概要
ムナールの地には、いかなる川からも水を受けず、いかなる川へも水を送り出さない、広大で静かな湖があります。一万年前、その岸辺には都市サルナスが立っていましたが、いまはもうありません。サルナスが建つより前、同じ湖畔には灰色石造の都市イブがあり、緑色の肌を持ち声を発しない住人たちが、水蜥蜴神ボクルグを象った偶像を崇めていました。のちに移り住んだ人間たちはイブの住人を醜いものとして憎み、若い戦士たちを差し向けて皆殺しにし、湖へ沈めました。持ち帰ったのは、ボクルグを象った海緑色の偶像ひとつだけでした。
その偶像を祀った夜、サルナスの高僧タラン=イシュは何かに怯えて死に、消えた偶像の代わりに「禍」の一語だけを祭壇に書き残しました。だがサルナスの民はその警告を忘れ、千年のあいだ「世界の驚異、人類の誇り」と呼ばれるほどの都市を築き上げ、毎年イブ滅亡の祭りを開いては滅ぼした先住者たちを嘲笑い続けました。イブ滅亡千年祭の夜、湖から昇る緑の霧とともに、かつてイブの住人を描写したのとまったく同じ姿をした群れが、サルナスの街から溢れ出します。
翌朝、サルナスがあった場所には沼地の岸辺と水蜥蜴が這うばかりで、都市そのものが跡形もなく消えていました。ただ半ば埋もれた葦の中から、かつて湖に投げ捨てられたはずのボクルグの偶像だけが見つかり、イラルネクの神殿に祀られ直して崇拝され続けたといいます。
作品情報
- 原題: The Doom That Came to Sarnath
- 執筆: 1919年12月3日[2]
- 初出: 『The Scot』第44号、1920年6月、90–98ページ[3]
- 分量: 約2,700語(公式アーカイブ本文を機械集計)。章分けなし
- 語り: 三人称。「カダテロンの煉瓦円筒」「イラルネクのパピルス」といった架空の出土文献を典拠として引用しながら語られる、年代記・史書を読み上げるような文体
- 舞台: ムナールの地、いかなる川からも水を受けずいかなる川へも水を流さない大いなる湖のほとり。先住都市イブと、後に興った都市サルナス
- 主題: 先住の者を滅ぼした報いが、滅ぼした側自身に、滅ぼした相手とまったく同じ姿を取って返ってくること
登場神格・用語
- ボクルグ — イブの住人が崇めていた「大いなる水蜥蜴」を象った海緑色の石の偶像です。イブ滅亡後にサルナスへ持ち去られましたが、その夜のうちに消え失せました。半ば埋もれた姿で最後に発見され、イラルネクの神殿で崇拝され続けています
- イブ — ムナールの湖畔にサルナスより先からあった灰色石造の都市です。湖そのものと同じくらい古く、緑色の肌と声を持たない住人たちが暮らしていました
- サルナス — イブを滅ぼした民が同じ湖畔に築いた都市です。壁・街路・宮殿・神殿・庭園のすべてが誇張された規模で描かれ、千年にわたり「世界の驚異、人類の誇り」と呼ばれました
- ムナール — スラー・イラルネク・カダテロンの三都とサルナスを含む、大河アイ流域一帯の地
- タラン=イシュ — イブ征服直後にサルナスにいた高僧です。ボクルグの偶像が消えた夜、貴橄欖石の祭壇に「禍」の印を書き残して死にました
- ゾッカル — サルナス中心部に、ガラスの丸屋根で覆われた庭園を築いた古の王
- ゾー=カラー、タマシュ、ロボン — サルナスの塔状神殿で祀られていた三柱の主神です。生者のごとく作られた像が象牙の玉座に座していたと語られています
- ナルギス=ヘイ — イブ滅亡千年祭の夜、宴を催していたサルナスの王
- グナイ=カー — その夜、湖から昇る影と緑の霧を最初に見た高僧
- アクリオン — 湖畔にそびえる灰色の岩です。滅びの夜、湖に沈んでいく様が語られ、都の運命を示す指標として機能しています
あらすじ
湖畔の二つの都市
ムナールの地には、いかなる川からも水を受けず、いかなる川へも水を送り出さない、広く静かな湖があります。世界がまだ若かった頃、湖のほとりには灰色石造の都市イブがあり、住人は「湖や、湖の上に立ちのぼる霧と同じ緑色」の肌をし、「膨れた目、突き出した弛んだ唇、奇妙な耳」を持ち、声を発しませんでした。彼らは月が満ちるたびに水蜥蜴神ボクルグを象った海緑色の偶像の前で踊り、ある日火を発見してからは祭事のたびに炎を焚いたといいます。これらはカダテロンの煉瓦円筒とイラルネクのパピルスに記されている、と語り手は断っています[1]。
