概要
アーカムに設定される精神科の療養施設。「戸口に現れたもの」において、妻アセナス・ウェイトに人格を乗っ取られかけた末に発作を起こしたエドワード・ダービーが収容される場所として登場する。作中では単に治療の場としてだけでなく、精神を病んだ者の魂が現実にどれほど蝕まれているかを測る舞台装置として機能する。
原典での描写
施設の語られ方と初出の一文
「戸口に現れたもの」は、語り手ダニエル・アップトンが親友の頭に六発の弾丸を撃ち込んだと告白する一文から始まる。この最初の段落でアップトンは、自分がいずれ「アーカム療養所の独房で私が撃った男よりも狂っている」と言われるだろうと述べる。事件の経緯が語られるより先に、療養所の名はすでに終わった殺人の現場として物語の冒頭に置かれている[5]。
ダービーの収容と面会の場面
一月も末のある朝、療養所からアップトン宛てに電話が入り、エドワードの理性が突然戻ったと告げられる。喜んで駆けつけたアップトンを看護婦が病室へ案内すると、そこにいた「患者」は丁重な笑みで迎えたものの、その眼差しと物腰にはアセナスやエフレイムと同じ昂ぶった人格が宿っていた[6]。
独房での結末
クラウニンシールド屋敷からの不可解な電話のあと、アップトンはエフレイムとアセナスの力がエドワードを、そして今は自分自身をも蝕みつつあると確信するに至る。その翌日、正気を取り戻して歩いたり話したりできるようになった午後、アップトンは精神病院へ赴き、エドワードと世界のために、その人物を撃ち殺したと語る[7]。冒頭でアップトンが触れていた「アーカム療養所の独房での殺人」は、この場面を指す。
基本プロフィール
- 分類: 施設(精神科療養所)
- 欧文表記: ARKHAM SANITARIUM
- 初出・出典: 「戸口に現れたもの」(1933年8月執筆、Weird Tales誌1937年1月号発表)
- 所在: アーカム市内
- 収容者: エドワード・ダービー(「戸口に現れたもの」)
由来・モデル
アーカム療養所自体に実在のモデルとなる特定施設は明記されていないが、アーカムという架空都市そのものがマサチューセッツ州セイラム・プロヴィデンスをモデルとしているのと同様、19世紀後半〜20世紀初頭のニューイングランド各地に実在した私立精神科療養所(サニタリウム)の一般的なイメージを踏まえた設定と考えられる。ラヴクラフト作品では精神の異常・崩壊がしばしば物語の結末を担うため、こうした収容施設は複数の作品で繰り返し言及される舞台装置となっている。
歴史・年表
作中、エドワード・ダービーは妻アセナス(実際にはその肉体を乗っ取った父エフレイム・ウェイト)による精神支配の兆候を見せ始める。語り手ダニエル・アップトンは医師・弁護士・銀行家の三者とともにダービーの元を訪れ長時間の対話を試みるが[1]、その最中にダービーが激しい痙攣発作を起こしたことを受け、その日の夕刻には「閉ざされた車が、もがき苦しむ彼の哀れな肉体をアーカム療養所へと運んだ」とされる[2]。
以後アップトンは後見人として週に2度、療養所のダービーを見舞う。面会のたびに「やらなきゃいけなかったんだ……」という譫言や、奇怪な囁き、同じ文句の陰鬱な反復を耳にし、涙を禁じ得なかったと語られる[3]。一時、ダービーの理性が突如として戻ったかに見える場面があり、アップトンが喜んで見舞いに向かうと、患者は丁重な笑みを浮かべて手を差し伸べて彼を迎えたが、アップトンはその瞬間、目の前の人物が異様に昂ぶった別人格——アセナス、すなわちエフレイム・ウェイトの意識——に取って代わられていることを悟る[4]。この偽りの回復の兆しの後、物語は破滅的な結末へと転じていく。
性質・特徴
作中で精神を病んだ、あるいは病んだと周囲に見なされた人物が収容される先として言及される点で、アーカムという街の「合理と狂気が同居する場」という性格を補強する施設である。アーカムを舞台にした後続の神話作品やゲーム作品でも、同種の療養所・精神病院はしばしば重要な舞台装置として踏襲されている。なお、DCコミック『バットマン』シリーズの「アーカム・アサイラム」は同じアーカムの地名に由来する別の架空施設であり、本項の療養所とは無関係である(アーカム記事も参照)。
関連する人物・存在・出来事
エドワード・ダービーと、彼の後見人として療養所へ通う語り手ダニエル・アップトンが中心人物。ダービーを蝕む存在は、表向きは死去したはずの黒魔術師エフレイム・ウェイトの意識であり、娘アセナスの肉体、さらにはダービー自身の肉体へと乗り移りを繰り返す。同じくアーカムを舞台とする「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」の黒魔術師系譜とも、精神・肉体の乗っ取りという主題を共有する。
主要登場作と読みどころ
- 「戸口に現れたもの」(1933年執筆/1937年発表): 唯一の登場作にして中心となる原典。人格の乗っ取りという主題を、療養所という「正気を取り戻す場所」であるはずの施設の中でこそ最も恐ろしい形で反転させる構成が読みどころ。偽りの回復を喜んだ直後にアップトンが違和感に気づく場面の緊張感が特に評価される。
