概要
Hippocampus Pressが、David E. Schultz編『H. P. Lovecraft’s Commonplace Book and Other Notes: An Annotated Edition』を刊行予定として公式サイトに掲載した[1]。限定ハードカバー500部、370ページ。プリパブリケーション割引適用中の価格は55.00ドルで、通常価格からの割引であることが明記されている一方、ISBNは「TBD(未定)」のままだ[1]。具体的な発売日・入荷予定時期もサイト上には記載がない。現時点ではまだ予約受付段階の書籍であり、刊行が確定した事実として扱うのは早い。
版元のHippocampus Pressは1999年、Derrick Husseyによって設立された出版社で、ラヴクラフトとその文学サークルの著作を専門に刊行してきた[4]。今回の注釈版も、その専門性を背景にした企画と位置づけられる。一般の商業出版社が扱うには市場が限られる222項目もの断片的メモに、一冊分の注釈を付けて刊行する判断は、専門出版社だからこそ成り立つ規模の企画だと言える。なお、同社を「ラヴクラフト関連書籍の世界最大手」と評した業界紙の報道が過去にあるとされるが、当サイトは元記事を直接確認できておらず、今回はこの評価を採用しない。
「Commonplace Book」とは何か
「Commonplace Book」は、ラヴクラフトが小説の着想やフレーズ、断片的なアイデアを書き留めていた手帳である。The H. P. Lovecraft Archiveの自伝的著作一覧によれば、執筆時期は「1920年代初頭から1935年」、発表は「1938年」と記録されている[2]。つまりこの手帳自体は目新しい発見物ではなく、ラヴクラフトの死(1937年)の翌年である1938年に、すでに一度世に出ている一次資料である。当サイトが別記事「ラヴクラフトは自分をどう名乗ったか」で確認した自伝的著作の一覧にも、同じ執筆年・発表年で記載がある。
Hippocampus Pressの説明によれば、収録されているのは222項目[1]。多くは一、二行程度の断片的なメモで、思いついた情景、耳にした言葉、既存の物語の型を書き換えるアイデアなど、体裁の定まらない覚え書きの集積である。
代表作の着想元として
Hippocampus Pressの商品ページは、この手帳が次の作品群の着想元になったと説明している[1]。
- 「アウトサイダー」(The Outsider)
- 「クトゥルフの呼び声」(The Call of Cthulhu)
- 『チャールズ・デクスター・ウォード事件』(The Case of Charles Dexter Ward)
- 『ユゴスよりの真菌』(Fungi from Yuggoth)ソネット集
当サイトが扱う「アウトスイダー」、「クトゥルフの呼び声」、『チャールズ・デクスター・ウォード事件』は、いずれもラヴクラフトの代表作に数えられる作品である。これらが独立に思いつかれたのではなく、同じ手帳に書き留められた断片的なメモを起点として書かれていたという事実は、完成した小説だけを読んでいては見えてこない。ただし、どの項目がどの作品の直接の起点になったのか、具体的な項目本文は今回のページには引用されておらず、この点は今回の注釈版そのものが明らかにする役割を持つ。
四作の性質はそれぞれ違う。「アウトサイダー」は数ページの短編、「クトゥルフの呼び声」は複数の証言を組み合わせた中編、『チャールズ・デクスター・ウォード事件』は長編、そして『ユゴスよりの真菌』は36篇からなるソネット連作である[3]。長さも形式も異なる四作が、同じ一冊の手帳を起点に持つとすれば、この手帳は特定のジャンルや長さの作品専用の「アイデア帳」だったわけではなく、思いついた断片を形式にとらわれず書き留める場だったことになる。
今回の版で新しくなること
Hippocampus Pressの説明では、本巻の眼目は単なる222項目の再録ではなく、各項目に着想の出所と、後にどの作品へ使われたかの注釈を付けることにある[1]。手帳の断片は文脈を欠いた一行が多く、注釈なしでは「これが何の下書きなのか」が読者には分からない。それを編者のSchultzが1項目ずつ突き止めて注記する、という構成である。
加えて、手帳そのものの手稿をフルカラーで複製収録する[1]。ラヴクラフトの直筆をそのまま見られる資料であり、活字に起こされた文章を読むのとは別の情報――書き足し、消し跡、余白の使い方――が見える可能性がある。
注釈という作業の難しさは、この手帳の性質そのものに由来する。前節で触れた通り、収録項目の多くは一、二行の断片で、書いた本人にしか通じない私的なメモとして残されたものが大半だ。「この一行が後に長編の一場面になった」という対応関係は、手帳の中には書かれていない。編者は、ラヴクラフトの書簡や他の伝記的資料と照合しながら、222項目それぞれについて出所と行き先を個別に特定していく必要がある。222という項目数の多さを踏まえれば、これは一人の編者が長期間かけて取り組む種類の作業であり、単なる再録ではなく「注釈版(An Annotated Edition)」という書名を掲げるだけの手間が、この一冊には注ぎ込まれていることになる。