幾多の時代を経て、人間がムナールの地へやってきました。羊飼いの民は大河アイのほとりにスラー、イラルネク、カダテロンを築き、より頑健な部族はさらに湖の岸まで進んでサルナスを興しました。貴金属が地中から見つかる場所を選んでのことでした。イブの住人を見た彼らは初め驚嘆しましたが、驚きにはすぐ憎しみが混じりました。「そのような姿の者が人間の世界を夕暮れに歩き回るのはふさわしくない」と彼らは考え、太古の年月に磨り減った灰色の一枚岩に刻まれた奇怪な彫刻も気に入りませんでした。イブの住人が石や槍や矢に対してゼリーのように柔らかいと知るにつれ、憎悪は募っていきました[1]。
イブの殲滅とタラン=イシュの警告
ある日、投石兵・槍兵・弓兵からなる若い戦士たちがイブへ進軍し、住人をひとり残らず殺しました。触れるのを厭ってか、長い槍で亡骸を湖へ押し流し、彼らが気に入らなかった一枚岩の彫刻もまとめて湖へ投げ込みました。ムナールのどこにも同じ石材が見当たらないことから、遠方から運ばれてきたに違いないその労力の大きさに、彼らは驚きさえしました。イブから持ち去られたのは、ボクルグを象った海緑色の石の偶像ただひとつ。征服の証、ムナールにおける指導権の印として、サルナスへ運ばれ神殿に安置されました[1]。
ところがそれを祀った夜、恐ろしい出来事が起きます。湖の上に奇妙な光が見え、朝になると偶像は消え失せ、高僧タラン=イシュは名状しがたい恐怖に襲われたかのように死んでいました。「タラン=イシュは、貴橄欖石の祭壇に、荒々しく震える筆致で『禍』の印を書き殴っていた」[1]。タラン=イシュのあとにも多くの高僧が立ちましたが、海緑色の偶像は二度と見つかりませんでした。幾世紀もの月日が流れ、サルナスはこのうえなく栄え、タラン=イシュが祭壇に残した言葉を覚えているのは、もはや司祭たちと年老いた女たちだけになっていました[1]。
世界の驚異、サルナス
サルナスとイラルネクの間には隊商路が開け、地中の貴金属は他国の金属・稀少な布・宝石・書物・職人の道具など、あらゆる贅沢品と交換されました。こうしてサルナスは富み栄え、学芸を積み、美を極め、征服の軍を近隣の都市へ送り出し、ついにはムナールとその周辺の地すべての王がここに座するに至りました。「世界の驚異、人類の誇り」――それがサルナスでした[1]。
その規模は誇張と呼ぶほかありません。磨かれた砂漠産の大理石でできた城壁は高さ300キュビト、厚さ75キュビトあり、頂上を戦車が並んで走れるほどで、全長は500スタディオンに及びました。湖に面した側だけは城壁が開き、緑色の石の防波堤が、毎年イブ滅亡の祭りのたびに不思議と高まる波を防ぎました。市中には湖から隊商の門まで50本の大路が走り、それを横切る大路がさらに50本。路面はオニキスで敷かれ、馬や駱駝や象が通る道だけは花崗岩敷きでした。街路の突き当りにはそれぞれ青銅の門があり、いまや知られていない石で彫られた獅子と象の像がそれを守っていました[1]。
家々は艶やかな煉瓦とカルセドニーで造られ、いずれも塀に囲まれた庭と水晶のような小さな湖を備え、他の都市には見られない輝くドームを戴いていました。だが何より驚くべきは宮殿と神殿、そして古の王ゾッカルが築いた庭園です。宮殿の内部は見上げれば空の下にいるかと錯覚するほどの高さで、ドスールの油に浸した松明で照らされると、王たちと軍勢を描いた壁画が浮かび上がりました。柱はすべて色をつけた大理石に精緻な意匠を刻み、床は緑柱石・ラピスラズリ・サードオニクス・カーネリアンなどを組んだモザイクで、歩く者に花畑を渡っているかのような錯覚を与えたといいます。噴水は香りをつけた水を巧みな細工で吹き上げていました[1]。
なかでも群を抜くのがムナールの王たちの宮殿で、玉座は一対の金の伏せ獅子の上、一枚の象牙から削り出された台に据えられていました。宮殿には多くの回廊と円形闘技場があり、獅子や人や象が王の意のままに闘わされ、ときには湖から水路を引いて水を満たし、海戦さながらの見世物や、泳ぎ手と海の怪物との死闘が演じられたといいます。サルナスには17の塔状神殿がそびえ、そのうち最大のものは高さ千キュビトに達し、高僧たちは王に劣らぬ豪奢な暮らしをそこで送りました。堂内ではサルナスの主神ゾー=カラー、タマシュ、ロボンが祀られ、その像はあまりに生きた姿に作られていたため、あたかも神々自身が象牙の玉座に座しているかのようだったといいます。輝くジルコンの階段を昇った塔の頂では、高僧たちが昼は市街と平野と湖を、夜は月と星々とその湖面への映りを見渡しました。ここでこそ、ボクルグを忌み嫌う秘儀が執り行われ、タラン=イシュの「禍」の印を刻んだ貴橄欖石の祭壇も置かれていました[1]。
