概要
灰色の都市イブを滅ぼした人間の傲慢さが、千年の時を経て報いを受ける因果応報譚。ラヴクラフトのダンセイニ風ドリームサイクル最初期の作品であり、水蜥蜴の神ボクルグの初出典でもある。
作品情報
- 執筆・発表年: 1919年執筆/1920年発表(アマチュア雑誌「The Scot」誌)
- 主題タグ: 因果応報、滅びゆく都市、人間の傲慢
登場神格・用語
あらすじ
1万年以上前、羊飼いの民がムナールの地でアイ川沿いに定住し、湖畔にサルナスを築いた。近くには月から降りたと語られる異形の民が住む灰色の石造都市イブがあり、彼らは緑色の肌に膨れた目、たるんだ唇を持ち、声を持たず、水蜥蜴の神ボクルグを崇めていた。その姿を嫌悪したサルナスの民はイブの住民を皆殺しにして都市を破壊し、ボクルグの偶像を自分たちの神殿に奪い取る。その夜、偶像は消え失せ、高僧タラン=イシュは祭壇に「DOOM(破滅)」と書き残して息絶えていた。千年後、イブ滅亡を祝う大祭の夜、謎の光と緑の霧が立ち込め、水位標はほぼ水没し、生存者は塔の窓に死んだはずのイブの住民の姿を見たと語る。翌朝サルナスは跡形もなく消え、その地は水蜥蜴だけが住む沼地と化し、ボクルグはムナールの主神として君臨することになった。
読みどころと注目テーマ
「ムナールの地に、流れ入る川もなく流れ出る川もない、広大で静かな湖がある」という開巻の一文から、本作はまるで年代記のような荘重な語り口を貫く[1]。侵略者であるサルナスの民が、異形なるイブの住民を「彼らの姿が気に入らない」というだけの理由で皆殺しにし、偶像だけを戦利品として持ち帰るという展開は、被害者と加害者の立場を単純に固定しない構図を作り出している。神殿に安置された偶像が一夜で消え失せ、高僧タラン=イシュが恐怖のあまり息絶え、祭壇に「破滅」の一語を書き残す場面は、その後千年にわたる繁栄の裏に常に潜み続ける不吉な予兆として機能する[2]。そして千年後の祝宴の夜、宴の広間の窓越しに見えたのは、もはや王や貴族の姿ではなく、かつて滅ぼしたはずのイブの住民そのものの異形の群れが、宝石をちりばめた黄金の皿を手に踊り狂う光景だった[3]。翌朝そこには都市の痕跡すら残らず、水蜥蜴だけが棲む沼地と化していたという結末は、力による征服がどれほど盤石に見えても、いずれ同じ報いを受けるという寓意を、最も直截な形で描き切っている。
執筆背景と影響
ダンセイニ卿の影響を強く受けた初期のドリームサイクル作品で、ラヴクラフト自身が確立した神話体系の中で初めて「かつて栄えた都市が一夜にして消える」という主題を扱った。ボクルグはここで初めて名前を与えられ、後の神話大系における神格の原型となった。
サルナスの民がイブを滅ぼした動機は、征服でも自衛でもなく、ただ「その容姿が気に入らない」という一点に尽きる。原典は、イブの住民が石や槍にすら「ゼリーのように脆く」抵抗すらできなかったことを明記しており、この虐殺が対等な戦いではなく一方的な殺戮であったことを隠さない[4]。この非対称性こそが、千年後にサルナスへ下る破滅を単なる怪異としてではなく、応報の物語として成立させている。
出典
- [1] “There is in the land of Mnar a vast still lake that is fed by no stream and out of which no stream flows. Ten thousand years ago there stood by its shore the mighty city of Sarnath, but Sarnath stands there no more.”(訳: 「ムナールの地には、いかなる川からも水を受けず、いかなる川へも水を流し出さない、広大で静かな湖がある。一万年前、その岸辺には壮麗な都サルナスが建っていた。だが、サルナスはもはやそこには無い」) — H. P. Lovecraft, “The Doom That Came to Sarnath”(1919年執筆/1920年発表)冒頭, 公式アーカイブ ↩
- [2] “…the high-priest Taran-Ish lying dead, as from some fear unspeakable. And before he died, Taran-Ish had scrawled upon the altar of chrysolite with coarse shaky strokes the sign of DOOM.”(訳: 「……高僧タラン=イシュは、名状しがたい恐怖に見舞われたかのように息絶えて倒れていた。そして死の直前、タラン=イシュは緑玉髄の祭壇に、震える粗い筆致で『破滅』の印を書き残していた」) — 同上、偶像消失の場面, 公式アーカイブ ↩
- [3] “…through the windows were seen no longer the forms of Nargis-Hei and his nobles and slaves, but a horde of indescribable green voiceless things with bulging eyes, pouting, flabby lips, and curious ears; things which danced horribly, bearing in their paws golden platters set with rubies and diamonds containing uncouth flames.”(訳: 「……窓越しに見えたのは、もはや国王ナルギス=ヘイやその貴族・奴隷たちの姿ではなく、膨れた目とたるんだ唇、奇怪な耳を持つ、声なき緑色の名状しがたい群れだった。彼らは、ルビーやダイヤモンドをちりばめた黄金の皿に得体の知れない炎を乗せて捧げ持ちながら、おぞましく踊り狂っていた」) — 同上、結末, 公式アーカイブ ↩
- [4] “So one day the young warriors, the slingers and the spearmen and the bowmen, marched against Ib and slew all the inhabitants thereof…because they found the beings weak, and soft as jelly to the touch of stones and spears and arrows.”(訳: 「こうしてある日、若き戦士たち――投石兵、槍兵、弓兵――はイブに進軍し、その住民をことごとく殺害した……イブの住民たちが弱く、石や槍や矢に対してゼリーのように脆かったからである」) — H. P. Lovecraft, “The Doom That Came to Sarnath”(1919年執筆/1920年発表)、イブ殲滅の場面, 公式アーカイブ ↩





