概要
「チャールズ・デクスター・ウォード事件」(1927年執筆/1941年発表)に登場する17〜18世紀プロヴィデンスの魔術師。死体や遺灰から得た「本質的な塩(essential saltes)」を用いて死者を蘇生・尋問する術と、老化を異常なまでに遅らせる術を会得していたとされ、1771年に有力市民らの急襲を受けて少なくとも一時的には滅びるが、後年子孫チャールズ・デクスター・ウォードの手によって蘇生される[1][6]。
基本プロフィール
- 分類: 人物
- 欧文表記: JOSEPH CURWEN
- 初出・出典: 「チャールズ・デクスター・ウォード事件」(1927年執筆/1941年『ウィアード・テイルズ』誌5・7月号発表)
- 生年: 旧暦(O.S.)で1662年から63年にまたがる2月18日、セイラムから7マイルの地点(現在のダンヴァーズ、マサチューセッツ州)とされる[1]
- 拠点: ロードアイランド州プロヴィデンス(1692年、セイラム魔女裁判を逃れて移住)[2]
原典での描写
セイラムからプロヴィデンスへ
旧暦(O.S.)で1662年から63年にまたがる年の2月18日、セイラム・ヴィレッジ(現在のダンヴァーズ、セイラムの町から7マイルの地点)に生まれたとされる。15歳で船に乗って家を出たきり9年のあいだ消息を絶ち、戻ってきたときには生粋のイングランド人のような言葉遣いと身なりを身につけてセイラムの町に居を構えたという[11]。
1692年、魔女裁判の恐怖が広がり始めた頃、「奇矯な者、自由な者、異端の者すべての避難所」であったプロヴィデンスへ逃れた。孤独な暮らしぶりと怪しげな化学・錬金術の実験のせいで告発を恐れてのことだったとされる。当時は「血の気のない容貌の三十歳ほどの男」で、まもなくプロヴィデンスの自由市民として認められ、グレゴリー・デクスターの屋敷の北隣に宅地を購入した。家はスタンパーズ・ヒルに建てられ、1761年には同じ敷地により大きな家に建て替えられている[11]。
老いない容貌と町の噂
到来してからの年月に見合うほど老けた様子を見せないことが、まず人々の目を引いた。造船業を営み、マイル・エンド入江近くの埠頭を購入し、1713年にはグレート・ブリッジの再建に加わり、1723年には丘の上の会衆派教会の創設者の一人になったが、その間も「三十から三十五歳を大きく超えない、これといって特徴のない容貌」を保ち続けた。到来から五十年以上が過ぎても顔つきや体つきに「五年分ほど」の変化しか見えなかったことから、町の人々は次第に暗い噂を口にするようになり、彼が常に望んでいた孤立をむしろ後押しする結果になったという。墓地への執着は誰もが知るところで、あらゆる時刻・状況で目撃されたが、死体を冒涜するような行為を目にした者はいなかったとされる[12]。
ポータクセットの農場と1771年の襲撃
ポータクセット街道沿いに農場を持ち、夏の間はそこで暮らすことが多かった。目に見える使用人は「陰気な老いたナラガンセット族の夫婦」だけで、夫は口がきけず不気味な傷痕があり、妻は黒人の血が混じったとおぼしき容貌をしていたという。母屋の下屋には実験室が置かれていた[13]。
1766年以降、農場の母屋からは尋問めいた声が漏れ聞こえるようになる。見張りに立ったエズラ・ウィーデンとスミスによれば、それは「怯えた、あるいは反抗的な囚われ人から何かを聞き出そうとする、一種の教理問答」のようであったという。フランス語で交わされたある問答では、1370年のリムーザンにおける黒太子の虐殺について、大聖堂地下の古いローマ時代の地下聖堂で見つかった「山羊の印」のせいで殺害命令が下ったのか、それとも「オート=ヴィエンヌの同志会の黒い男」が「三つの言葉」を口にしたせいなのかが問われた。答えが得られないと見るや尋問者は荒々しい手段に訴えたらしく、悲鳴が一度上がったのち静まり返ったという[13]。