深淵書架にとっての価値
当サイトはクトゥルフ神話を、原典・ダーレス以降の拡張・TRPG設定という三層で整理している。この手帳は三層構造の外側、いわば原典が生まれる前の層にあたる資料だ。「クトゥルフの呼び声」という完成した原典テキストを分析するだけでなく、それがどんな断片的な思いつきから立ち上がったのかを辿れる点で、他の版元による神話設定の拡張(ダーレス以降の層)や、TRPGによる翻案(TRPG層)とは全く違う種類の資料である。
当サイトが個別記事で「原典ではこう書かれている」と述べるとき、その根拠は完成した小説のテキストに置いている。今回の注釈版が明らかにするのは、その完成したテキストの手前にある工程――思いついた断片、書き留めた一行、それがどの作品のどの場面へ流れ込んだか――である。222項目のうちどれが実際にどの作品につながったかが注釈で示されれば、当サイトの原典解説記事に「この場面は手帳のどの覚え書きに遡るか」という一段深い出典を加えられる可能性がある。現時点ではまだ本文を確認できていないため、この記事では刊行の事実と、確認できた範囲の書誌情報にとどめておく。222項目という数の資料をどこまで読み込めるかは、今後の当サイトの記事更新にも関わってくる。
現時点で確認できること・できないこと
確認できること: 編者David E. Schultz、370ページ、限定ハードカバー500部、プリパブリケーション価格55.00ドル(割引適用時)、ISBN未定[1]。手帳自体の執筆年(1920年代初頭〜1935年)・初出年(1938年)[2]。
関連して読むなら
- アウトサイダー — この手帳から着想を得たとされる代表作の一つ
- クトゥルフの呼び声 — 同じく着想元とされる原典
- チャールズ・デクスター・ウォード事件 — 同じく着想元とされる長編
- ラヴクラフトは自分をどう名乗ったか — 本人の自伝的著作を、執筆年・発表年で一覧にした記事。Commonplace Bookの初出年もここで確認できる
出典
- [1] 書名『H. P. Lovecraft’s Commonplace Book and Other Notes: An Annotated Edition』、編者David E. Schultz、370ページ、限定ハードカバー500部、プリパブリケーション価格55.00ドル(割引適用)、ISBN「TBD」の記載。222項目を収録し、「アウトサイダー」「クトゥルフの呼び声」『チャールズ・デクスター・ウォード事件』『ユゴスよりの真菌』ソネット集の着想元になったとする説明、各項目に着想の出所と使用作品の注釈を付けること、手稿のフルカラー複製を収録することが記載されている。発売日・入荷時期についての記載はページ上に見当たらない — Hippocampus Press公式サイト, hippocampuspress.com ↩
- [2] 「Commonplace Book (written early 1920s–1935; 1938)」の記載。前後に「In Memoriam: Robert Ervin Howard (September 1936)」「Instructions in Case of Decease (written late 1936 or early 1937; Fall 1985)」が並ぶ — The H. P. Lovecraft Archive「Autobiographies and Diaries」, hplovecraft.com ↩
- [3] 「Written in little more than a week (December 27, 1929–January 4, 1930), the cycle of 36 sonnets」の記載 — The H. P. Lovecraft Archive「Fungi from Yuggoth」, hplovecraft.com(2026年9月7日確認) ↩
- [4] 「Founded by Derrick Hussey in 1999, Hippocampus Press specializes in classic horror and science fiction with an emphasis on the works of H. P. Lovecraft and his literary circle.」の記載 — Hippocampus Press公式サイト「About Us」, hippocampuspress.com(2026年9月7日確認)。2014年のPublishers Weeklyによる評価については、当サイトは元記事本文を直接確認できておらず、本記事では採用していない ↩