よくある誤解・設定の食い違い
Q. アーカム療養所とDCコミックの「アーカム・アサイラム」は同じ施設ですか?A. いいえ、無関係です。バットマン作品のアーカム・アサイラムは、ラヴクラフトの架空都市アーカムから名を借りた別の施設で、ラヴクラフトの原典には出てきません。命名の経緯についての説明は、当サイトでは一次資料を確認していません。
Q. ダービーは療養所で完全に回復しますか?A. いいえ。一時的に理性が戻ったように見える場面がありますが、それは実際にはエフレイム・ウェイトの意識がダービーの肉体を乗っ取った状態であり、真の回復ではありません。
出典
- [1] “I had a long talk with his doctor, banker, and lawyer, and finally took the physician with two specialist colleagues to visit him.”(訳: 「私は彼の医師・銀行家・弁護士と長時間話し合い、最終的にその医師と二人の専門医の同僚を伴って彼を訪ねた」) — H. P. Lovecraft, “The Thing on the Doorstep”(1933年執筆/1937年発表), 公式アーカイブ ↩
- [2] “…that evening a closed car took his poor struggling body to the Arkham Sanitarium.”(訳: 「……その夕刻、閉ざされた車がもがき苦しむ彼の哀れな肉体をアーカム療養所へと運んだ」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [3] “I must weep to hear his wild shrieks, awesome whispers, and dreadful, droning repetitions of such phrases as ‘I had to do it—I had to do it…'”(訳: 「『やらなきゃいけなかったんだ……やらなきゃいけなかったんだ……』という文句の、恐ろしく単調な反復や、荒々しい叫び、畏怖すべき囁きを聞くと、私は涙を禁じ得なかった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [4] “The patient rose to greet me, extending his hand with a polite smile; but I saw in an instant that he bore the strangely energised personality…”(訳: 「患者は私を迎えて立ち上がり、丁重な笑みとともに手を差し伸べた。だが私は一瞬にして、彼が奇妙に昂ぶった人格を宿していることを見て取った……」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [5] “I shall be called a madman—madder than the man I shot in his cell at the Arkham Sanitarium.”(訳: 「私は狂人と呼ばれるだろう——アーカム療養所の独房で私が撃った男よりも狂っていると」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [6] “One morning late in January the sanitarium telephoned to report that Edward’s reason had suddenly come back… I hastened over in a flood of delight, but stood bewildered when a nurse took me to Edward’s room.”(訳: 「一月も末のある朝、療養所から電話があり、エドワードの理性が突然戻ったと知らされた。……私は歓喜して駆けつけたが、看護婦にエドワードの病室へ案内されると当惑してしまった」) — 同上, 公式アーカイブ ↩
- [7] “The next day—in the afternoon, when I pulled out of my prostration and was able to walk and talk coherently—I went to the madhouse and shot him dead for Edward’s and the world’s sake.”(訳: 「その翌日——正気を取り戻して歩いたり話したりできるようになった午後——私は精神病院へ行き、エドワードと世界のために、彼を撃ち殺した」) — 同上, 公式アーカイブ ↩