1771年4月12日金曜日、およそ100人がウェイボセット・ポイントのサーストン旅籠に集まった。ジョン・ブラウンが主導した計画のもと、実際の襲撃部隊を率いたのはウィップル大尉(原典では姓のみで記される)で、ボウエン医師、マニング学長、エゼク・ホプキンス大尉、ジョン・カーター、マシューソン船長らが加わり、モーゼス・ブラウンも土壇場で合流した。夜が明ける前、憔悴した一人の使者が一団に対し、静かに家路につき「かつてジョゼフ・カーウィンであった者」については二度と口にするなと告げ、事は終わったと伝えた。その後カーウィンの未亡人のもとには鉛の柩が届けられ、税関をめぐる争いで命を落としたと説明されたという[14]。
肖像画とウォードとの相似
子孫ウォードは、入手したナイチンゲール=タルボット家の書簡から、カーウィンの書斎の羽目板に肖像が描かれていたことを知り、その顔立ちを強く知りたがった。1919年8月、オルニー・コートの家を再調査し、幾重にも重なった塗料と壁紙の下から肖像を見出した。現れたのは、当惑するチャールズ・デクスター・ウォード自身の顔とうり二つの、忌まわしい高祖父の姿であった。「一世紀半を経て、ジョゼフ・カーウィンの相貌が寸分違わず繰り返された」とまで記されている。ウォードの右目の上にある小さな傷痕(あるいは窪み)は肖像のカーウィンにも同じ位置にあり、両者が過去のある時点で同種の儀式を受けたのではないかという推測を呼んだ。肖像は北の壁の炉棚飾りに掲げられ、ウォードを見つめ続けているように感じられたが、ある聖金曜日、剥がれ落ちて粉々になり、青みがかった灰色の粉となって床に散らばった[15]。
復活後の姿と最期
蘇生後のカーウィンは「アレン博士」と名乗って身を隠し、やがてウォードになりすます。1928年4月13日金曜日、病院に収容されていた「ウォード」を訪ねたウィレット医師は正体を見抜き、こう告げる。「お前がどうやって時を超えて呪をかけ、自分の分身であり子孫である者に取りつき、過去へと引き入れて自分を墓から蘇らせたか……お前が神を欺くほど彼に似た姿を隠すため、髭と眼鏡をつけて自らを示したことも、私は知っている」。追い詰められたカーウィンは両手の指でカバラ的な身振りを見せながら、しゃがれ声を隠すこともなく呪文を唱え始めるが、ウィレットの対抗呪文の方が早かった。「あの不浄な幾世紀を生き、禁断の秘密を抱えた男は、二度とこの世を煩わせることはなかった」。一年前の肖像と同じく、ジョゼフ・カーウィンは青みがかった灰色の粉となって床に散らばっていたという[16]。
別名・呼称
作中で固有の別名は与えられていない。ただし、19世紀に子孫チャールズ・デクスター・ウォードによって蘇生された後は「アレン博士」を名乗って変装していたとされる[8]。
人物像・性格
原典における直接の内面描写は乏しいが、周辺の記述からは、死そのものすら乗り越えようとする執念深さがうかがえる。死体全体あるいはその遺灰から得た「本質的な塩」から死者を蘇生させ対話する能力を会得し、これを用いて過去の賢者たちから秘密の知識を引き出していたとされる[3]。この降霊の術と並行して、老化の影響をほとんど受けない容貌を長年保っており、これが不老の噂の根拠になったという(原典に具体的な方法の説明はない)[4]。
セイラムから逃れた降霊術師仲間であるオーンおよびハッチンソンと長年にわたり文通を保っていたとされる。後年、子孫ウォードが接触したプラハの「ヨセフ・ナデク」、トランシルヴァニアの「フェレンツィ男爵」がこの2人と同一人物ではないかとも示唆されるが、原文でも「もしそれが本当に亡命した魔術師たちだったなら」という留保付きで語られており、断定はされていない[5]。老化を免れていた具体的な仕組みについても、原典に明確な説明はない[9]。
生涯・経歴
旧暦(O.S.)で1662年から63年にまたがる2月18日、セイラムから7マイルの地点、現在のダンヴァーズ(マサチューセッツ州)に生まれたとされる[1]。1692年、セイラム魔女裁判からプロヴィデンスへ逃れた[2]。プロヴィデンスでは、死体や遺灰から得た「本質的な塩」を用いて死者を蘇生させ対話する術を究め、過去の賢者たちから秘密の知識を引き出していたという[3]。
