lovecraft Archiveの本文が示す通り、この物語の地の文は移民街の住民を繰り返し侮蔑的に形容しており、当サイトの既存記事もこの点を作品の欠点として明記している[9]。ラヴァルが引き継いだのは、この事件の舞台と登場人物名であり、拒んだのは、この地の文が当然視していた「誰が恐怖の対象か」という前提そのものだった。
なお、ラヴクラフト本人の人種観については、当サイトが別記事で確認した通り、遺された書簡には反ユダヤ的・人種差別的な見解が繰り返し記され、1909年には地元紙への投書でクー・クラックス・クランを称賛してもいる[10]。Reactorが5作を選ぶ基準にした「baggage(重荷)」という語は、この経歴を指している。
深淵書架の読者にとっての意味
当サイトが記事ごとに記録している神話の三層構造——原典・ダーレス以降の拡張・TRPGによる拡張——という区分に、今回の5作をそのまま当てはめることはできない。層の区分は「神話の中身に何を足したか」を基準にしており、拡張の方向はどれも設定の追加だからだ。今回の5作がしているのは追加ではなく置き換えである。神格を増やすのでも、地名を増やすのでもなく、原典が固定していた視点そのものを動かしている。
これは深淵書架がすでに扱ってきた問い、ラヴクラフトらしい映画とは何かで整理した「見た目・出典・効果」という3つの物差しのうち、②の「出典」に近いところにある。出典を引き継ぐという点では確かに後続作家による拡張の系譜に属する。だが引き継いだ出典を使ってやっていることは、雰囲気の模倣ではなく、原典が誰の視点を正しいものとして書いていたかへの異議申し立てである。設定を足す拡張と、視点を置き換える拡張は、同じ「後世の手が入った作品」という括りの中でも、まったく別の仕事をしている。
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出典
- [1] Lorna Wallace「Five Lovecraftian Books That Aren’t Weighed Down by Lovecraft’s Baggage」Reactor(2026年9月15日公開、挿絵Allen Williams)、要約文「Cleverly inventing new and horrifying ways to expand and explore the Cthulhu Mythos…」https://reactormag.com/five-lovecraftian-books-that-arent-weighed-down-by-lovecrafts-baggage/(取得日 2026-09-16) ↩
- [2] 同上、The Litany of Earthについての記述「flips the script on Lovecraft’s The Shadow Over Innsmouth」(取得日 2026-09-16) ↩
- [3] 当サイト『The Litany of Earth』記事。初出2014年5月・Tor.com無料公開、続編『Winter Tide』『Deep Roots』、主人公アフラ・マーシュの経歴(1928年の政府捜査で父を失う、日系人と同じ収容所への強制移送、母の死、サンフランシスコでのコトウ一家との暮らし)を確認。https://shinenshoka.com/works-extended/the-litany-of-earth/(取得日 2026-09-16) ↩
- [4] Lorna Wallace、前掲Reactor記事、A Plagued Seaについての記述「another take on The Shadow over Innsmouth」、舞台が韓国沿岸の村であること、登場人物ムヨンの名(取得日 2026-09-16) ↩
- [5] 同上、The Ballad of Black Tomについての記述「Victor LaValle’s retelling of “The Horror at Red Hook.”」および「a loving rebuttal of Lovecraft’s xenophobic views in the original short story」(取得日 2026-09-16) ↩
- [6] 当サイト『Lovecraft Country』記事。著者マット・ラフ、Harper Voyagerより2016年刊行、舞台シカゴ、ターナー一族と白人魔術師一族の対立、連作形式、2020年HBOドラマ化を確認。https://shinenshoka.com/works-extended/lovecraft-country-novel/(取得日 2026-09-16) ↩
- [7] Lorna Wallace、前掲Reactor記事、A Colder Warについての記述。「狂気の山脈にて」の後日談という設定、冷戦下で宇宙的脅威が兵器として扱われる筋書き、終末が名状しがたい存在か核兵器かにかかわらず恐怖・無力感・自らのちっぽけさの感覚は変わらないという趣旨を確認(取得日 2026-09-16) ↩
- [8] H・P・ラヴクラフト「The Shadow Over Innsmouth」本文(The H. P. Lovecraft Archive) https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/soi.aspx。ゼイドック・アレンによる深きものどもの秘史の開示、ホテルからの脱出と暗礁の怪物群の目撃、語り手自身のマーシュ家の血筋の発覚、従弟を連れて暗礁の下の都市へ泳ぎ去る結末を確認(当サイトの記事は https://shinenshoka.com/lovecraft/the-shadow-over-innsmouth/ )(取得日 2026-09-16) ↩
- [9] The H. P. Lovecraft Archive「The Horror at Red Hook」本文および当サイト『The Ballad of Black Tom』記事。刑事トマス・マローンによるロバート・サイダムの捜査、サイダムの結婚と若返り、妻の殺害、警察の急襲時にマローンが目撃した地下の光景、移民街への侮蔑的な地の文の存在を確認。https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/hrh.aspx / https://shinenshoka.com/works-extended/the-ballad-of-black-tom/(取得日 2026-09-16) ↩
- [10] 当サイト『「ラヴクラフト本人への評価」と「Lovecraftianという文化」』記事。ラヴクラフトの書簡に反ユダヤ的・人種差別的な見解が繰り返し記されていること、1909年の投書でクー・クラックス・クランを称賛したことを確認。https://shinenshoka.com/history/lacon-v-lovecraft-panels-2026/(取得日 2026-09-16) ↩
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