概要
『エイボンの書』の著者エイボンが、異端の罪で追われて土星へ逃亡する一編。ツァトゥグァの故郷とされる土星の世界観を確立する作品で、クラーク・アシュトン・スミスが構築したハイパーボリア神話群の中でも、ユーモアと諧謔の色合いが強い一篇として知られる。追う者と追われる者が異世界でやむなく手を組むという皮肉な構成そのものが、スミスらしい乾いた笑いを含んだ宇宙的恐怖の変奏になっている[1]。
作品情報
- 原題: The Door to Saturn
- 執筆・発表年: 1932年発表(「ストレンジ・テイルズ・オブ・ミステリー・アンド・テラー」誌1月号)
- 主題タグ: 『エイボンの書』の著者本人が主人公、追跡者との不本意な同行、土星の異形の種族群
登場神格・用語
あらすじ
女神イホウンデーの大神官モルギが、十二名の配下を率いてハイパーボリアの異端の魔導士エイボンの館を急襲するが、そこはもぬけの殻だった。エイボンは長年ツァトゥグァ(ゾタッカァ)に仕えて信を得ており、この神から「非常時にのみ使うように」と授けられた、土星(サイクラノーシュ)へ通じる異世界の金属板の扉を用いて姿を消していたのだ[2]。館の最上階でその扉を発見したモルギは、好奇心から自ら扉をくぐり抜けてしまい、土星の荒涼とした灰色の斜面に取り残される。地球へ戻る手立てを失った二人は、皮肉にも異世界でばったり再会する。
エイボンは土星の地で、ツァトゥグァの伯父にあたる神格ヒジウルクォイグムンザーと遭遇し、合言葉を交わして道案内を託される[3]。地球ではもはや互いに敵同士でしかないモルギを前に、エイボンは剣を抜く代わりに「今この場で殺し合っても得るものはない。共に生き延びる方が理にかなっている」と持ちかけ、モルギも不承不承これを受け入れる。こうして追う者と追われる者は、不本意な旅の道連れとなり、瞑想する鳥人ジビ族の空中都市、菌類の幹に住む小人族エフィク族の奇妙な社会、そして地底に広がる菌類の森など、土星の各地を巡り歩くことになる。旅の過程で二人は、地球の常識では測れない生態系や社会制度に翻弄されながらも、互いへの敵意を少しずつ実務的な協力関係へと変えていく。物語は、もはや地球へ戻る術がないことを悟った二人が、土星での新たな生を受け入れていくところで幕を閉じる。旅の道中では、菌類の柔らかな幹に住む種族が地球式の礼儀作法をまったく解さず、逆にモルギたちの武装や身振りを珍奇な見世物として扱う場面もあり、「文明と野蛮」「異端と正統」といった地球側の価値基準が、異星ではことごとく無効化されていく皮肉が随所に織り込まれている。
読みどころと注目テーマ
追う者と追われる者が不本意な同行者となる皮肉な構成、土星という異世界の奇怪な種族群、『エイボンの書』の著者本人を主人公に据えた特異な視点――特に、生真面目な異端審問官モルギと、洒脱で弁の立つ魔導士エイボンとの対照的なやり取りは、スミス作品には珍しい軽妙な会話劇としても楽しめる。地球の宗教的権威や法体系が、まったく異なる価値観を持つ異星世界では何の意味も持たないという展開は、スミス作品に通底する「相対化される人間中心主義」というテーマの好例である。
執筆背景と影響
ツァトゥグァの故郷とされる土星=サイクラノーシュの世界観と『エイボンの書』の著者エイボン自身を主人公に据えた、ハイパーボリア神話の宇宙的背景を確立する作品。ラヴクラフトが自作でツァトゥグァに言及した際も、その出自の詳細はスミスのこの一連のエイボン物語群に依拠しており、複数作家間で神格設定を共有し合った「ラヴクラフト・サークル」の相互参照のあり方をよく示す一篇である。英語版ウィキソースに全文が掲載されており、パブリックドメインとして扱われている。
出典
- [1] “When morghi, the high priest of the goddess Yhoundeh, together with twelve of his most ferocious and efficient underlings, came at morning twilight to seek the infamous heretic, Eibon, in his house of black gneiss on a headland above the northern main, they were surprised as well as disappointed to find him absent.”(訳: 「女神イホウンデーの大神官モルギが、最も獰猛にして有能な配下十二名を率い、悪名高き異端者エイボンを捕らえんと、北の大洋を見下ろす岬に建つ黒片麻岩の館へ払暁に訪れたとき、彼らはエイボンの不在を知って、驚くと同時に落胆した」) — Clark Ashton Smith, “The Door to Saturn”(Strange Tales of Mystery and Terror、1932年1月号)冒頭部, Eldritch Dark(原文) ↩
- [2] “Zhothaqquah, however, warned Eibon not to make use of the panel unless in time of extreme need, as a means of escape from otherwise inevitable danger.”(訳: 「しかしゾタッカァはエイボンに、この扉を使うのは他に逃れようのない危険からの脱出手段として、真にやむを得ぬ時に限るよう警告していた」) — 同上, Eldritch Dark(原文) ↩
- [3] “’I have been conversing with one of the gods of Cykranosh,’ he said magniloquently. ‘The god, whose name is Hziulquoigmnzhah, has given me a mission to perform, a message to deliver, and has indicated the direction in which I should go.’”(訳: 「『私はサイクラノーシュの神の一柱と語らってきた』と彼はもったいぶって言った。『ヒジウルクォイグムンザーという名のその神は、私に果たすべき使命と伝えるべき言葉を与え、進むべき方角を示してくれた』」) — 同上, Eldritch Dark(原文) ↩