1771年4月12日、プロヴィデンスの有力市民(ウィップル大尉、ジョン・ブラウン、モーゼス・ブラウン、エゼク・ホプキンスら)による自邸への急襲の末、少なくとも一時的には死亡したとされる[6]。
数十年後の1927年、子孫チャールズ・デクスター・ウォードによってカーウィンは蘇生される[7]。蘇生したカーウィンは「アレン博士」を名乗って変装しており、自らを蘇らせたウォードがカーウィンの悪行に恐れをなして彼を再び滅ぼそうとしたところ、逆に殺害されてしまい、以後カーウィンがウォードになりすましていたとされる[8]。この事実を見破った主治医ウィレット医師が、カーウィン自身の魔術を用いた呪文によってカーウィンをその場で灰に帰し、事件は幕を閉じる[8]。物語全体としては、ウィレット医師によってカーウィンが再び(おそらく今度こそ完全に)滅ぼされたと位置づけられている[6]。
なお、本作では蘇生・召喚の儀式に用いられる呪文を通じてクトゥルフ神話の存在ヨグ=ソトースの名が繰り返し言及されるほか、カーウィンはネクロノミコンの写本の所有者としても描かれる[10]。他のラヴクラフト作品との前後関係(初出かどうか)は当サイトでは確認していない。
他の人物・存在との関係
子孫チャールズ・デクスター・ウォードは、系図調査からカーウィンの存在を知り、その禁断の研究を蘇らせようとした結果、自らカーウィンを「本質的な塩」から蘇生させてしまった当人である。物語後半では両者の人格が実質的に入れ替わり、ウォードの姿を借りたカーウィンが世に紛れ込む[8]。
プラハの「ヨセフ・ナデク」ことジェデダイア(サイモン)・オーン、トランシルヴァニアの「フェレンツィ男爵」ことエドワード・ハッチンソンは、共にセイラムから逃れた降霊術師としてカーウィンの協力者だったとされる[5]。事件の背景には、カーウィンが儀式・呪文を通じて関わろうとしたヨグ=ソトースの存在がある[10]。主治医マリナス・ビックネル・ウィレット博士は、ウォードに成り代わったカーウィンの正体を見破り、最終的に事件を終結させる役割を担う[8]。
主要登場作と読みどころ
- 「チャールズ・デクスター・ウォード事件」(1927年執筆/1941年発表): カーウィンが唯一登場する長編。17〜18世紀の魔術師が「本質的な塩」の術によって死を乗り越え、200年近い時を隔てて子孫の身体と人生を乗っ取ろうとする筋書きが読みどころ。主治医ウィレット博士の視点を通じて、ウォードの変貌とカーウィンの正体が段階的に明らかになっていく構成は、姉妹記事チャールズ・デクスター・ウォードとあわせて読むとより立体的に理解できる。
よくある誤解
Q. カーウィンは原典で明確に「不死」と描かれているのですか?A. いいえ。原典では、到来から五十年以上が過ぎても顔や体つきにほとんど変化が見られなかったという観察が示されるのみで、老化を遅らせる具体的な方法や不死のメカニズムについての説明はない[4][9]。
Q. 1771年の急襲でカーウィンは完全に消滅したのですか?A. 原典の記述上は「少なくとも一時的には」死亡したとされるにとどまる[6]。実際、その後子孫ウォードによって蘇生されており、物語終盤でウィレット博士がカーウィン自身の魔術を用いてカーウィンを再び滅ぼしたことで、「おそらく今度こそ完全に」滅びたとされる[6][8]。
出典
- [1] カーウィンは、旧暦(O.S.)で1662年から63年にまたがる2月18日、セイラム・ヴィレッジ(現在のダンヴァーズ、セイラムの町から7マイルの地点)で生まれたとされる。15歳で船に乗って家を出て9年のあいだ戻らず、帰郷した際には生粋のイングランド人のような言葉遣いと身なりを身につけていたという。— “The Case of Charles Dexter Ward”. The H. P. Lovecraft Archive. https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/cdw.aspx ↩