ゾッカルが築いた庭園は市の中心にあり、大きなガラスの丸屋根に覆われ、晴れた日には太陽や月や星がそのまま透けて見え、曇る日にはそれらを象った輝く模造品が吊り下げられました。夏は扇で涼風を送り、冬は隠した火で暖め、庭の中はつねに春でした。小川が明るい小石の上を流れ、色とりどりの花園と草地を分かち、無数の橋が架かり、いくつもの滝と睡蓮の浮かぶ小さな湖が続きます。水面には白鳥が浮かび、珍しい鳥の声が水の調べに重なりました。段々になった緑の土手には蔓草と花の茂み、大理石や斑岩の腰掛けが設けられ、小さな祠や神殿もそこかしこにあったといいます[1]。
サルナスでは毎年イブ滅亡の祭りが催され、酒と歌と踊り、あらゆる種類の歓楽が繰り広げられました。かの奇怪な古き住人たちを滅ぼした者たちの霊に盛大な栄誉が捧げられ、ゾッカルの庭園の薔薇を戴いた踊り手や竪琴弾きが、イブの住人とその古い神々の記憶を嘲笑いました。王たちは湖を見渡しては、その底に眠る骸を呪ったといいます。高僧たちは当初この祭りを快く思いませんでした。消えた海緑色の偶像や、恐怖のうちに死んで警告を残したタラン=イシュにまつわる奇怪な言い伝えが伝わっていたためで、高い塔から湖の底に光を見たと語る者もいました。だが災いのないまま長い年月が過ぎると、司祭たちさえ笑い、呪いの言葉を口にしながら祭りの狂騒に加わるようになりました。彼ら自身、高い塔でボクルグを忌み嫌う秘儀を幾度となく執り行ってきたのだから、というわけです[1]。
千年祭の夜と滅亡
かくして千年の富と歓楽がサルナスの上を過ぎていきました。イブ滅亡千年祭は十年も前から語り草となり、当日にはスラー、イラルネク、カダテロン、さらに遠方の地からも人々が馬や駱駝や象に乗って集まりました。大理石の城壁の前には王侯の天幕と旅人たちの幕舎が並び立ち、湖畔一帯が浮かれ騒ぐ歌声に包まれていきます。宴の間では、征服したプナースの酒蔵から運ばせた古酒に酔いしれる王ナルギス=ヘイが、群がる貴族と立ち働く奴隷たちに囲まれて寛いでいました。饗宴には数々の珍味が並びました――中央海の島ナリエル産の孔雀、遠いインプランの丘の仔山羊、ブナジック砂漠から来た駱駝の踵、キュダスリアンの林の木の実と香辛料、スラーの酢に溶かしたムタル産の真珠。数え切れぬ種類の秘伝のソースが、めいめいの客の好みに合わせて用意されていたといいます。だが何よりも珍重されたのは湖の大魚で、いずれも途方もない大きさに育ち、紅玉と金剛石を鏤めた金の大皿に盛られ、王たちの目の前に運ばれるのを待っていました[1]。
王と貴族たちが宮殿でこの魚料理を待ちながら宴に興じている間、他の者たちも思い思いに祝っていました。大神殿の塔では司祭たちが酒盛りをし、城壁の外の天幕では近隣諸国の王侯が歓を尽くしていました。そのとき、満ちた月から湖へと影が降りていくのを最初に見たのは高僧グナイ=カーでした。続いて湖からは忌まわしい緑の霧が立ちのぼり、月へと昇って、運命定まったサルナスの塔と丸屋根を不吉な靄で包んでいきました。塔の中の者も城壁の外の者も水面に奇妙な光を見て、いつも湖畔近くに高くそびえている灰色の岩アクリオンがほとんど水に沈んでいるのに気づきます。恐怖は理由もわからぬまま急速に広がり、イラルネクや遠いロコルの王侯たちは天幕をたたみ、なぜとも知れぬまま大河アイを目指して発ちました[1]。
やがて真夜中に近づいたころ、サルナスのすべての青銅の門が一斉に開き、平野を黒く埋め尽くすほどの狂乱の群衆が溢れ出しました。訪れていた王侯や旅人たちは恐れをなして逃げ散ります。その顔には堪えがたい恐怖から生まれた狂気が刻まれ、口にする言葉があまりに恐ろしく、誰も真偽を確かめようとしませんでした。目を恐怖に見開いた男たちは、王の宴の間で目にした光景を叫んで伝えました――窓の向こうに見えたのは、ナルギス=ヘイと貴族たちと奴隷たちの姿が消え去った後に現れた、「膨れた目、突き出した弛んだ唇、奇妙な耳」を持つ、言葉を発しない緑色の異形の群れでした。彼らは紅玉と金剛石を鏤めた金の大皿に得体の知れぬ炎を載せて捧げ持ち、恐ろしげに踊っていたといいます。逃げ出す王侯や旅人たちが湖を振り返ると、霧を吐き出すその水面に、灰色の岩アクリオンはすでに完全に沈んでいました[1]。