- [2] カーウィンは1692年、セイラム魔女裁判からプロヴィデンスへ逃れたとされる。— 同上 ↩
- [3] カーウィンは死体全体あるいはその遺灰から得た「本質的な塩」から死者を蘇らせ対話する能力を持ち、これを用いて過去の賢者から秘密の知識を引き出していたとされる。ポータクセットの農場では、囚われ人めいた存在への尋問がたびたび聞かれたという。— 同上 ↩
- [4] カーウィンは、到来から五十年以上が過ぎても顔や体つきに五年分ほどの変化しか見せなかったとされ、これが不老の噂の根拠となった。ただし原典には、老化を遅らせる具体的な方法についての説明はない。— 同上 ↩
- [5] カーウィンには、セイラムから逃れた降霊術師仲間としてオーンおよびハッチンソンという人物がいたとされる。後年子孫ウォードが接触したプラハの「ヨセフ・ナデク」、トランシルヴァニアの「フェレンツィ男爵」がこの2人と同一人物である可能性が示唆されているが、原文でも「もしそれが本当に亡命した魔術師たちだったなら(if such indeed the exiled wizards were)」という留保付きで述べられており、断定はされていない。— 同上 ↩
- [6] カーウィンは1771年4月12日金曜日、およそ100人の一団による自邸(ポータクセットの農場)への急襲の末、少なくとも一時的には死亡したとされる。実際に襲撃部隊を率いたのはウィップル大尉(原典では姓のみで記される)で、ジョン・ブラウン、モーゼス・ブラウン、ボウエン医師、マニング学長、エゼク・ホプキンス大尉らが加わった。物語終盤、主治医ウィレット医師によって、カーウィン自身の魔術を用いて再び(おそらく今度こそ完全に)滅ぼされたとされる。— 同上 ↩
- [7] 本文は、ウォードがカーウィンを蘇らせた出来事の日を「聖金曜日」と記し、それを1928年4月の顛末の「前年」の出来事と位置づけている(すなわち1927年)。— 同上 ↩
- [8] チャールズによって蘇生させられたカーウィンは「アレン博士」に変装しており、自らが蘇らせたカーウィンの悪に恐れをなしたチャールズが彼を再び滅ぼそうとしたところ逆に殺害され、以後カーウィンがチャールズになりすましていたとされる。この事実を見破ったウィレット医師が、呪文を唱えることでカーウィンをその場で灰に帰したとされる。— 同上 ↩
- [9] 原典には、カーウィンが具体的にどのような方法で老化を免れていたかの説明はない。— 同上 ↩
- [10] 本作ではヨグ=ソトースが呪文の一部として繰り返し言及され、カーウィンはネクロノミコンの写本の所有者としても描かれる。他のラヴクラフト作品との前後関係(初出かどうか)は当サイトでは確認していない。— 同上 ↩
- [11] カーウィンは1692年の魔女裁判の恐怖が広がり始めた頃、セイラムからプロヴィデンスへ逃れ、「血の気のない容貌の三十歳ほどの男」として自由市民に認められ、スタンパーズ・ヒルに家を構えた(1761年に同じ敷地でより大きな家に建て替え)。生まれや15歳での出奔についても記録がある。— 同上 ↩
- [12] カーウィンは五十年以上が過ぎても「三十から三十五歳を大きく超えない」容貌を保ち、墓地への執着でも知られていたとされる。— 同上 ↩
- [13] ポータクセットの農場には老いたナラガンセット族の夫婦だけが使用人として住み、1766年以降は母屋から尋問めいた声が聞こえるようになったとされる。フランス語で1370年のリムーザンの虐殺について問う場面もある。— 同上 ↩
- [14] 1771年4月12日金曜日の襲撃と、その後の使者の警告、未亡人への鉛の柩の到着についての記述。— 同上 ↩
- [15] ウォードが1919年8月にカーウィンの肖像を見出し、自分自身との酷似に衝撃を受けたとされる。肖像は蘇生の日(聖金曜日)に崩れて灰になった。— 同上 ↩
- [16] 1928年4月13日金曜日、ウィレット医師が「ウォード」の正体を見破り対決し、対抗呪文でカーウィンを再び灰に帰したとされる。— 同上 ↩