この出来事はムナールとその周辺の地に広く語り伝えられ、以来、隊商は貴金属を求めてかの都を訪れなくなりました。長い間、誰もそこへ足を運ぶ者はありませんでしたが、やがて遠いファローナの地の、勇敢で物好きな若者たち――ムナールの民とは血のつながりのない、黄色い髪と青い瞳を持つ者たち――だけが、湖を見にその地へと赴くようになります。彼らが見出したのは広く静かな湖と、岸辺近くに高くそびえる灰色の岩アクリオンのみで、世界の驚異、人類の誇りと呼ばれたものはどこにもありませんでした。かつて高さ300キュビトの城壁とさらに高い塔が連なっていた場所には、いまはただ沼地の岸が広がるばかりで、かつて五千万の人が住んでいた場所には、忌まわしい緑の水蜥蜴だけが這っていました。貴金属の鉱山さえ残されてはいませんでした。サルナスに禍が来たのです。だが葦の茂みに半ば埋もれた場所で、海草をまとった一体の古い緑色の石像が見つかりました――ボクルグを象ったその像は、のちにイラルネクの高い神殿に安置され、以来ムナールの地全体で満ちた月の下に崇められ続けたといいます[1]。
読みどころと注目テーマ
反復される身体描写
イブの住人を描写する「湖や霧と同じ緑色の肌、膨れた目、突き出した弛んだ唇、奇妙な耳、声のなさ」という一節は、物語の冒頭でイブそのものを描くときと、終盤で宴の間に現れた異形を描くときに、ほぼ同じ言葉で繰り返されます。地の文にその意味が説明されることはなく、この言い回しの一致だけで、滅ぼされたはずの姿が滅ぼした側に取って代わったと読者に伝わる仕掛けです。
出土文献を装う語り口
語り手は随所で「カダテロンの煉瓦円筒」「イラルネクのパピルス」といった架空の文献を典拠として引き、まるで史実を記録する年代記のような体裁を取ります。滅んだはずの都市の細部までが、あたかも発掘資料の裏付けを持つ事実であるかのように語られ、物語全体に考古学的な手触りが加わります。
数字と羅列によって描かれる繁栄
サルナスの描写は、城壁の高さ300キュビト・厚さ75キュビト・全長500スタディオン、街路50本、塔状神殿17、最大の塔の高さ千キュビトといった具体的な数値と、千年祭の饗宴に並ぶ孔雀・仔山羊・駱駝の踵・木の実・香辛料・真珠といった産地入りの列挙で埋め尽くされます。抽象的な形容に頼らず、こうした過剰なまでの数量と品目の連なりによって、破滅の直前にある都市の富を、数量そのもので示す手法です。
執筆背景と影響
公式年譜によれば、本作は1919年12月3日に執筆された[2]。初出は1920年6月発行の『The Scot』誌第44号、90–98ページである[3]。それ以上の成立の経緯や、他作品との関係については、公式アーカイブに記載がなく、当サイトでは確認していません。
出典
[1] H. P. Lovecraft, “The Doom That Came to Sarnath” (本文). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ds.aspx本記事の引用・要約はすべてこの本文に基づきます。訳文は当サイトによる試訳です。
[2] “Lovecraft’s Fiction” (作品年譜). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/執筆日(1919年12月3日)ほかの出典。
[3] “Data Page for ‘The Doom That Came to Sarnath'” (作品情報・出版履歴). The H. P. Lovecraft Archive.https://www.hplovecraft.com/writings/fiction/ds.aspx初出『The Scot』第44号(1920年6月)90–98ページの出典。
関連作品ガイド ── どれから楽しむか
- サルナス — 本作の舞台となった都市そのものを掘り下げる記事
- イブ — サルナスに先立って湖畔にあった都市。本作の発端を担う
- 名もなき都市(小説) — 本文でサルナスとイブの名に触れる作品。1921年1月執筆
- 流離の王子イラノン — 同じくラヴクラフトの幻想譚。1921年2月28日執筆


